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やんやん  作者: きじねこ
13/20

3.労働戦線


 七月二十一日。つまりは夏休み二日目。

 前日、叔母さんから午前六時にリビングへ集合と厳命されていたので、僕たちは眠い眼を擦りながらそれに従った。

 そんな朝早くから起床をして、なにをしていたかと言うと――

「ほら優くん立ったまま寝ないの! しっかり体を動かす!」

「……は〜い」

 ラジオ体操だった。ラジオから流れてくるリズムに合わせてダラダラと体を動かしてます。

 高校生になってまでこれはないよ、とみんな思ったことだろう。

 叔母さん曰く、体を動かせば朝食を取る準備ができるし、お通じもよくなるとか。僕便秘じゃないYO。

 まぁ、新海さんの眠たそうな表情を盗み見てなごんだからラジオ体操はよしとしよう。

 ちなみに新海さんと同じ屋根の下で寝ていたこともあり、ちょっとだけエロい妄想を抱いたのは秘密。チキンなんで夜這いとかはできませんよ? ええ、できません。

 あ、寝室の部屋割りはジジイ案で通したよ。姫風も多数の人からの説得があり、渋々ながら了承してくれた。なにか裏が有りそうで怖いけど。

 本日は姫風からの寝込み襲撃がなくてほっとしている僕。今日も、明日もないと良いなぁ……。

 さてさて、ラジオ体操が終了すると朝食タイムに突入。キッチンからは味噌汁と煮魚の匂いが漂ってきている。

 誰が朝食を作っているかと言うと――

「さあ! ご飯ができたから座って食べようか!」

 朝からテンションの高い加齢臭だった。

 作りたての料理を、次々にダイニングテーブルへと並べている。

 本日のメニューは白米、ハムエッグ、サラダ、さよりの煮付け、コーンポタージュのようだ。和洋折衷だね。

 クラスメイトたちは加齢臭を手伝い、一通り終えたところで、順繰りに着席してイートイン。ちなみにダイニングテーブルと人数、席数の関係で、二組に分けて食べてます。

 僕は姫風、椿さん、佐竹くんの隣を避けつつ、両脇をピロシキと妹尾くんで固めて着席。

 加齢臭の手料理を先に食べた灰田くん、ジジイ、新海さん、相庭さん、国府田さんの反応は、「イケる」「味が染み込んでいて美味うまいのぉ」「んい! この小さくて細いお魚、美味おいしい!」「なんの煮付けかしら」「美味おいしいよぅ!」とこんな感じのコメントを残している。

 先のチームが食し終えると僕たちの番になり、席に着いて、いただきます、と手を合わせ、僕も朝食に箸を伸ばす。

 ……もぐもぐ。確かにさよりの煮付けは醤油とみりん味がしっかりと染み込んでいて美味おいしい。伊達だてに調理師免許持ちで料理研究家の肩書きは背負ってないなぁ、と加齢臭を少しだけ感心してしまう。

 けれど、加齢臭を賞賛するのは僕の性格的に無理なので、「優くん、ぼくの料理はどうかな? 美味しいかな? 不味いかな?」と加齢臭に話を振られても、「……そこそこ食べられるレベル」と答えるに留めてしまう。

「そっか! ぼくもっと頑張るよ!」と真っ向から切り返してくる加齢臭が眩しくて、僕はプイッと目を逸らした。

 隣で食事を取るピロシキが、ニヤニヤしながら僕の脇腹にひじを入れてくる。

「お前素直じゃねえなぁ。ま、わかる気もするが。それはそうとお前の親父オヤジさんが作った飯は本当に美味いな。オレサマ、目玉焼きを美味いと感じたのは初めてだぞ」

 どんな調理と調味料を使用したのか解らないけど、確かにお店でお金を払って食べるハムエッグよりも加齢臭作のハムエッグの方が、数倍できが良い気がする。

 だからと言って、僕は加齢臭をめないし、ましてやそれを顔に出さない。なんだかシャクだし。当の加齢臭はと言えば、僕とピロシキを眺めてはニコニコニコニコしてるし。こっち見んな。

「料理がそこそこなのは……一応これが父親あれの職業だから」と僕は加齢臭を見ずにハムエッグを指差した。

「ハムエッグが職業なわけないか。親父さんはコックかなにかか?」

 職業・ハムエッグ。新ジャンル爆誕。

「そんな立派なもんじゃないよ。ただの料理研究家」

「へ〜なかなか珍しい職種だな」

「そうだね。珍しいだけで面白味に欠けるよね」

 ピロシキが呆れたような表情になる。

「お前、父親に対してかなりひねくれてるな」

 本心から、加齢臭に対して素直になりたいと思わない。

父親あれを誉めてもお返しは蹴りしかあげられないよ、僕は」

 ピロシキが鼻白はなじろんだ。

「ドライだな。それはそうと、なんで朝から臨戦態勢なんだお前は」

「僕は父親あれが嫌いなんだよ」

 ピロシキが知ったかぶりな感じで、「典型的なエディプスコンプレックスか」と呟く。

「エディなんたらってなにさ?」

「父親殺しの代名詞だな。発達心理学の一種だ。詳しくはジークムント・フロイトで紙媒体の論文を漁れ。あ、ネット情報、特にWikipediaは信じるなよ。あれ素人情報八割だから。編集合戦とかあるから」

 ※エディプスコンプレックスとは成長過程における自我形成の一過程であり、発達心理学の一種です。

「父親殺し? 物騒だなぁ」

「お前がそれを言うか」と素で突っ込んでくるピロシキ。

 あ、昨日加齢臭を殺そうとしたっけ。まぁ良いや。

 僕は話を元に戻す。

「エディなんたらなんて興味がないからパス」

 ピロシキが僕を小バカにする感じで鼻を鳴らした。

「思考の停止はバカの元だぞ」

「バカ言うなバーカ」

「バカにバカって言われると、かなりイラッとくるな」

 朝からエディなんたらで喧嘩を吹っ掛けてきているのどっちだ!


 朝食を終えて、後片付けをしたあと、各々水着に着替えて、バイトフォームにチェンジ。

 なんでも、水着が「海の家」での制服らしい。アバウトな職場だ。


 所変わって「海の家」内部。

 きたるべきバイトでの配置を決めているところだったりする。

「まずは厨房の補助――私の補佐を担当して貰う役だけど」

 全身黒ずくめでUVケアを施した叔母さんの前に、水着姿で僕たちは勢揃い。昨日と同じ水着姿なのは男性陣だけで、女性陣は色違いを着用していた。

 僕を始め男性陣は海パン一着を連日洗って使い回そうと思っていたんだけど、この辺りは意識の違いなのだろうか。

 姫風は予告通り昨日よりも露出度が微妙に上がっていた。相変わらず恐ろしい子……。

 加齢臭一行も水着にチェンジして僕らの後ろに待機している。加齢臭はティーシャツに海パン。百合さんはパーカーの下にワンピースタイプの水着。しぃちゃんに視線を移すと、可愛らしい笑顔で迎えてくれて、控え目に小さく手を振ってくれた。僕も小さく手を振り返す。水着はオレンジ色のビキニでした。気合い入ってるね〜。

 視線を前に戻す。同時に叔母さんが僕らを見回しながらハンズアップ。

「――料理ができる人は挙手してちょうだい」

 扱いが完全に小学生だ。

 わらわらと手を挙げるクラスメイトたち。手を挙げていないのは相庭さん、新海さん、妹尾くんだけだった。

「今時の子って割りと料理をするのね〜。叔母さん驚いちゃった」

 クラスメイトはどうか知らないけれど、料理研究家の父親に変なライバル心を燃やして育った為、僕は料理を覚える年齢がとても早かった。なので、調味料の「さしすせそ」や、焼く、蒸す、煮る、揚げる、干す等、一通りの知識があり、応用・実践がまともに出来たりする。……この歳で出来る方がオカシイよね。

 なぜか加齢臭が僕に向いてウインクしながらピースサインを送ってきているけど当然無視だ。

「じゃあこの中で豚の角煮を作れる人挙手してちょうだい」

 叔母さんの要求レベルが一気に上昇する。

「うぇ〜い」とピロシキ&佐竹くん&僕が挙手。

「あらその歳でできるの? 凄いわね〜」

 叔母さんが心底感心している様子だ。

「毎年、『海の家』(ここ)ではスペアリブを出しているんだけど、スペアリブは豚の角煮と作り方が煮ているの。あとで作り方をレクチャーするわね」

 ありり? できる人間が厨房担当をさせられるかと思ったんだけど、どうやら違うみたいだ。

「坂本くんや優くんは腑に落ちないと言う顔をしてるわね」

 僕らの表情はあからさまだったのだろう。あっさりと見抜かれた。僕とピロシキは顔を見合わせる。

「いや、その」

 言うべきか言わざるべきか戸惑う僕を尻目に、ピロシキが口を開く。

「効率を考えたら料理ができる人間だけで厨房を回した方が良いんじゃないッスか?」

 僕と全く同じ考えだ。

 バイト(労働力)は適材適所。使えない人間はそこから切り捨てないといけないと思う。遊びじゃないんだから。

 僕、間違ってないよね……?

 穏和な笑みを浮かべる叔母さんが「そうね」と答える。

「効率だけを考えるとそれで正解なんだけど、一ヶ月も同じことばかりをしていると不満でいっぱいになっちゃうのよ」

 だから料理のできない人間も厨房に入れる、とのこと。

 言われてみれば「あいつだけ○○していない。楽をしやがって! クソクソッ」と要らぬ怨嗟えんさを産みかねない。


 叔母さんによるスペアリブのレクチャーが終了後、厨房担当のローテーションが決まり、かき氷、スペアリブ、焼き鳥、焼きそば、オム焼きそば、たこ焼き、イカ焼き、焼きトウモロコシ、唐揚げ等々の作り方、スイカ、メロン、お酒の出し方、ビーチパラソル、ビーチボール、レジャーシート等々の貸出しのやり方、貴重品預かりのやり方、セクハラの対処法、ライフセーバー&警察への直通連絡先を教わり、一日があっと言う間に閉幕した。


 ここからはちょっとした零れ話。

 暮れなずむ夕陽を背景に、叔母さん別荘へ帰路の最中、ジジイが叔母さんに対してこんな質問をしていた。

「わしらは調理師免許をもってないが、飯を作って販売しても良いのじゃろうか?」

 ふふ、と叔母さんが微笑しながら応える。

「調理補助って形なら良いのよ。調理師免許は雪哉がもってるし」

「ゆきや?」とジジイ。

「優くんのお父さん」と叔母さんが加齢臭を指差す。

 ジジイはふむふむ頷いたあと「名義貸しっ!?」となにかに気づいて凄く驚愕していた。


 ◆◆◆


 翌日――七月二十ニ日。つまりは夏休み三日目。

 一通りのレクチャーを体と頭に染み込ませた僕たちは、「海の家」で労働を開始した。


 バイト一日目。

 その日、筋が良いと叔母さんに太鼓判を押された僕とピロシキの両名は、焼きそばを作って売る担当に回された。

 炎天下にビーチパラソルを突き立てて、「海の家」から少しだけ距離を置いたところで作業をしているのだ。

 姫風が居ないだけでモチベーションが上がる不思議。

 姫風が居ないことは良いことなんだけど、砂が陽光を反射していて足元が暑い。てて加えて鉄板に火を通しているので、周囲の温度が五十度を越えている。

 熱した鉄板の上で豚肉、キャベツ、モヤシ、玉(麺)、塩コショウをソースに絡めながら、焦がさないようにかき混ぜて、パックに詰める行程を交代で黙々とこなしストックを増やしてゆく。

 鉄板からの熱と砂(真夏の照り返し)のダブルパンチでへばっている僕。ピロシキは余裕綽々で涼しい顔。同じ作業を交代でしているのになぜだ。交代したばかりの僕は既に汗だくで、ヘラを握る手の感覚がおかしいのに。

「優哉見てみろよ、あの子可愛くね?」

 隣に座るピロシキが五月蝿い。

「おぉ、あっちの子も可愛くね?」

 今は僕が焼きそばを作る担当なので、ピロシキの示した方向を眺めている余裕がない。

「うお〜、そっちの子は乳でけぇ!」

 熱いし暑い。このままだと血液が沸騰しそうだ。

「おぉ! あの子モロタイプだ。ちょっと声かけてくる」

 モロタイプな子のところへ歩み出そうとピロシキがこの場をつ。

「遊びに行くのは良いけど、帰ってきたら鉄板に押し付けるからね」

 ジュ〜って。

 きびすを返したピロシキがこちらに戻ってきた。

「行かないの?」

「お前マジで鉄板に押し付ける気だろ?」

「冗談だよ」

「目が笑ってねえから」


 バイトニ日目。

 僕は単独でお酒の売り子担当に任命された。クーラーボックスを抱えてあてもなくブラブラしてなさい、と言われたのでブラブラすることになる。


 ピロシキと灰田くんがかき氷の担当をしている。

 客層は言わずもがなの若い女性。年齢は下が二十三、四から上は三十一、二。

 さすがと言うべきか、イケメン二人で、この「海の家」史上最高売上値を叩き出したことがこの日に解る。

 ちなみに灰田くんはかき氷を作ることに専念し、ピロシキが販売を担当していた。

 女性客に話しかけられた灰田くんが震えていたのはなぜだろう?

 特筆すべきはピロシキが終始尻をガードしていたこと。灰田くん対策だそうだ。


 バイト三日目。

 その日は僕と妹尾くんがかき氷を担当した。

 妹尾くんが売り子をすると客足が遠退とおのいた。

 僕が売り子を担当すると、低年齢の女性が主要客層となった。

 年下である中学生たちに「このあと暇ならどこか遊びに行かない?」とからかわれた。

 そのたびに、明後日あさっての方角からかワカメが飛んできては、客の顔面にそれが巻き付く現象を目撃するはめになって非常に怖かった。

 お陰でかき氷の屋台リース前はちょっとしたホラーだった。

 それはまあ、置いておくとして、極めつけのお客さんが小学生。その子のこんな一言に僕はへこんだ。

「お兄ちゃん、彼女いないでしょ? わたしが彼女になってあげても良いよ?」

 僕涙目。小学生から見ても、僕はからかいの対象でモテないように見えますか。そうですか。ちなみに主要客層の年齢は小学生低学年から高校生だった。


 バイト四日目。

 その日僕は店内でスペアリブをひたすら増産していた。

 よって外の様子はまったく知らない。お酒の売り子をしていたピロシキの話によると、佐竹くんとジジイがかき氷の担当日だったらしい。客層は老若男女が分けへだてなく。

 売り上げは第三位。佐竹くんは叫んだりのたうち回ったりしていただけで、邪魔しかしていなかったとのこと。つまりこの売り上げはジジイ一人のお陰だったとか。人徳を持つものは相変わらずなにをさせても凄いね。


 バイト五日目。

 その日僕は三階層に位置する貴重品預処での番を一任されていた。店内は冷房が運転していて快適。眠くなる。幸せ。昼食の呼び込みに訪れたピロシキにぶち殴られた。

 これまたあとで小耳に挟んだ話だけど、至上最高売上値第二位を叩き出したのが鈴城三姉妹だとか。

 かき氷作りを担当したのは無表情の姫風。ひたすら作り続けたらしく、売り上げは実質ゼロ。当然だ。黙って座ってペダルをごりごり回していただけなのだから。

 第二位の売り上げ実績は、売り子を担当したしぃちゃんがロリコンの男性客、男装の麗人・椿さんが女性客を呼び込んだお陰らしい。


 バイト六日目。

 その日僕が担当したのは二階層に保管している遊具の貸出しだった。それなりに忙しくて、けれど冷房が効果を発揮していて快適。結果、やっぱり眠くなる。幸せ。昼食の呼び込みに訪れた姫風に添い寝とハグをされた。あとでピロシキにぶち殴られた。

 ちなみに本日のかき氷担当は、新海さんと相庭さんと国府田さんだった。実に楽しそうだった。僕は新海さんのうなじが眺められて眼福だった。売り上げはそこそことのこと。


 バイト七日目。

 その日僕は店内で給仕ウェイターに徹していた。

『目の回るような忙しさ』と言う表現があるけど、まさにそんな感じ。

 客からオーダーを聞いては端末機リーダーに打ち込み、厨房に送信。

 それを受けた加齢臭が注文品を仕上げる。僕たちが仕上がったそれらの料理をトレーに載せて客へ配膳・食器類の回収を繰り返す。

 忙しくて暑い。一階層の作りは常時吹き抜けの為に、冷房が運転できない。なので暑い。

 連日給仕に徹していたピロシキがイライラしていて、冷房部屋でゴロゴロしていた僕をぶち殴ったのもなんとなく解る気がする。あとで僕もピロシキをぶち殴ることにする。


 あ、この日のかき氷担当は叔母さん(四十二歳)と百合さん(三十七歳)の高齢ツートップ。

 三階で金庫番をしていたピロシキ曰く、人だかりは出来ていたけど、客層は小学生とおっさんばかりだったとか。売上も総じてかんばしくなかったらしい。


 夏休みの間、かき氷作り担当は終始このローテーションだった。


 ◆◆◆


 バイト八日目。

 店内(海の家)にはこんな張り紙が複数の目につく箇所に貼ってある。

『セクハラ禁止。された方はしかるべき処置を取らせていただきます』

 酒に酔った客やナンパ目的のお兄さん方が、給仕の尻乳太股しりちちふとももをタッチしてくるらしい。うらやまけしからんことだ。

 前置きはこれくらいにして、つまりトラブルが発生した。トラブルの内容はもちろんセクハラ。

 ことの発生はお昼時だった。

 オーダーメニューを届けて厨房(スタッフブースとなっていて、客からは死角となっている)に戻ってきた相庭さんが、「最悪」と愚痴をこぼしながら、カウンターに体を預けてきたことが事態の発覚に繋がったのだ。

「どうしたの?」とスペアリブを増産中の僕。

 相庭さんは険しい顔で逡巡しゅんじゅんしたあと、「なんでもない」と告げた。

 どうみてもなにかしらの問題が有った顔だ。

 そこへ同じくオーダーメニューを届けて戻ってきた国府田さんが、「……また触られたよぅ」と涙目で告げた。

 僕は「『また』ってどういうこと?」と涙目の国府田さんにたずねる。

 すると国府田さんは涙目のまま逡巡した挙げ句、「……あ、足を」と小さく返してきた。

 国府田さんと相庭さんの話をまとめるとこんな感じだ。

 被害に有った相庭さんはお尻を、国府田さんは太股を触られたとのこと。二人とも店内で給仕に追われていた時に特定の客からタッチされたらしい。うらやまけしからん!

 そのエロ羨ましいエネルギーを憤慨に変えて、「どの人? 僕、注意してくるよ」と言うが、相庭さんと国府田さんは揃ってこう返してきた。

「切りがないから注意しなくて良い」

 つまりは、今まで黙っていたけど、何度もセクハラに遭遇していたらしい。女の子的には最悪な話だ。

 このままではいけないと思い、叔母さんに「セクハラはどうにかならないのか」と掛け合うと、「ごめんね。毎年毎年事前の予防策は取れないの。巡回にくる巡査長(警官)さんにあとで告げるしかなくて、後手に回るしかないのよ」とのこと。

 ことを大きくして、「海の家」を騒動に巻き込みたくないのかも知れない、と邪推してみる。

「納得してない顔ね」と叔母さん。頷く僕。

「セクハラは現行犯じゃなくても逮捕して貰えるのよ?」

 そうなのか。でも、セクハラするようなやつは一発くらい殴りたい。

「手は出さないでね。営業停止になるから」

 釘を刺されてしまった。

「セクハラをされた本人がやり返すなら良いけど、他の人が手を出すと、事態は悪化するのよ」

 過去に同じようなことがあり、営業停止のき目をらったと叔母さんに嘆息されてしまった。

 セクハラに毎年頭を悩ませていることが、叔母さんの様子から垣間見れた。

 一応セクハラの対応はしている。

 予防線にはなっていないけど、張り紙を増やしているし、巡査長の立ち寄り巡回も増やして貰っている。

 けれど、どれも効を奏してはいない。

 作ったスペアリブを摘まみ食いしながら唸る僕。美味うまし。

 セクハラされた本人以外が手を出すとアウト。セクハラされた本人は気持ち悪くてやり返せない。

「……どうにかならないかな」

 思考すれども名案は浮かばない。自分が手出しできない問題は歯痒くて仕方がない。

 と、そこへ――

「…………もぅ、やだ」

 安産型のお尻を押さえた涙目の新海さんが厨房に戻ってきた。なにをされたかは明白だった。

「叔母さんごめん」

「え? なに? 優哉くん」

 隣の厨房で焼き鳥を増産していた叔母さんが、僕の突然の謝罪に困惑している。

 僕はスペアリブを増産していた火を止めて、新海さんに詰め寄った。

「新海さん、誰にやられたの?」

「え、鈴城くん? なに?」

 急接近したせいか、新海さんの肩とトレードマークのポニーテールがびくりと跳ねる。

 今更ながら女の子に「セクハラされた?」と訊くのは失礼な気がしたけど、意を決して口を開く。

「……その、セクハラされたんだよね?」

「さ、されてないよ?」

 ギョッとした新海さんは、僕の目を見ずに否定する。その目は全力でせわしなく泳いでいる。

「さっき国府田さんと相庭さんからも聞いたんだ。特定の客からセクハラされてるって」

 好きな人がセクハラに逢って平然としているやつは男じゃない。相手が強かろうが、893だろうがぶち殴ってやる。

 辛そうな表情の新海さんが、俯いて肩を震わせている。

「……梨華たちも話したんだ。……あの……わ、わたしも……せ、セクハラされました」

 今にも泣きそうな新海さんの様子に低沸点な僕はセクハラ野郎を殺すと決めた。

「ちょっと注意してくるから誰にセクハラされたか教えて欲しい」

 新海さんが厨房からこっそりと客間を覗きこみ、「あの人」と目配せする。

 国府田さんや相庭さんにも確認を取ると、同様の人物で間違いないと言質げんちをいただいた。

 示された「あの人」――セクハラ野郎は、餃子の○将みたいな座敷仕立ての店内・一区画にて、だらしなく胡座あぐらをかき、唐揚げをムシャムシャと食していた。セクハラ野郎は大学生くらいの若いお兄さんで、頭髪を金に染めている。けれど、頭頂部は黒いプリン頭。そろそろ毛染めの時期みたいだ。傍らには同年齢くらいのお兄さんやお姉さん方総勢八名が居て、昼間からビールをグビグビ飲んでいる。

 お世辞にもガラの良い集団とは言えない。

 服装、髪型を聞いて誰かを再確認プラス把握した僕は、拳を固めた。

 目元を拭った新海さんが、場を和ませようとしたのか、「よく見たらあの人の髪の毛、鳥の巣みたいだね」と一言。

「鳥の巣?」と僕。

 新海さんが指を差したセクハラ野郎の頭は、確かに鳥の巣にも似ていた。軽く吹きだす。

「ちょ、ちょっと言ってきます」

 気を取り直した僕は、厨房から一歩、二歩と歩み出る。殴る殴る殴る殴る、と思考はそれ一辺倒。

 厨房の外――店内は賑やかで、お兄さん方が居る客席辺りは一層騒がしい。そこへ近づくにつれてゲラゲラガヤガヤ度合いが増してゆく。

 距離にして三メートルまで接近したところで、新たなセクハラ現場に遭遇。

 頻繁にセクハラをしているらしいお兄さんが、彼の横を通り過ぎる給仕・姫風の尻を撫でようと手を伸ばしたのだ。

「ひめ――」

 急いで姫風に注意を促そうと声を上げた瞬間――

「いっ!?」

 セクハラをしようとしていたお兄さんが、伸ばしていた腕を突然押さえて、その場へ倒れ込んだ。丸くなって悶え始めているのだ。

 傍目から観ていても、誰がなにをやったかまったく解らない状態だ。解らないけれど、恐らく犯人は僕の目の前で無表情のまま歩み寄ってくる姫風に違いない。

 僕の傍らまでやってきた姫風に、視線でお兄さんを指しながら、《なにをしたの?》とアイコンタクト。

 対する姫風は《ゆう愛してる》とにべもない。

 曰く「蚊を叩いただけ」らしい。

 図らずも、セクハラお兄さんの撃退が終了した瞬間だった。

 姫風に手を出したのが運の尽き。最終兵器姫風に御用心。なんだよ最終兵器姫風って。つい心の中で笑ってしまう。

 おっと、笑っている場合ではなかった。

 セクハラお兄さんの周囲に野次馬と言う名の人だかりが出来つつある。店内の客が大集合って感じだ。

 ……え〜と、ここでお兄さんを殴ったら、僕、最悪なやつだよね?

 仕方ないので、心配そうなフリをしてセクハラお兄さんに近づく。

「お客さん、どうされました?」

 声をかけども、セクハラお兄さんは「う〜う〜」と脂汗を垂れ流しながら唸るだけ。

 肩口は紫色に晴れ上がり、肩自体は曲がっちゃいけない方向へ曲がっている。観察終了。姫風遣り過ぎ。

 心配を装い、セクハラお兄さんの連れ――髪をう○こ色に染めているお姉さんにたずねてみる。

「この人どうされたんですか?」

「突然倒れて唸りだしたんだよ! 早く救急車呼べよ!」

 よく見てよ、ただの脱臼だよ? すぐ治せるよ?

「救急車を呼ぶほどのことじゃないですよこれ」

 う○こ色のお姉さんに凄まれた。

「はぁっ!? 良いから呼べよ救急車!」

 凄む暇があるなら、その手に握り締めている携帯電話で呼べば良いのに。

 その他のお兄さんやお姉さん方が、ギャーギャー喚き散らし始めたけど、それを無視して、外で焼きそばを増産していたジジイを呼んだ。

「なんじゃ?」

「忙しいところ悪いんだけど、脱臼した人が居るみたいだから手を貸して欲しいんだ」

「御安いご用じゃ」

 脱臼とは受け皿からズレた状態を指す、と保健の教科書に書いてあった。向かい合う関節――つまり骨と骨の連結が崩れた状態を戻せば、正常な状態になるはずだよね。強引に戻せば靭帯じんたいは傷つくだろうけど……。

 ま、脱臼、捻挫の処置に慣れているジジイが傍に居るからやっちゃうけどね! セクハラお兄さんに情けや容赦は必要なし。


 取りあえず、結論から言うと、脱臼は治せた。


 身体と腕を両側から全力で引っ張り、肩と肩口が浮いた箇所へ強制的にひねりながらじ込んだのだ。

 処置の間、セクハラお兄さんは絶叫、阿鼻叫喚、一瞬気絶、鼻水涎垂れ流しで、かなりカッコ悪かった。

 肩を外され慣れている僕からすれば「大袈裟だなぁ」の一言に尽きる。え? 大袈裟じゃない? そこは、まぁ、流してよ。

「これで冷やして下さい」

 騒ぎを聞き付けた叔母さんが、ビニール袋に氷を詰めて、セクハラお兄さんに差し出す。礼を言いつつそれを受け取るお兄さん。バラけていく野次馬。元の喧騒に戻る店内。

 残りの事態推移は大人に一任するとして、ジジイには礼を述べて焼きそば増産に戻って貰い、僕は傍らで僕とジジイの成り行きを眺めていた姫風を引き連れて、厨房に戻る。姫風が厨房の戸を閉めたことを確認してから、称賛の声をかけた。

「よくやった姫風!」

 功労者たる姫風を褒めるけど、「なにを?」とばかりに姫風は首を傾げている。

「よくセクハラ野郎を撃退してくれた!」

「…………?」と姫風は珍しく訝しむように僕を眺めてくる。

 抜群のプロポーションを持つ姫風にとって、セクハラは日常茶飯事なのかもしれない。

「ま、なんにしても、偉い偉い」

 僕は姫風に笑顔を向けてピースサイン。

 しかし姫風は――

「……解らない。突然ゆうが私に笑顔で『よくやった』『偉い』等の賛辞。私はなにもしていないのにこの賛辞。これも友達化現象の副産物? 友達は予測不可能で困る」

 無表情な顔でぶつぶつ呟きながら、オーダーの給仕に戻っていく。


 脱臼の事実を叔母さんに伝えたところ、店内の張り紙に変化が現れた。

『セクハラ禁止。された方はしかるべき処置を取らせていただきます』

 と明記されていた張り紙は、

『セクハラ禁止。された方は肩が外れます』

 に書き換えられて、張り直されたのだ。

 張り紙を見たお客さんの反応は、揃って首を傾げたり、理解不能って感じの奇妙な目を向けるだけ。

 事実は小説より奇なり、と言うやつですな。ちょっと違うか。

 つまるところ、日本一近寄りたくない「海の家」が誕生しただけだった。


 ◆◆◆


 初めの二週間は終始クタクタになりがらバイトに打ち込んでいた。けれど、その二週間を境に、手を抜くことを学習し始める。ミスも増える。つまり、事故が起こりやすい時期。

 案の定、些細なことで、僕とピロシキと国府田さんが喧嘩をして、客に迷惑をかけてしまった。

 それによる被害は少なかったので、僕ら三人は「ほっ」と胸を撫で下ろした。

 叔母さんと加齢臭から厳重注意を喰らったのは言うまでもない。


 ◆◆◆


 時期は一気に飛んで、バイト十五日目。

 姫風の露出が過多になってきた時期であり、バイトの折り返し地点でもある。

 日付は八月五日。今はその日の午後十時過ぎ。

 そろそろ夏休みの課題に手をつけないとヤバイ時期だ。

 僕以外のクラスメイトは、バイト初日から、黙々と課題をこなしていたので、今や残りわずかと言ったところらしい。今も課題を各々の部屋で片付けている最中だ。

 ……僕はと言うと――

「……姫風、課題しゅくだいくらい自分でやるから返してよ」

「ゆうの課題は私の課題」

 ダイニングテーブルにて、姫風の右隣で、自分ぼくの課題を姫風からもぎ取ろうとしていた。巧みに僕の腕をかわす姫風に少しずつ苛立ってくる。

 当の姫風は既に全五教科の課題を終えているらしい。頭が下がる思いだ。

 ダイニングテーブルには他に、加齢臭、百合さん、椿さん、紫苑しぃちゃん、叔母さんが居て、テーブルを囲んで、コーヒーや紅茶で一服中。

 しぃちゃんは残り数ページとなった宿題を片付けている最中だ。

「私も手伝おう」と傍らから抑揚のない声音が聞こえてきた。椿さんだ。

 僕の左隣に腰掛けた椿さんが、僕の課題の一つを手に取り、不機嫌な表情でパラパラとめくり始める。

 なにも眉間にしわを寄せてまで助けてくれなくても……。

「モテモテね優哉くん」と正面に座る叔母さんが言う。

「……そう見えますか?」

 僕にはそう見えないし思えない。叔母さんの目は節穴に違いない。

「ええ、姫風ちゃんも椿ちゃんも優哉くんが大好きで、構ってあげたいオーラが出てるのよ」

 なにそのオーラ。

 僕はチラリと椿さんを盗み見る。

 椿さんはやはり不機嫌な表情で、課題にシャーペンを走らせている。

 表情を見るに、椿さんが「僕を大好き」と言うのは無いね。課題を手伝ってくれているのは、姫風が手伝っているから、といった理由だろうし。

 加齢臭の隣で黙々と宿題をこなしていたしぃちゃんが、笑顔をこちらに向けて、「しぃも」と言った。

「どうしたのしぃちゃん?」と僕。

「しぃもお兄ちゃんが好きだよ♪」

 不意に『僕とチュッてしたい』なんておっしゃったしぃちゃんの声音が脳内で反響して頬がカッと熱くなる。

「好き」を(姫風以外に)臆面おくめんもなく言われると、流石さすがにテレる。

「お兄ちゃんはしぃが好き? それとも嫌い?」

 僕が黙り込んでいたせいで、しぃちゃんが不安な面持おももちになっている。急いでしぃちゃんに応えなければ。

「僕もしぃちゃんが好きだよ♪」

「えへへ、同じだね♪」

「うん同じだね♪」

 僕とのやり取りに一頻ひとしきりの満足を得たのか、しぃちゃんは鼻唄を口ずさみながら宿題を再開する。鼻唄に合わせて、金髪ツインテールがゆらゆらと波打っている。

 我が家のマスコットに癒された僕は、姫風と椿さんがだ着手していない課題に手を伸ばした。なんで英語しか残ってないんだよ。せめて現代国語にほんごを残しておいてよ。

 口内でブツブツとモンクを垂れ流していたけど、先ほどから視線で僕の顔に穴を空けそうなほど眼力を注いでいた姫風に耐えきれなくなり、右隣へ振り向いた。

「……なに?」

「ゆう、私は?」

「……なにが?」

「私のことは押し倒したい?」

 視線をナチュラルに姫風から課題に移した僕は、それをパラパラとめくる。

 ……え〜となになに? この例文を英語に訳しなさい? 【天高く馬肥ゆる秋】……一発目から解んないよ。

「椿さん、『秋』の英単語を教えて下さい」

 椿さんが数学の課題から顔を上げて、僕に視線を向ける。しかし筆記は続けたまま。……地味に凄いことするよこの人。

「『秋』は『autumnオータム』か『fallフォール』だ。文によって使い分――ひっ!?」

 抑揚のない声音が一変。椿さんが突然悲鳴を上げながら椅子から転がり落ちる。

「……なにしてるんですか?」

「そ、それ」と素早く立ち上がり僕から距離を取った椿さんが、数秒前まで座っていた自分の椅子を指差す。

 なんだろう? と指された箇所を凝視すると、椿さんが座っていた部分にシャーペンの芯が四本も刺さっていた。

「……シャー芯て木材に刺さるんだ」

 黒光りする細脆炭素素材に戦慄せんりつを覚える日が来ようとは……。

「いきなりシャー芯を投げつけるなんて酷いじゃないかっ!」

「酷くない」

 僕を挟んで姉妹口論始まる。構図的には僕の左隣に、立ち上がり身構える椿さん。僕の右隣には課題の筆記を休めて椿さんを睨殺せんばかりに見つめている姫風。姉妹喧嘩は他所よそでやってくれ。

 あと百合さんたちはなぜ止めようとしないのだろう。

「ゆうは私のもの」と脈絡なく、僕の思惑を無視しながら発言する姫風。

 椿さんが返す。

「私は姫風からゆうやを取り上げていない! 思い込みでシャー芯を投げるのは酷いじゃないか!」

「思い込み? 今椿は英単語を教える素振りを見せながら、さりげなくゆうに触れようとした。これは極刑にあたいする」

「私はゆうやに、ふ、触れようとなんてしていないっ!」

「嘘。椿はゆうが好き。ゆうを触りたい。ゆうとイチャイチャしたい。結果、私にシャー芯で射ぬかれる。どの辺りが思い込み?」

 椿さんが僕のことを好きだなんて有り得ないので、徹頭徹尾姫風の思い込みだと思う。

 さてさて、椿さんはどう反論するかな? と僕は双子姉妹の姉を見やる。

 しかし――意外なことに、眺めた椿さんの表情は意表を突かれた者のそれだった。つまりギョッとした表情に成り代わっている。一体全体どうした暴君ぼうくん

 不意に僕を一瞥した椿さんと目が会う。口元がぁゎぁゎしている。さっきから一体全体どうした暴君。ぁゎぁゎを引っ込めると、僕からぷいって感じで顔を背けてしまった。ぷいって。子供か!

 深呼吸をしつつ、間を数秒置いた椿さんが、不機嫌さをいつもの二割増しくらいにした表情で言う。

「わ、私がゆうやを好き? い、イチャイチャ? そ、そんなことは、ないっ! ないったらないぞっ!」

 力強く否定した椿さんを無視するように、姫風が再度断定する。

「椿はゆうが好き」

「……だ、だから好きでは――」と返答する椿さん。

「つまり椿はマイエネミー。略してマイエネ」

 そこを略す必要はあるのか。

「マイエネっ!? ち、違う! 私は姫風の味方だ!」

 椿さんが凄く狼狽ろうばいした。

「では、ゆうのことは好き? 嫌い?」

「ふ、普通かな」

 椿さんの声音が盛大に裏返る。姫風が間髪入れず応えた。

「私に嘘は通じない」

 どのように答えても、行き着く先は、強制的に僕を好き。姫風の思考回路は偏見へんけんちている。

 うぐぐぐと顔を険しくしている椿さんが、可哀想過ぎるので、ここは助け船を出すとしよう。

「あのな姫風、これまでの僕に対する椿さんの態度を見れば、僕のことが嫌いだって明白だろ?」

 僕と一緒に居る時は常時不機嫌な表情がデフォルトの椿さん。好きか嫌いかと問われたら、一目瞭然で僕を嫌いと答えるに決まっている。さっきの「普通」はオブラートに答えてくれたに違いないのだ。

 僕がそう言うや、百合さん、加齢臭、叔母さん、しぃちゃんが「え?」と言う拍子抜けな表情を僕に向けた。

 そして、今まで不機嫌な表情だった椿さんが、突然泣きそうな表情に一変する。

「……ちょっと出てくる」

 言うや肩を落とした椿さんがダイニングからさっさと消えてしまった。

 突然出ていった椿さんの真意が解らず、僕は椿さんが立ち去ったダイニングのドアを眺める。

 何故だろう。姫風以外の視線が僕を刺している気がする。

 そのまま沈黙が体感で二分ほど続き、場の空気に耐えきれなくなった僕が口を開こうとした瞬間、百合さんが口を開いた。

「……私の娘にツンデレが居たなんて」

 百合さんが微妙にショックを受けている。つか、なんの話だ。

 空気を読まない加齢臭が百合さんに向いて唐突にこう言った。

「ぼくらの息子もツンデレさ!」

 加齢臭おまえは黙ってろ。

「親父は静かに夜食でも作ってろ」

 かぶりを振りながら僕が言うと――

「ん? やっぱりぼくの手料理が食べたいのかい?」

 加齢臭から陽気に返された。

 連日朝食で食べてるよ。美味しいよ。でもそんなことは口が裂けても言わないよ。

「はいはい食べたい食べたい」

「凄くやっつけだね! けどぼくは作るよ! 待っててね!」

 以上、息子に利用されて喜ぶ父親の図でした。

 キッチンに追いやった加齢臭の背に嘆息を送りつつ、面倒な課題を再開するけど、思わぬ横槍が入った。

「……お兄ちゃん、今のは酷いと思う」

 向かいの席に座るしぃちゃんからやんわりとたしなめられたのだ。

「え、僕の親父に対する扱いはいつもあんなものだよ?」

「それも酷いと思うけど、椿つぅちゃんのお話だよ。つぅちゃんはお兄ちゃんを嫌ってなんかないんだよ?」

「え〜?」

 いくらしぃちゃんの意見でもこればかりは受け入れられない。と言うか信じられない。

「え〜じゃいよぉ? つぅちゃんはしぃと一緒だよ? つぅちゃんはお兄ちゃんのことが大好きなんだよ?」

「え〜?」

 ぷくっと可愛らしく頬を膨らませるしぃちゃん。

「もぉ〜お兄ちゃんは鈍感さんなんだから〜」

「え〜?」

 ぷくっをやめたしぃちゃんが「あ」と声をあげる。

「でもねでもね、いくらつぅちゃんがお兄ちゃんのことを好きでもね、お兄ちゃんのことは、しぃが一番好きなんだよ?」

 しぃちゃんは打算も裏打ちもない性格だ。しぃちゃんの包み隠さない発言に僕はやっぱりテレる。兄妹愛だと解っていてもテレまくる。

 だから僕はテレ隠しに叫ぶ。

「こんな可愛い妹が持てて僕は幸せだっ!」

「しぃも優しいお兄ちゃんができて幸せ♪」

 ニコニコしているしぃちゃん。

 幸福感に包まれる僕。

 その幸福感を、当然の如く姫風がぶち壊す。

「黙って流してあげていたけど、紫苑しおん、そこだけは聞き捨てならない」

 そこってどこだ。

「ゆうは私が一番好き。これは真理」

 真理大好きだな姫風。

「哲学を語りたいならジジイでも呼ぼうか?」

 嘆息する僕の傍らにまでやってきて、しぃちゃんが首を傾げる。

「お兄ちゃんは姫風ひぃちゃんが一番好きなの?」

 椿さんがしていた椅子のシャー芯を引き抜き、しぃちゃんに座るよう促した。

「それは無いよしぃちゃん。僕に関する姫風の言動は無視して良いからね」

「そうなのひぃちゃん?」

 僕の左隣に座ったしぃちゃんが、僕を挟んで姫風に問いかける。

「ゆうは私が好き。これは結論」

 姫風が自信満々に言ってのける。

「姫風はちょっと黙ろうか――っと、メールだ」

 姫風としぃちゃんの微妙な問答を他所よそに、着信を告げる携帯電話をポケットから取り出して、電子手紙を確認する。差出人は、お、新海さんだ。なんだろう?

 階上に居るであろう新海さんに想いをせながら、ワクワクを顔に出さないよう内容を確認。

 なになに? 『十一時頃に「海の家」まで来れますか?』ですと?

 携帯電話の時刻は午後十時半を示している。こんな時間に呼び出し……? 普通に思考するなら電話では伝言できない内緒話。もしくは横暴な姫風についての苦情。邪推するならそれに関するポニ天による人誅か、多数の人海戦術による袋叩き。袋叩きにされるようなネタを提供したっけ?

 なにはともあれ新海さんに行けるむねを返信して、時刻を確認しつつ、携帯電話をポケットにしまった。

 新海さんから連れだって出るような感じの返信が来ないので、どうやら「海の家」まで別々に行くようだ。

 再度確認した時刻は十時半過ぎ。え〜と、ここから「海の家」まで約二分の距離だから、十分前に出れば余裕だよね。

 確認を終えて「ふぅ」と一息つく。なぜか気疲れしている自分に内心で苦笑い。

「さてさて課題の続きをしますか」と呟きながら、それに再度着手開始。

 開始しようとしたけれど、とっても視線が痛いです。

 メール中から感じていた威圧感――穴が飽きそうなほどの視線に右隣を見やる。

「……僕の顔になにか付いてる?」

 姫風がスッと僕の顔を指差す。こら人の顔を指差しちゃいけません。

「不気味」

「なにが?」

「顔」

 一瞬頭が真っ白になった。

「無表情が標準装備の姫風に顔が不気味とか言われた! 無表情が標準装備の姫風に顔が不気味とか言われた!」

「なんで二回言うの? お兄ちゃん」

 しぃちゃんが立ち上がって叫ぶ僕を不思議そうに眺めている。

「大切なことなんだよきっと」

 加齢臭が訳知り顔風にキッチンから告げてくる。

 僕は外野を無視して姫風に反論した。

「僕のどの辺りが不気味なんだよっ!?」

 自慢じゃないけど表情を「不気味」と言われたのは初めてだ!!

「携帯電話を覗いてニヤニヤ。不気味」

 OH!! 顔にワクワクが出てたのか!! これはマズイ!!

 顔をひきつらせる僕に姫風が追い討ちをかけてくる。

「相手はたぬき」

「ぶふっ」

 唾と鼻水が吹き出た。

 姫風の的確なピンポイント爆撃に恐れおののく。

「な、なんでメールの相手が新海さんなんだよ?」

 急いで取りつくろう僕の声は裏返っていた。

 エスパーかもしれない姫風が言う。

「統計」

「と、とうけい?」

 無表情な姫風がコクリと頷く。

「坂本、黒マッチョ、椿とのメールや電話程度では、ゆうの表情は変わらない」

 まぁ、野郎からのメールや電話の着信に対して喜ぶ性癖は持ち合わせてないし、椿さんとのメールや電話は常に緊張していて、ただただ怖がってるだけなんだけどね。

 姫風が続ける。

「けれど」

「け、けれど?」

 姫風が僕から僕の左隣はいごに居るしぃちゃんに視線を移す。

「紫苑、たぬきとのメールや電話は、ゆうの表情が不気味になる」

 姫風がしぃちゃんから僕に視線を戻す。

「ゆうは二人のメールや電話を受信するとニヤニヤしてる。いつも隣で見てるから解る」

 推測の域を超えた情報――姫風の指摘になにも反論できない。僕は口をパクパクと開閉するだけで言葉らしい言葉が出てこない。

 しいちゃんがそんな僕を見上げながら口を開く。

「たぬきさん?」

 首を傾げる仕草しぐさが可愛らしいけど、なんと答えれば良いのやら……。

 空気をえて読まない姫風が冷酷無比に告げる。

「ゆうの浮気相手」

「オイッ!」

 素ツッコミさせんな!

 しぃちゃんが核心に飛び込んでくる。

「お兄ちゃんはそのたぬきさんも好きなの?」

 お兄ちゃんはそのたぬきさんが本命なのです。

「……え、え〜と」

「お兄ちゃんはたぬきさんとしぃを比べるとどちらが好きなの?」

 なにこのピンチ。

「お兄ちゃん?」

 打算のない声音。そしてくりくりとした純粋な瞳に見上げられて僕はタジタジだ。

 こんな時はお世辞を言って茶を濁せば良いのか、正直に答えて切り抜ければ良いのか……いったいどっちだ。

「ゆうは私が好き」

 お姉さんが第三の選択を提示した。

「お兄ちゃんはしぃのことも好きだよ?」

 鈴城姉妹混ぜるな危険。

 姫風が僕に問いかける。

「紫苑にまで浮気?」

「できるかっ!!」

 そもそも誰とも付き合ってないのに、どうやったら浮気になるんだ!

「あぁ もぉっ!!」

 このままだと胃に穴が開きそうだ!

 蓄積し過ぎたストレスを発散させる良い方法が思い当たらない。単純に閃いたのは運動。走ること。

「ちょっと散歩に行ってきますっ!」

 思い立ったが吉日。即実行。

 さっさとダイニングルームから出ていく僕の後ろに、姫風が寄り添うようにくっついてこようとする。

 マジで勘弁してくれ。

「ついてくるな! 一人になりたいんだ!」

「やだ」

「やだしゃなくて! 頼むから!」

 更に食い付くかと思いきや、無表情な姫風はあっさりと引き下がる。

「解った」

 引き際を心得ていやがる! もっとゴネてくれたら完全に嫌いになれるのに!

「あれ優くん、フレンチトーストを作ったんだけど、食べないでどこかへ出かけるのかい?」

 今度こそダイニングから出ようとしたところで、お次は加齢臭から声をかけられる。

「帰ったら食べる!」

「冷えたら美味しくないよ?」

「ビニール袋に詰めて! 持っていく!」

 くそ、加齢臭の方が一枚上手いちまいうわてじゃないか!

 歯噛みしながら天井を仰ぎ見る。

 その様子にクスクスと微笑む叔母さん。

「ほら優哉くんはやっぱりモテモテね」

 叔母さんの右隣に座る百合さんと「ねえ」とか「ですね〜」と相槌を打っている。

 どうしたら今の状況がモテモテに繋がるんだっ!!

 数秒して加齢臭が袋詰めにしたフレンチトーストを手渡してくれる。

「ぼくの息子だからモテモテにきまってるさ! アウチッ!」

 僕は加齢臭の胸部をはたく。

「親父は一言多いんだよ!」

 加齢臭は肩をすくめてオーバーに驚いた。

 しぃちゃんが魔法瓶に紅茶を容れてそれを渡してくれる。

「夜道の散歩は危ないから気を付けてね?」

「イエス!」

「浮気はダメだよ?」

「い、イエス!」

 僕はピースサインとともにダイニングルームから退場した。


 ◆◆◆


 あらゆるしがらみを断ち切るべく携帯電話の電源を落とした僕は、叔母さん別荘宅から砂浜に向かって全力疾走した。

 ペース配分を一切考慮せず、ひたすらがむしゃら滅茶苦茶に駆ける。意味のない言葉を叫びながら駆ける。砂浜の終わりまで駆ける。消波ブロック(テトラポッド)によじ登り叫ぶ。aikoの名曲『ボーイフレンド』に出てくる『テトラポット』は誤りだぁぁぁ! と叫ぶ。

「『ト』ではなく『ド』なのか」

「はぁ……はぁ……そうなんですよ――って、うわっ!?」

 先客が居た。テトラポッドに腰掛けて、海を眺めていたようだ。

 先客――声の主は抑揚のない声音で言う。

「そんなに驚かなくても良いじゃないか」

 まばらな雲の合間から降り注ぐ月明かりで、声の主が誰かハッキリする。ハスキーボイスと姫風によく似た容姿を持つ、不機嫌な表情の椿さんだった。

「すみません」

 椿さんを前にすると兎に角低姿勢で下手したてになる僕。

「いや、良いさ」

 椿さんはそう言ういながら、履いているジーンズの砂埃を払いつつ、テトラポッドの上に立ち上がる。

「それでゆうやはここへなにをしに来たんだ?」

 ストレス発散を兼ねて走っていただけです、と告げようとしたけど、それより先に椿さん口を挟む。

「やはり、心配になって、私を迎えに来たのかな?」

「え」

 思ってもみないことを言われて僕は固まった。

 途端に「え?」と目を丸くする椿さん。

 僕の態度でなにかを察したらしく、確認の意味を込めてこう問われた。

「わ、私を迎えに来た訳では、な、ないのかな?」

 椿さんが狼狽うろたえている。抑揚のない声音が、あたかも動揺したかのように裏返っている。あたかもってなに?

 命が惜しい僕は「HAHAHA! 椿さんの存在はすっかり忘れていましたYO!」とは言えず、頑張って嘘をつくしかなかった。

「む、むむむ迎えに来ました! ここまで、ぜ、全力で走って来ました!」

 言いながらどうにか真剣な表情を作る僕。

 椿さんはそんな僕をジッと凝視する。

 マズイ。疑われてる。

 全力疾走して火照った身体が、海から吹く夜風のお陰で冷やされているにも関わらず、あとからあとから嫌な汗が、ダラダラと吹き出してくる。

 どうにか誤魔化そうと別話を持ち上げかけた僕を――

「そ、そう言えば最近ひ――」

 椿さんはカットした。

「息の切らし具合から、ゆうやが走って来たのは本当だろうけど、私を探していた訳ではなさそうだね。また姫風絡ひめかがらみでなにかあったのだろう?」

 あっさりと嘘を見抜かれてしまった。

 不機嫌な表情の上に目を細めて僕を威圧する椿さん。腕を組んで僕を上から下までジロジロと眺めている。

「……じ、実は、あのあとまたいろいろとあって、姫風から逃げてきただけです。すんません」

 推測通りか、とでも言いたげに椿さんは嘆息する。そして、僕から視線を逸らして寂しげに呟いた。

「ま、良いさ。私は所詮、ゴバンメの女だ」

「ごばんめ?」

 五番目の女? それとめ碁盤目の女? 全身に碁盤目のある女とか想像すると怖!

 頭を抱えてうずくまる僕。

「なにを震えているんだい?」

 椿さんが不機嫌な表情を怪訝なものにチェンジした。

「いや身体中にチェック模様の入った人間を想像してしまって……」

「……なにからそう連想したのか解らないが、ゆうやは想像力が豊かだな」

 椿さんから盛大に嘆息される。

「呆れられたっ!?」

「むしろ、『あぁ、ゆうやだ』と思ったよ」

「納得されてるっ!?」

 僕はテトラポッドに四つん這いとなって項垂うなだれる。

「椿さんの中の僕像っていったい……」

 椿さんの瞳が鋭利なものに変化して、僕をギロリと睨む。

「また『椿さん』か」

 風雲急をつげる感じで、不穏な空気が流れ始めた。

「え? 椿……さん?」

 怖い人が更に怖くなり、四つん這いの態勢になっている僕の隣へしゃがみこむ。ゼロ距離でジッと睨み付けられる。

 殺られる……誰か助けて。

「母が再婚してから今日までずっと疑問に思っていたことがある」

「は、はい」としか相槌が返せない僕。突然どうしたのだろう?

「なぜ私には敬語や丁寧語で喋るんだ?」

「え」

 質問の意味がすぐには理解できなかった。

 椿さんが畳み掛ける。

「なぜ姫風とはあんなに仲良く喋るんだ?」

「ええっ!?」

 今までのやり取りが仲良く見えてたのっ!?

 僕の驚愕を他所よそに椿さんが続ける。

「私と姫風は双子だ。だと言うのにゆうやは姫風を呼び捨てで、私には『さん』付けだ。仮にも兄妹きょうだいになったのだから、平等に扱うべきだ。そうだろ?」

 兄妹って……僕が兄なの?

「いや、その、姫風とは小学生からの付き合いなので、自然と呼び捨てになっていったと言うか、知り合って五、六年の間は『鈴城』って読んでましたし。……椿さんとはまだ知り合って二年だから、気安く呼べないと言うか、呼んだらシリコダマを抜かれそうと言うか……」

「私は河童かっぱか!」

 怖そうな河童だ。

「と、に角、私の言いたいことは、解ったか? 伝わったか?」

 河童のおっしゃりたいことは、敬語や丁寧語をやめて、つ、椿「さん」と呼ぶなってこと? つまり姫風と同列に扱えということ?

 だったらこう呼ぼうか。

「おいTUBAKI」

 殴られた。

「すまない。なぜかイラッときた」

 酷い。フランクに呼んだのに。

「やっぱ無理ですよ、椿さんを呼び捨てにしたり敬語をやめるなんて……」

「なぜだ? ゆうやと私はおなどしなのに」

 呼び捨てしたら僕の頬を殴ったじゃん。

「は、ははは……どうしてでしょうね?」

 河童の怒りを買わない方法を考えないと……。

「よ!」

 河童が突然大声になり、上擦りながら言う。

「よ?」

「よ、呼び捨てに無理があるなら、わ、私のことを、あ、愛称で呼ぶのはどうだ?」

「愛称?」

 たずねるや河童――椿さんが口元を真一文字にして閉口した。

 不機嫌な表情がみるみるうちに、悪化して極悪な表情となり、視線だけで僕を殺そうとするかのように、一層険いっそうけわしいものへとチェンジしたのだ。

 僕なにか地雷を踏んだ?

「つ、椿さん?」

 呼べども無言で険しい表情を向けられるだけ。

 四つん這いから身を起こす僕。表情を変えぬまま立ち上がる椿さん。非常に居心地が悪い。

 手持ち無沙汰な僕は、視線をさ迷わせて周囲をなんとはなしに眺める。

 ふと豆粒サイズの「海の家」が視界に入った。建物は月明かりのお陰で夜でも明瞭だ。結構遠いな。

 って……あれ? ……なにかを忘れているような気がする。

 体感で二分ほどの沈黙が経過した頃、たっぷりと時間をかけていた椿さんが口を開いた。

「私のことを……」

「私のことを? あっ!」

 思い出した! 新海さんと「海の家」で待ち合わせしていたんだ!

「私のことを、その……」

 歯切れ悪くモゴモゴ言う椿さんを眼前に、僕は携帯電話を取り出して電源をオンにする。メインディスプレイの液晶表示は午後十時五十六分を刻んでいた。

「私のことを、その、き――」

 椿さんがなにかを言いかけたけど僕にはそれを待つ余裕がない。約束の時刻まであと四分だ。

「椿さんっ!! この話はまたあとでっ!! ちょっと『海の家』に行ってきますっ!!」

「あ、ゆうやっ!!」

 引き留めるような椿さんの声を背に受けながら、一路「海の家」へ!

 ごめんね椿さん! 僕の最優先は、新海さんなんだ!


 砂浜の終わりから「海の家」まで全力疾走。握りしめているビニール袋とフレンチトーストが不協和音を奏でている。携帯電話のサブディスプレイを何度も確認しつつ「海の家」に着く頃には、待ち合わせ時刻を少しオーバーしてしまった。


 遠目から発見した新海さんは、「海の家」の縁側に腰を下ろして、ポニーテールに結った髪先をイジイジともてあそんでいた。

「あ、鈴城くん」

 新海さんが砂に足を下ろしてぴょこんと立ち上がった。

 きしむ肺と喘息ぜんそくにも似た呼吸音をどうにかなだめながら、こちらに気付いた新海さんに声をかける。

「お、お待たせ、ご、ごめん、少し遅れた」

 息が整わない。激しく肩を上下させていることが自分でも解る。

「そんな、全然遅れてないよ!」

 チラ見したサブディスプレイの現在表示は《23:02》で、つまり二分の遅刻だ。

「い、いやでも二分も待たせちゃったから、い、一応謝らせて、ご、ごめん」

 息を整えつつ僕が平身低頭するや、新海さんが焦ったように声を上げる。

「そ、そんな、わたしまだ一時間くらいしか待ってないし!」

 え……一時間? 今のは聞き間違いじゃ、ないよね?

「あ、あれ? 待ち合わせは午後十一時で合ってたよね?」

 急いで新海さんからのメールを確認すると、案の定十一時で合っていた。

「い、いつからここに?」

「え、あっ!! わたしも今さっき来たばかりだよっ!?」

 新海さんが唐突に取りつくろい始めた。

 目は泳ぎ、頬が紅潮して、握り締めた拳をブンブンさせている。全身で慌てている状態を見せつけてくれているのだ。可愛いなぁ。

 この様子だと、どうやら本当に一時間前から待っていたらしい。

 もしかして勘違い? 時間を勘違いするとはドジっだな新海さん!

 困らせて楽しむ趣味を持ち合わせていないので、新海さんを深く追求することはやめた。

「そっか」と頷き、新海さんへ座るように促して、僕もその隣に微妙な距離を空けて座る。

「そ、そうだよ!」

 だから強引に話題を変えてみる。

「なんだかんだでバイトもあと半分だね」

 ふぅ〜、やっと呼吸が落ち着いてきた。

「あ、うん、そうだね」

 話題の変更に対して、新海さんはあからさまにホッとしている。

課題しゅくだいは、あとどれくらいで終わりそう?」

 半拍ほど思考してから新海さんが答える。

「数学があと二ページくらいで全教科終わりだよ。鈴城くんは?」

「新海さんは早いなぁ。僕なんかまだ二ページも終わってないや」

 後頭部をポリポリとく僕。その様子にクスクスと笑みをこぼす新海さん。

「わたしの写す?」

「そんな、悪いよ」

「別に悪くないよ?」

 多分だけど、僕が叔母邸に帰宅する頃には課題が姫風の文字で埋め尽くされている気がする。新海さんから借りてもきっと借り損になってしまう。

 このままだと強引に借り受けてしまう展開なので、別話と言うか本題である呼び出された理由についてたずねてみよう。

「それはそうと、こんな時間に呼び出しなんてどうしたの? なにかあったの?」

 僕が言うや、座った体勢のままで新海さんが「んいっ!?」と垂直にねた。

「……今どうやったの?」

「わ、わたしにもさっぱり」

 世の中にはミステリーがいっぱい。

 意識的に、座ったまま垂直に跳ばれたら、人間として新海さんを見れないから、この件はミステリーのままにしておこう。

「と、特になにかあった訳じゃないけど、その、最近忙しくて鈴城くんと話す時間がなかったから……二人っきりで話す時間が欲しいなぁと思って。ごめんね、こんな時間にメールで呼び出して」

 OH……聞きようによっては、今の発言て僕に対する告白に聞こえるんですけど……気のせいか!

 邪推はやめて、友達に対する発言として受け止めた僕は、新海さんに相槌を返す。

「あ〜確かに。ここのところバイトが忙しくて、顔を合わせても品物の注文オーダー話になってたよね」

「だからね、普通に話したいなって、思って……迷惑だった?」

 ポニーテールの天使・新海さんによる「上目使いで見上げる攻撃」発動。僕はタジタジ。

「め、迷惑じゃないよ。新海さんの呼び出しなら、例え火の中水の中! 実は呼び出し理由が、姫風に対する苦情かと思ってたから、ちょっとだけ拍子抜けかな」

 主に国府田こうださんからの専用苦情窓口と化している僕。しいたげられ具合が椿さん級なんだよね国府田さんて。実は新海さんも被害を受けているのかと思ってドキドキしていた訳です。

「なんでそこで鈴城おねえさんが出てくるのかな?」

 ちょっとだけムッとしている新海さん。なぜだろう?

「国府田さんが毎日顎で使われているらしくて、僕が相談窓口になってるんだよ」

未紀みきが顎で?」

「未紀?」

「あ、国府田の名前だよ」

「へ〜国府田さんは未紀って名前なのか。んと、その国府田さんが顎で使われてる訳ですよ」

 新海さんは国府田さんが被害を受けている様子は見てとれないと語ってくれた。

 つまり姫風は隠行術おんぎょうじゅつけている訳だね。忍びか!

 微妙な空気になったところで、新海さんが縁側に投げ出していたビニール袋を引っ張ってくる。

 なにかな? と大人しく待つ。

「じゃじゃ〜ん♪」

 効果音が古い! じゃなくて、ビニール袋から取り出された物は線香花火っぽかった。

「花火?」

 テレ笑いしながら新海さんが頷く。

「線香花火。ふ、二人でしようかな、と思って持ってきたのですよ、にはは」

「ふ、二人で?」

「う、うん、ふ、二人っきりで……だ、ダメかな?」

 恥ずかしそうに頷く新海さんの姿に、僕の理性が半分消滅する。

 ヤバイ! この雰囲気だと告白したくなる!

「あ〜もぉ可愛いなぁこんちくしょう!」

「んい?」と新海さんが首を傾げる。

 その仕草しぐさと奇声すらチャームポイントに思えて困る。

 悶えている僕に、新海さんが線香花火を突き出した。

「はいどうぞ」

 新海さんの手に触れないよう気を付けながら、和紙に包まれたカラフルなそれを受け取る。

「線香花火ってさ、どっちに火を着けたら良いか解らないよね」

 新海さんは少し思索したあとこう言った。

「火薬のない方に火を着け続けて、全部ダメにしたことがあるよ、わたし」

「それうっかりとかドジっ娘ってレベルじゃないよね」

 どちらからともなく笑みが零れる。

「ど、どうせわたしは抜けてますよ〜だ」

 新海さんが恥ずかしそうに頬を紅潮させた。

「わ、わたしのことは良いから、花火しよ?」

 僕としては花火より新海さんの話が聞きたいでござる、とは面と向かって言えないので「そうしよう」と頷く。

 僕と新海さんは、自然としゃがみ込んで、風から線香花火の火種を守る態勢になる。

「誰かと花火をするなんて久しぶりだなぁ」

 僕は目を細めて染々と呟いた。

「そうなんだ。どれくらいぶりになるの?」

 花火の記憶を思い起こしてみる。最後にしたのは小学生六年生の時だったような。

「五、六年ぶりくらいになるかなぁ」

「もしかして鈴城くんは花火が嫌い? 火薬が怖いとか?」

 新海さんが不安げプラス心配げな感じで僕を見つめる。

「花火は大好きだよ? けど姫風の妨害工作が酷くて、姫風以外と花火ができなかったんだ」

 当時の姫風は僕が男友達と一緒に居ることさえも邪魔するほどの独占欲を発揮していたのだ。今はそれが少し改善されつつあるから、僕的には嬉しい。

 思考を切ると、またちょっとだけムッとしている新海さんと目が合う。どうしたポニーテールの天使様。

「……鈴城おねえさんは昔から鈴城くんのことを溺愛してたの?」

 それを聞きますか。

「ノーコメンロです」

「ノーコメンロ?」

「うん、ノーコメンロ」

 新海さんがクスクスと笑う。

 え、ここ笑うところ?

「今僕変なこと言った?」

「『ロ』じゃなくて『ト』だよ。ノーコメント」

「OH……」と僕は四つん這いになる。

 誰か僕を賢くしてくれ。

「なんで雌豹めひょうのポーズになってるの?」

 新海さん……雌豹て。

「こ、これは雌豹のポーズじゃなくて落ち込んでるポーズなんです……」

 四つん這いの態勢からしゃがみこんだ状態に戻る。

「鈴城くんと一緒に居ると本当に飽きないね」

 海風と一緒に傍らから柑橘系の匂いが漂ってくる。

 新海さんに近寄ってくんかくんかしたいけど、姫風ばりにストーカーっぽくなるのでそれは自重した。

「僕って見てて飽きないほどオカシイ行動が目立つやつ?」

 新海さんがライターを手渡してくれる。

「おかしくないよ? 面白いだけ。あ、面白いと言えば鈴城くんのお父さんも面白い人だよね。見た目もそっくりだし、鈴城くんがそのまま成長した感じだよね」

 脳裏に陽気な加齢臭の笑い声が再生される。さっさと滅するべきか。

「……そっくりって、マジで?」

 新海さんの発言とは言え、頬がひきつるのはいなめない。あれとそっくりだけは嫌だ。

 新海さんに不思議そうな感じで問われる。

「どうしたの? 涙目だけど」

 似たくない人物に似ていると言われたのだ。涙も出る。

 でも、新海さんに当たり散らすのは間違っているので、テキトーに上部を並べた。

「ちょっと出家したくなって」

「出家? お坊さん? 剃髪ていはつ? んい? お坊さんて髪をらないといけない決まりでもあるのかな?」

「さ、さあ?」

「髪を剃る自分の姿を想像して泣けてきたのかな?」

「そ、そんなところです」

「鈴城くんて時々思考が奇抜だよね」

 否定できないけど、その指摘は凄く悲しい。

 話題を変えるべく、新海さんの興味を花火に戻そう。

「火はあるかな?」

「はいどうぞ」と新海さんにライターを渡された。

 線香花火の“こより”部分に着火。

「新海さん新海さん、線香花火をこっちに向けてくだされ」

「んい」

 ライターの種火により、“こより”が燃えて丸まっていき、新海さんが持つ線香花火の、パチパチぜる音が響き始めた。

「ファイヤー!」

「言うほど燃え盛ってないよ鈴城くん♪」

 新海さんがきゃっきゃうふふ。

 良い。この光景凄く良い。

「鈴城くんライターを貸してくだされ」

「あ、はいはい」

 ライターの種火により、“こより”が燃えて丸まっていき、僕が持つ線香花火の、パチパチぜる音が響き始めた。

「ファイヤー!」

「言うほど燃え盛ってないですぜ新海さん♪」

 新海さんがまたきゃっきゃうふふ。

 夏の思い出ができて僕は大変満足です。

 かと思いきや、新海さんが突然、きゃっきゃうふふをひそめてうつむいてしまった。

「新海さん……?」

 急に鳴りをひそめた新海さん。いったいどうしたのだろう?

 ややあってから、俯いたまま、新海さんが口を開いた。

「あ、あのね――」


 ◆◆◆


 小声とともに鳳祐介おおとりゆうすけ坂本寛貴オレサマの肩を揺すった。

「のぉ、盗み見は優哉と新海に悪い。そろそろやめぬか?」

「とか言って、祐介も気になるだろ?」

 一階――「海の家」階下の縁側付近では、鈴城優哉バカ新海沙雪しんかいさゆきが楽しげにじゃれながら花火の真っ最中だ。

「それは気になるが……」

「別に邪魔をしてる訳じゃねえし、むしろ感謝して欲しいくらいだ」

 バカたちを一望できる二階の窓際に腰かけていたオレサマは、傍らに転がる芋虫――ガムテープで拘束した佐竹昇さたけのぼるを軽く蹴る。

「んんんん(鈴城嬢)! んんんん(鈴城嬢)!」

 新海を誘導して「海の家」にてバカとブッキングする手立てを考えてやったのは腐れ縁の相庭梨華あいばりかで、どこからぎ付けたのか知らないが、それを阻止するべく動き出した佐竹を捕縛したのはオレサマだ。それを無力化したのは祐介と灰田龍太郎はいだりゅうたろう

 かんがみなくても、オレサマたちが盗み見る権利は充分にあるだろう?

「ここまでのお膳立てだ。さっさとくっつくなりフラレるなりしやがれってんだ」

 新海はクラス中にバカが好きだと無意識で公言――垂れ流してるし、バカに至っては新海が右肩上がりに好きだ宣言してはばからない。

 なぜどちらからかコクるなり歩み寄るなりしないんだ。

 そんな二人を一年ほど傍観者としてはたから眺望してきたが、流石さすがのオレサマも痺れが切れた。いや、飽きが来た。

「乱暴じゃのぉ」

「なんとでも言え。バカにはさっさと姐さんか新海とくっついて貰う。そうすればオレサマに対する被害が減るはずだ。減るはずなんだ」

「凄く独りがりじゃな。二人をくっつける動機が」

「悪いかよ独り善がりで。つか今の状況、楽しいだろ? つ〜か楽しめよ」

「……快楽主義者め」

 ふぅ、と嘆息する祐介。

「最後に一つだけ言わせて貰おう」

「……なんだよ?」

「お主の被害は減らんと思うぞ」

 それ当たりそうで困る。

 やれやれといった表情で祐介は窓際から離れていく。止めるでも、一緒に覗くでもなく、黙認と言う形で決着をつけるらしい。

 当然手持ち無沙汰になった祐介は、ニンテンドーDSの液晶内に蔓延はびこるモンスターをつつき殺していた灰田と国府田と妹尾せのうの隣で、黙々と腕立て伏せを始めてしまう。

 ……あれ以上筋肉をつけてどうする気だ。

「寛貴、進展はあった?」

 呼ばれて視線だけ向けた。

 バカの叔母別荘宅玄関を双眼鏡で眺望していた梨華が、体を預けていた窓辺から離れて、こちらに近寄ってくる。

 表情は気怠けだるげ。伸びを一つした拍子に胸が揺れていた。

「花火を始めた」

「へ〜、沙雪にしては頑張ってるじゃない」

 階下を一瞥いちべつした梨華がほくそ笑む。

「そっちは姐さん――鈴城姉は出てきたのか」

「姐さんてなに? 鈴城さんは出てこないわよ。気にし過ぎじゃないの? 沙雪さゆきと鈴城くんを妨害しに来るなんて」

「……あの人に対しては必要以上に警戒してもし足りないくらいなんだよ」

「寛貴が他人を高評価するなんて珍しいわね」

「あの人だけは例外だから。規格外だから」

「なんで震えてるの?」

 姐さんの豪腕により、教室の端から端まで、拳一発で吹っ飛ばされたことがオレサマの脳内で再生されているのだ。「で」の多い地の文だな。

「んなことよりも良いのか?」

 傍に居る梨華にしか聞こえない程度まで声音をひそめる。

「なにが?」と同じように声のトーンを落とす梨華。

「バカ――優哉と新海がくっついても」

 悪戯いたずらに梨華を揺すってみる。

「良いんじゃない?」

 あおりに対してサラッと答えた梨華の顔色に変化はない。

 あてが外れた? 結局はうやむやになったが、バカに付き合ってあげるとまで宣言した梨華のことだ。てっきりバカのことを憎からず思っているとオレサマは予想していたのだが。

「好きなんだろ?」

 主語をはぶき、階下のバカへ視線で誘導する。

「……だったらなに?」

 はぐらかすかと思いきや、存外正直に答えられてしまい、オレサマは言葉に詰まる。

「……なにって」

 二の句が告げないオレサマに、梨華がうすく笑う。

「略奪って素敵だと思わない?」

 こいつ最低だ。

「お前、えげつねえな。つか、姐さんそっくりだ」

一葉かずはさんに?」

「姉ちゃんの名前を出すな。バカの姉だ。姫風姐さんにそっくりだ。思考が」

「…………」

 梨華さん凄く嫌そうな顔。


『あ、あのね――』


 階下から新海の改まった声音が聴こえた。

 オレサマや梨華は勿論、DS組も反応して、バカと新海が一望できる窓際までやってくる。

 腕立て筋肉馬鹿だけは動じることなく腕立てを継続中。

「足音立てんな。静かにしろ」

 オレサマの指摘で皆一様に謝り、立てていた物音を沈静化させた。


『その……』


 新海の二の句を待つが、階下のそいつはいっこうに続きを喋らない。

 バカも馬鹿正直に口を挟まず沈黙が続く。

 先をうながすなり話を振るなりしろよ。気の利かねえやつだ。

「沙雪ちゃんはなにを言うのかな?」楽しげに国府田がひそひそ。

「なにを言うのかなって……コクるんじゃないの?」気怠げに梨華がひそひそ。

 のべ四名もの協力を経てのお膳立てで、ここまで助力して告白できなけりゃ、新海はとんだチキンだ。

 せめてオレサマたちの暇潰しを役立てろ。

 なんて思考していたら、事態に進展があった。

 新海が切り込んだのだ。


『す、鈴城くんてさ』

『うん』

『な、名前で呼ばれるの嫌い?』

『名前?』

『うん。あ、あの、鈴城くんのこと、これから「優哉くん」て、名前で呼んで良いかな?』

『へ? あ、うん全然OKですボス』

『そ、それでね? わたしのことも、その、さ、ささ「沙雪」って呼んで欲しいな、とか、思ってる訳で……』

『さ、沙雪さん』

『で、できれば、呼び捨てが嬉しいとか、思ったり思いまくってたり既に脳内では呼び捨てされてたり……』

『さ、沙雪』

『優哉くん』

『沙雪』

『優哉くん』

『沙雪』

『優哉くん』


 以下暫いかしばらく名前の呼び合い。


 その光景を目の当たりにした梨華が、げんなりしたようにオレサマへ向いて呟く。

「なにあのラヴフィールド」

「オレに訊くな」

 怪訝な表情の灰田が首を傾げる。

「あそこまで良い雰囲気になってるのに、あいつらなんで互いに告らないんだ?」

「さあ……?」と誰もが答えられない。

 そんな中――

「ちょっとあの二人ぶっ殺してくるよぅ!」

 国府田が一人ブチ切れた。


 ◆◆◆


「優哉くん」

「沙雪」

「優哉くん」

「沙雪」

「ゆ――」

「先ほどからずっと名前を呼び合っているが、どうしたんだい?」

 唐突に声をかけられた僕と新海さんは、吃驚して同時に悲鳴を上げた。

「ひぃっ!?」「んいっ!?」

 恐る恐る振り替えると、そこに立っていたのは――「私は幽霊か」と悪態をつく、椿さんだった。

「ひぃっ!?」「んいっ!?」

「ちょっと待て。今、私の顔を確認してから悲鳴を上げたね?」

「ひぃっ!?」「んいっ!?」

「そろそろ怒るぞ」

 不機嫌な声音に怒気が混じったので悪のりをやめる。

 実際はホントに怖がってたんだけどね!

 僕の心根を意に介さない椿さんは、砂地の上で小山となっている使用済み線香花火に視線を落とした。

「花火をしていたようだが、終わったのか?」

 よっこいせ、と立ち上がる僕。つられて新海さんも立ち上がる。立ち上がった関係で新海さん(一五○センチ)が僕(一七○センチ)を見上げる形となる。

「新海さん、花火まだある?」

「もうないよ」と線香花火を納入していた袋の中身を見せる新海さん。

 そしてなぜか僕の顔を見ながらもじもじし始めた。

「ゆ、優哉くん、その、わたしのことは、な、名前で呼んで欲しい」

 瞳を潤ませ、頬を染め、僕を時折見上げながら、両手の人差し指どうしをつんつんしている。

 なんだこの可愛い生物は。

「ダメ?」と新海さんが小首をちょっこっと傾げる。

「ダメじゃないよ、さ、沙雪さん」

「で、できれば『さん』はない方が、嬉しいです」

「さ、沙雪」

「優哉くん」

「沙雪」

「優哉くん」

「沙雪」

「ゆ――」

 例えるならば嬉し恥ずかしピンク色空間。そこに僕と新海さ――さ、沙雪さんだけが居る世界。

 しかしこの世界にはすぐ傍に暴君が居たことを忘れていた。

「ゆうや、帰るぞ」

 雷が轟いたように僕たちはる。

 むんずと僕の手を強引に握った椿さんが、足早にこの場から僕を連れ出す。さっさと歩き出す。あっという間に「海の家」から遠ざかる。

「ちょ、椿さん! なんでっ!? なんで僕と沙――新海さんを引きがすのさっ!!」

 僕は椿さんに引き摺られるようにして歩きながら、物凄く後ろ髪を引かれる思いで沙雪さんに何度も振り替える。

「それを私に問うかっ!?」

 椿さんは歩みを緩めないままキッと僕を振り替える。

「ええ!? なんで怒られるの僕!? それとなんでいつにも増して怒ってるの椿さん!?」

 僕の質問には一切答えず、椿さんが不機嫌な表情を激昂させた。

「私はやっぱりゴバンメに甘んじるのは嫌なんだっ!!」

「なんの話っ!?」

 理解不能な返答をされて困惑する僕を他所よそに、砂を蹴る足音が近づいてくる。

「ゆ、優哉くん!」

 頬を上気させた沙雪さんだった。

 僕まであと数歩と言う距離になるや、椿さんが間に割り込んできた。

 ついで、激昂していた声音から一転、椿さんが低くドスの利いた声音で告げる。

「……ゆうやは渡さない」

 沙雪さんが椿さんの迫力にたじろく。

「……ゆ、優哉くんはお姉さんたちの所有物じゃありません」

 ここら一帯が急に張りつめたような、緊迫した空気となる。

 頼むから手は出さないでね椿さん。

「ゆうやは私たち姉妹の所有物だ」

 双子姉にまで堂々の所有物宣言。僕は既得物件かなにかか。

「優哉くんが可哀想です!」

 椿さんが拳を固めた。この人は誰かを殴ることに見境がない。これ以上拗いじょうこじらせると流血沙汰になるおそれがあるので、さっさと止めに入る。

「椿さん、沙雪さん、も、もう遅いし、帰って寝ようよ、ね? ね?」

 僕は握りっぱなしの椿さんの手を、グイグイ引っ張りながら歩き出す。歩き出、歩かないよこの人。

 椿さんは射殺すような眼力で沙雪さんを見つめ、沙雪さんはどうにか負けじと真っ向から相対している。

 そうして一分ほど睨み合いが続いたところで、沙雪さんが口を開いた。

「……今日は引きます。でも、もう少しだけ優哉くんと話をさせて下さい」

 沙雪さんの真剣な声音に、思うところがあったのか、椿さんは僕を一瞥して、鼻から息を抜き、「……一分だけだぞ」と呟く。

 心の広さ→ムスカさん>椿さん>ドーラ母さん。

 脳内では「四○秒で支度しな!」と言うドーラ母さんの声音がリフレイン。

「優哉くん」

「んあ?」

 プチトリップから引き戻された。

「あ、な、なに?」

 僕を見上げながら沙雪さんがもじもじ。

「えっと、ま、また花火しようね。ふ、二人で」

「うん」僕ももじもじ。

 沙雪さんがさらにもじもじ。

「そ、それとね、で、できたら今夜、優哉くんの夢の中に、お邪魔させて欲しいな。って、わわっ、わたしなに言ってんだろうっ!? えっとえっと、お、お休みなさい!」

 可愛いなぁ、もぉ。

 猛スピードで遠ざかる沙雪さんを眺めながら、僕は全身をおおう幸福感に頬を緩ませた。

 傍らに居る椿さんの表情は苦虫を噛み潰したような表情だったけど、見てみぬふりをして切り抜けた。


 叔母さん別荘宅に帰還して玄関を開けると、そこに立っていたのは案の定、姫風。

「た、ただいま」

 しぃちゃんや叔母さん、百合さん、加齢臭は既に寝てしまった、とのこと。

「お帰り。課題は済ませた」

 現在の時刻は日付が変わって三十分が経過している頃合いだ。

 二時間半で五教科の課題を済ますとか化け物か。

「化け物ではなく妻」

「心の中を読むな!」

 僕の抗議は背後の椿さんにいさめられる。

「今、ゆうやは口に出して言ったぞ? 『化け物か』と」

「僕のうっかりさん!!」

 それはそれとして、課題を終わらせてくれた姫風に、なにか礼をしなきゃいけないよね。労働の報酬が無償とか僕には考えられないし。

 迷った挙げ句「なんでも一つだけ、願いごとを叶える。ただし僕のできる範囲で」と姫風に提示した。

「なんでも?」と姫風が鼻血を吹き出す。僕早まったか。

 姫風の状態に驚愕したのか、僕の言動に驚愕したのか、椿さんが動転気味に息巻く。

「ゆ、ゆうやが姫風にそんな餌を投下するなんて! 血迷ったか!?」

 僕から視線を外さぬまま、鼻にティッシュを詰めつつ姫風が言う。

「椿、あとで話がある」

「うぐっ」

 失言だったとばかりに椿さんが自分の口元を押さえた。

「大丈夫ですよ椿さん。嫌なものは嫌って言うし」

「そうか」

 なぜかホッと安堵あんどする椿さん。

「椿、あとで話がある」

「うぐっ」

 よろめきながら後退あとずさりする椿さん。僕らの前からゆっくりとフェードアウトして行く。

 可哀想に……と椿さんに同情しながら、僕は姫風に禁則事項を伝えた。

「ただし、婚約とか結婚とか、願いを増やすとか、ギャルのパンティーをくれとかはなしな」

「私と同じ墓に入って欲しい」

「斜め上をいくな」

 勿論却下なので、姫風に次を促す。

「軽いやつな」

 姫風が僕から瞳をらさないまま二十秒ほど経過。

 玄関口に突っ立って居るのもアレなので、上がり込んで、僕に割り当てられている上階へあゆみ出す。

「だったら」と歩調を合わせて傍で僕を見つめ続ける姫風。

「だったら?」

「手を繋いで欲しい」

「今?」

 姫風がコクンと頷く。

「それくらいなら――」

「手を繋いで抱き締めてキスをして押し倒してセックスしてピロトークして腕枕して裸Yシャツでモーニングコーヒーを飲みたい」

「――却下だ!」

 この件は、「まともなものが考え付いたら言えば良い」ということで片付けた。

「はぁ……寝よう。って、姫風はここまで! 部屋に入るな!」

「やだ」

 僕、ジジイ、ピロシキに割り当てられた二階の部屋の入り口で押し問答。って、あれ? こんな時間だってのに、ピロシキとジジイが居ないよ?

「二人ともどこに行ったんだろう? 喫煙タイムと夜釣りかな? って、姫風は布団を敷いて中に入って僕を待ち構えるな!」

「布団を暖めておいた」

「今、夏だから! それ逆効果だから!」

 姫風を布団から引っ張り出す。

「ゆう強引」

「そうだね! 強引だね!」

 姫風を部屋の入り口まで引っ張り出してドアを閉める。さっさとカギをかける。

 首を回しながらドアから離れて姫風の敷いてくれている布団にもぐり込んだ。

「うわ、ホントにぬくいよ……んなことよりも、あ〜マジで疲れた、明日もバイトだ、寝よう……」

 ガチャ。

「ゆう、マッサージしてあげる」と針金を手にした姫風が入室。

「何事もなかったかのようにカギ(障害)を突破するな!」

 布団を跳ね除けて、向かってくる姫風の手を取り、部屋から追い出す。

「ゆう、冷たい」

「冷たくて悪いか! バイトで疲れてるの! 姫風も疲れてるだろ? この部屋から出ていってさっさと寝なさい!」

 姫風が僕から離れまいと胸に飛び込んできて、しがみつく。いやいやと首を横に振る。

「夫婦別々で寝る? 倦怠期けんたいき? 私は耐えられない」

「ふ、夫婦じゃないし、け、倦怠期でもない!」

 豊満な胸が僕の胸に押し潰されてむにゅむにゅと形をかえる。むは、助けて理性くん!

「ぼ、僕は姫風と違って体力がないんだ! さっさと寝たいんだよ!」

「体力がないなら付ければ良い」

「なにそのマリーアントワネット」

 どうにかマリーアントワネットを引き剥がす。

 けれど、マリーアントワネットはどうにもこの場から立ち退こうとしない。

「あ〜もぉ! 部屋に帰りなさい!」

「やだ」

「帰りなさい!」

「やだ」

「帰りな――」

「やだ」

「帰――」

「やだ」

 我が侭なマリーアントワネットにはらわたが煮えくり返る。

「このままだと僕絶対胃潰瘍になる!」

「治す」

 本当に治療されそうで困る。

 いっこうに引き下がらないマリーア――姫風から「名案がある」と告げられた。

「め、名案?」

 自信満々で無表情な姫風がコクリと頷く。

「ゆうは体力がないと言う。私には寝ながら体力をつける名案がある」

「なんだよ?」

「セック――」

「お休み」

 強引に押し出てドアを閉める。ドアにカギをかける。引き戸となっているドアにイスやテレビを置いて出入り口を封鎖する。

 一仕事終えた僕は「ふぃ〜」と一息つき、布団に転がり込んだ。

「あ、やばい、封鎖したは良いけど、ピロシキたちが戻ってきたらどうしよう……」

 後の祭りだった。

 微妙に悩ましい悩みにさいなまれそうになった丁度その時、携帯電話のメールが着信を告げる。

 姫風からだ。

 確認したメールの中身はホラーだった。

《今から夢の中に行く》

 んな。


 沙雪さんに同じようなセリフを言われた僕は幸福感に包まれた。

 姫風のメール内容には脱力と恐怖を覚えた。

 なぜだろう。同じようなセリフを言われたのに、人物が違うだけで、こちらの気持ちがこれ程違う気分になるとは……。

 どれだけ思考してもとりとめがないので、僕はそれを放棄した。脳を酷使すると頭痛がきちゃうし。


 やっぱりと言うか、このあと見た夢は、姫風に強襲されて追いかけ回されるものだった。


 ◆◆◆


 時は流れて八月十八日。バイトは二十八日目に突入。残すところ、今日を含めてあと三日。

 徐々に段階を経た姫風の水着が、ビキニから紐のようなブラとキレのあるTバックに変わってしまった日でもある。誰か姫風を止めてくれ。


 夏休みも中盤になると、客が入れ替わる。

 遠方の都道府県からの客足は減り、対照的に地元の客が増えるのだ。

 地元の人間は遊び足りない夏を近場の海水浴場で補うことに必死のようだった。

 それに比例して、問題行動や迷惑を起こす客が増加する。

 今、目の前に、空色にいろどられた水上オートバイ(ジェットスキーやマリンジェットと呼ばれる物)に牽引されて、水上スキーを楽しんでいる大学生らしき男女が複数人居るのだ。

 遊泳専用区域で。

 大学生たちは、どうやら地元では有名なやんちゃ大好き集団らしく毎年迷惑を振りいているそうだ。

 そのことを、枝豆をさかなにビールを飲んでいた客――おじさんが愚痴混じりに教えてくれた。

 時刻はかき入れ時――ピークを過ぎた午後四時。客足の落ち着いた僕らは、オーダーストップの標示を店内に置いたあと、店外の炎天下にビーチパラソルを突き立てて、バーベキューを囲みながら遅い昼食を取っていた。

 新海さ――沙雪さんと仲良く食べながら喋りたいけど、あれ以来気恥ずかしくて近寄りにくくなってしまった。チキンな自分が情けない。

 そんな僕はと言うと、痴女姿な姫風相手にTシャツを着せていた。朝からずっと奮闘していたけど、のらりくらりとかわされて、Tバック&紐ブラの水着を見せつけられているのだ。精神的に辛い。

 その最中、ピーマンを咀嚼そしゃくしながら海岸線を眺めていたピロシキが、「あれ」と口を開いた。

「あれがおっさんの言ってた大学生たちだよな」

 水上オートバイがエンジン音と飛沫しぶきを上げながら、老若男女で賑わう遊泳専用区域を猛スピードで駆け抜けていく。

「あれは危ないのぉ」と眉値を寄せて腕を組むジジイ。

 依然としてライフセーバーや監視員の制止を無視する水上オートバイ。

 ピロシキ同様にそれを眺めていた叔母さんが、うれいをたっぷり含んだ含んだ表情と声音でこう告げた。

「毎年いるのよね。ああ言う困った子たちが」

「ぼくが注意してこようか?」と加齢臭。

「あんたの場合は別のトラブルを産むでしょ?」

 叔母さん――実姉ににべなく切り捨てられた加齢臭トラブルメーカーは、悪びれず、オーバーに肩をすくめて苦笑いし、そのまま僕の傍らにやって来ると、ニヤリと笑った。

「ぼく怒られちゃった」

「黙ってろ」

 頼りにならない加齢臭の代わりに「衝突事故が起こりそうで怖いし、注意してこようかな」と思い立ち、誰とは無しに僕は言う。

高校生ガキだからって舐めれるだろうけど、あとであの人たちに注意してくるよ」

 バーベキューを囲んでいた一同の視線が加齢臭から僕に集中した。

 曲がったことが嫌いなジジイも「手を貸そう」と頷いてくれる。

「生まれる時代が違ったら斬り込み隊長に任命されてるよな、お前」とピロシキ。

 いつの時代の話だ。

 良い感じの盛り上がりに加齢臭が水を刺さす。

「女の子の前で見栄みえなり啖呵たんかなりを切りたいのかな? お年頃だね! 男の子だね!」

「目潰し!」

「目があああぁぁぁっ!?」

 人を苛立たせる天才かれいしゅうは、両手でまぶたを押さえて砂地を転がっている。

 百合さんが「やりすぎよ優くん!」と加齢臭の傍らにしゃがみこんで、頭を抱き起こし、自分の巨大な乳(パーカー越し)へ押し付けている。羨ましいっ!

「ゴメンナサイ」と心にもない謝罪をする僕。

 百合さんの表情は悪戯っ子に対するそれだ。

「もぉ優くんたら……あ、それと雪哉さんも言ってたけど、ただカッコつけたいだけならやめた方が良いわよ。女の子はカッコつけたがる男の子をカッコイイとは思わないし、逆に見栄だと見抜いちゃうから」

 追加で叔母さんが僕たちをいましめる。

「なんにしても、みんなも危ないから話しかけたりするのはやめときなさいね。ああ言うのに絡まれるとあとが面倒だし」

 ただ単にカッコつけたいからと言う理由で、水上オートバイのお兄さんたちを注意しに行く訳ではないのに、なにやら大人勢おとなぜいに勘違いをされてしまった。

 善意が裏目に出るとはこんな感じなんだろうか。

 僕と同意見だったのだろう、ジジイとピロシキが一様にに落ちない表情をしている。僕も同じ表情をしているに違いない。

「……ん〜早く大人になりたい」

 そうなれば頭ごなしに否定やら戒めやらをされなくなるだろうし。

 嘆息気味の独り言を叔母さんにすくわれる。

「大人なんてすぐになれるわよ」

 叔母さんがクスリと微笑んだあと、話を締めくくった。

「さて、これを食べたらバイトに戻ってちょうだいね」

 十分後、昼食を終えた各々は、海上を滑走する水上オートバイに後ろ髪を引かれつつ、「海の家」室内に戻って行く。

 殿しんがりの僕も同様に、後ろ髪を引かれつつ、どうにかTシャツを着せ終えた姫風と、それに寄り添う椿さんと共に「海の家」へ戻り始めた。

 けれど、数秒も経たないうちに声をかけられる。

「ゆう」

 僕は無意識に立ち止まっていたらしい。いつもの無表情で姫風が覗き込んでくる。

「……なに?」と姫風から距離を取る僕。

「あれを止めれば良いの?」

 あやうげに遊泳専用区域を滑走する水上オートバイを指差す姫風。

「言うはやすしだけど止めたいよ」

 我が物顔で周りに迷惑をかけるヤツを放置するのは、僕の性分に合わない。

砂浜こっちに戻ってきたら、ちょっとモンク言ってくるから、みんなには黙ってて」

 僕が言い終わると、姫風が口のはしだけをつり上げて笑った。いやわらった。

 無表情なだけにゾッとするほど怖い。

「ゆうの手をわずらわせるまでもない」

「え?」

 姫風は僕の疑問を他所よそに、椿さんが手にしていた焼きトウモロコシから粒を数個搾取すると、海上を走行する水上オートバイ目掛けて、それを指で弾いた。

 数個の黄金色の弾丸が瞬く間に視界から消えると、「目がああああああぁぁぁぁぁぁ!?」と言う絶叫とともに、お兄さんが水上オートバイから海上へと落下して行く。

 間を置かずして、水上オートバイからは黒煙が立ち上ぼり始める。

 …………えっと。

 取り敢えず僕は親指を立てる。

「姫風グッジョブ!」

「お礼はキスで構わない」

「断る!」


 海上でなにかが爆発した。


 ◆◆◆


 水上オートバイが爆発・炎上・沈没して間もなく、海水浴場にパトカーが二台やってきた。

 浴場半分を封鎖してゲンバケンショウとジッキョウケンブンをり行うそうだ。

 ……大事おおごとだね。

 水上オートバイに乗車していた大学生は、幸いにも爆発前に海上へ投げ出されていて無傷だったらしい。

 程なくして、警察車両のサイレンを聞き付けた、もしくは水上オートバイの爆発を発見した野次馬が、警察官の引いた規制線――キープアウト前にむらがり、押し合いし合いを開始。

 それにともい、本日の閉店を三時間後に控えていた「海の家」が、にわかに活気づいていた。

 水上オートバイの炎上が客足を運んでいるのだ。

 その最中さなか、店内で会計を担当していた佐竹くんが、レジから元気な声を張り上げた。

「マム! この勢いだとあと二時間で釣り銭が切れそうだ!」

「閉店まで持たないのね?」

「イエスマム!」

 佐竹くんの言葉を受けた叔母さんが、壁掛けのデジタル時計を一瞥して、「優哉くん!」と畳み敷の四畳半――従業員休憩室バックヤードで倒れていた僕を呼びつける。

「う、はい」

「お釣りがあと二時間も持たないらしいの。休憩中のところ悪いけど、姫風ちゃんと銀行に行ってきてちょうだい」

 顔を上げた僕の傍では、国府田さんも同様にうつ伏せでグテッと転がっている。

「姫風と、ですか?」

 なんでまたアレと。

「二十分に一回、優哉くんに触れないと、姫風ちゃんは倒れちゃう体質なんでしょ? 病名はなんだっけ……優哉くん欠乏症?」

「それ騙されてますからっ!!」

 一年と二ヶ月離れていた期間もあったんですよ!?

 叔母さんが店内に向いて呼び掛ける。

「姫風ちゃ〜ん、優哉くんと銀行に行ってきてくれる?」

 この人も聞く耳を持たないらしい。

「解った」と給仕中だった姫風が従業員休憩室に飛び込んできて、うつ伏せに倒れている僕をチラ見する。僕は目をらす。

 叔母さんが続ける。

「そんな訳だから、休憩中の国府田さんは姫風ちゃんの穴埋めに入ってね」

 たった今休憩に入ったばかりの国府田さんが、緩慢な動作で立ち上がる。

「……ボク頑張るよぅ」

 涙目だった。


 ◆◆◆


 叔母さんから鍵を借り受けた僕は、姫風を同伴して、叔母さん別荘宅へやってきた。

 僕が室内でライダースーツに着替えている間に、別荘周辺に駐車してあるはずの単車バイクを「探す」と言って姫風は颯爽と立ち去った。

 着替えを終えた僕は、フルフェイスのヘルメット片手に姫風と単車を探す。

 バイク用シートが外されている一台の単車を、雑草がまばらに伸びた別荘側面で発見した。姫風はどこ行った。

 ま、いっか、と姫風の存在を忘れて単車を眺める。

 おお〜黒い黒い。カワサキのZ‐2(ゼッツー)じゃん。って、おいおい、これ大型じゃん。僕、十七歳なんで、中型免許しか持ってないんだけど。

 大型の運転は一応経験があるけど、良いのか道交法的に。

 今から姫風と二人乗り(タンデム)する訳で、しかし中型免許を修得してからまだ三年経過していない上に、慣れない大型を運転するのは……と唸りながら懊悩おうのうしていたら、「ゆう」といつの間にか姿を消していた姫風が、別荘裏手に回っていたらしく、そこから手招きしてくる。

「こっちにもう一台ある」

 オールドタイプ(Z‐2)のお次はなんだろう。

 裏手に回り、こっち、と姫風が示す物の前まで辿り着き、それを眺める。

「これ」とバイク用シートを取り外す姫風。

 お目見えした単車は黒光りするアメリカンタイプのクラシックカーに見えた。

「――って大型じゃん」

「違う」

 単車に詳しくない人はハーレーダビッドソン(ハーレー)を思い浮かべてくれると良いかな。あれに少し近い感じだ。

「いやデカイし」

「これはホンダのシャドウ四○○。四○○cc内では国産最大級の中型バイク」

 こう言うことに関して姫風は嘘をつかない。けれど目の前の大型を見た状態では、それも半信半疑だ。

 叔母さんに電話をかけると『それは排気量四○○ccの中型よ』と説明されてしまった。

「疑ってごめん」

「愛してると言ってくれれば許す」

「しぃちゃん愛してる」

「違う」

「百合さん超愛してる」

 途端に姫風がくるりときびすを返し、バイクから遠ざかる。

「どこへ?」

「紫苑と母を埋めてくる」

「ちょ、待て待て待て待てっ!!」

 急いで姫風の腕を掴む。

 この女はやると言ったら本当にやる。

「愛してると言って」

「まずは着替えてきなさい。Tシャツに、ティ、Tバックとかコケたときに大惨事だ」

「私は大丈夫。愛してると言って」

「僕が気が気じゃないの。なるべく厚い布地の物を着てきてよ。じゃないとタンデム(ふたりのり)させないし、愛してると言えない」

「私がレアケースをのがす訳にはいかない。ジーンズ履いてくる」

 レアケースってなんだ。タンデムのことか。愛してるのことか。

「……まぁ良いや」

 思考することが面倒臭い。

 単車に鍵を突っ込んでエンジン始動。二、三回吹かして排気音を確認する。おぉ〜2in1のマフラーカッコイイ。エンジンが低音なのでこれは騒音になりにくい気がする。

 メーターも確認。ガソリンはある。フルスロットルだと一四○キロも出るようだ。

 オイル漏れ、ブレーキの利き具合、ミラー、ランプ等々の点検を終えて、「ちょっと試運転しよう」と裏手から出し、駐車場で運転開始。低速度を維持しつつ円を描く。

 一分ほどころがした感想は――

「デカイからブレーキパッドに足が届きにくいよこれ」

 日本人の平均身長を持つ僕だけど、この単車はブレーキパッドに足がつきにくい。それに車体が大きいのでやや不安定、慣れれば違うのだろうけど。

「お待たせ」

 姫風の声が聞こえたので単車を停車させる。

 振り替えると、トップはタートルネックのバックレスTシャツ、ボトムはジーンズ地のミニスカをまとったオジョーサンがそこに居た。

「なにその服装」

「似合う?」

 バックレスだからブラ代わりの水着が丸見えです。つか似合うとかじゃなくて。

「喧嘩売ってんのか。けたらり傷程度じゃ済まないんだぞ」

「大丈夫。ゆうは転けない」

「なにその自信っ?」

「時間も無いことだし早く行くべき」

 免許修得から三年以上走行していない場合のタンデムはこの際違法だけど気にしない。

 僕の中で問題なのは姫風を乗車させると言うこと。

 休日にピロシキを乗せて出かけることはあるけど、姫風となると、その、一応女の子だし、もし事故ったりして怪我なんかさせたら大事おおごとだし……。

 時間がないけど安全運転で行こう。

「うぅ……十二指腸潰瘍じゅうにしちょうかいようになったら姫風のせいだ」

「看病は任せて」

 胃潰瘍いかいようは治せて十二指腸潰瘍は治せないのか。

「はぁ……無駄口叩くのはこれくらいにして、そろそろ銀行へ行こうか。これかぶって」

 ヘルメットを渡しながらタンデムシートを叩く。

「落ちないように、僕にしっかり抱きつくんだよ?」

 シートをまたいで僕の背後に座った姫風が、僕の脇腹に腕を回した。

「合法密着万歳」

「降りろ」

 言うや姫風がコナキジジイばりに僕の腰へぎゅっとしがみつく。

「やだ」姫風さん更にぎゅっ。

 通常時なら腰か背中辺りに豊満な乳が押し付けられていることを実感して悶絶もんぜつしている筈だけど、今は硬いライダースーツ越しなので体温しか伝わってこない。

「『やだ』って――もぅ、良いや」

 我がままな姫風に対して僕ができることと言えば、嘆息しかない。

「それじゃあ走るけど、カーブでは曲がる側に体を倒してね」

「全力で?」

 僕を殺す気か。

「……全力だと転倒するから程々にお願いします」

わかった」


 一路銀行目指して出発進行。


 ◆◆◆


 時刻は午後五時。季節がら、まだ日暮れには遠い青空模様。

 鳳祐介わしは店外にて、水上オートバイ炎上の野次馬を相手にしながら、黙々と焼きそばを増産していた。


 遠方側面から排気音が聴こえて、ふと振り替える。

 砂浜を越えた向こう側――岬にある優哉の叔母別荘宅から、エンジン音が聴こえていた。

 低音を響かせながら県道を疾走するそれは、黒く巨大なバイクだった。

 黒いライダースーツに身を包んだあれは……体型から考慮して優哉か? 後ろには鈴城姫風が乗っておるし、十中八九間違いないじゃろう、と内心でひとりごちる。

 巨大なバイクは視界から瞬く間に走り去って行く。

 さまになっておるな。ふむ、優哉め、カッコイイではないか。

 内心で称賛していると、焼きそばの歩き売りから坂本寛貴さかもとひろきが戻ってきた。後ろで束ねた茶髪セミロングをヒョコヒョコさせている。

 傍らには数人の若年女性。相変わらずモテるのぉ。

「客を連れてきた」と寛貴。

「つか、さっきのあれ優哉バカだよな?」

 寛貴も走り去る優哉を目撃していたようだ。

「後ろに鈴城姫風を乗せておったから間違いないじゃろうて」

「優哉は大型免許を持ってねえが、安定させて走らせてたな」

 女性客に焼きそばを渡しながら寛貴に向いて頷く。

「あやつは妙に運動神経が良いからのぉ」

「知能の代わりに器用さを与えて貰ったってか? あ、いらっしゃいませ〜そこの綺麗なお姉さん、焼きそば食べない?」

 寛貴は道行く女性――特に顔の整った若年女性に片っ端から声をかけては、屋台前に連れてくる。

 瞬く間に焼きそばのストックを消失させてゆく寛貴。

 最後の焼きそばパックをけさせた丁度その時、寛貴が首から下げていた携帯電話が着信メロディーを奏で始めた。

「バイト中は電源を切っとくもんじゃ」

「すまんすまん――ってゲッ」

 おざなりに謝罪する寛貴が、携帯電話のディスプレイを眺めたかと思うと、凍りついたように固まった。

「うわぁ……電源切っとくべきだった」

 頭を抱える寛貴。

「股をかけている相手が鉢合わせでもしそうなのか?」

「そっちの方がまだマシだ」

 鳴り響き続ける携帯電話。

「電話の相手はそれ以上に最悪なのか」

 頭を抱え込んだまま力なく項垂うなだれていた寛貴が、わしに携帯電話を突き出す。

「わしに他人ひとの携帯電話を覗く趣味はない」

「良いから見ろって」

 押し付けられた液晶ディスプレイの表示には、「姉1」と出力されている。

「『姉1(あねいち)』? あぁ、長姉の一葉かずはさんか」

 寛貴によく似た高身長(一八○センチ)の女傑を思い出す。

一姉かずねえは厄介事しか押し付けてこないんだ……電話出たくねえ〜。出ないなら出ないで、あとでつまんでねじられるだろうし」

「なにを摘まんで捻るんじゃ?」

 わしをスルーして寛貴が電話に出る。

「一姉、俺、今バイト中なんだけど」

 ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、通話中の寛貴の顔色は青い。

「は? 優哉? 今は居ねえよ」

 あぁ、そう言えば一葉さんは優哉に御執心だったのぉ。

「いやだから、代われって言われても優哉バカは居ないって言ってんじゃん」

 確か、理由は不明じゃが、優哉も一葉さんを恐れていたような……。

「だ、だから摘まんで捻るとか言わないでくれよ!」

 たからなにを摘まんで捻るんじゃ?

 ともかく張り上げる音声を落とさせよう。

「寛貴、今はバイト中じゃ。静かにな」

「あ、わりぃ」と寛貴。

 わしの顔を一瞥いちべつした寛貴は、バツが悪そうに視線をらし、声量を下げて、途切らせていた通話を再開させた。

 数秒後――寛貴が大音量で叫ぶ。

「はっ!? 来るっ!? 今からっ!? ここにっ!?」

 寛貴の顔色を見るに、やつの天敵・一葉さんがここへ来訪するらしい。波乱がなければ良いが。

「は? かえでって誰だよ? 新海の? あぁ、新海の姉か」

 思いもよらぬ名前に、ぶふっと吹き出すわし。

 楓――新海沙雪の姉であり、七月まで入院していたわしの妹の元担当看護師でありわしの――

「祐介、喜べ。お前にも吉報だ」

 寛貴が携帯電話を渡してくる。顔色は青色から一転して喜色満面。意地の悪い笑みを浮かべておるのだ。

 寛貴が言外に早く電話に出ろと訴えかけている。

 きっと、通話相手は姉の一葉さんではない。

 やれやれと嘆息しつつ、わしは携帯電話を受け取り、発声する。

「お電話は変わりました」

『あ、祐介くん? 私。楓』

 通話相手は案の定、新海の姉・楓さんだった。

「ご無沙汰しております楓さん」

『ご無沙汰してないでしょ? 二日ぶりでしょ?』

 声音から脳裏に年甲斐もなく頬を膨れさせるスレンダーな女性を思い浮かべる。

 優哉にこれを告げると暴れるので黙っているが、楓さんは妹の新海沙雪と違いかなり美人だ。妹と同じく胸はないが。

「最近物忘れが酷くて。わしには若年性健忘症のがあるようですな」

『もぉ、嘘つかないの』

 怒られた。


「あれ?」


 寛貴の疑問符を大量に含んだ声音に、携帯電話の通話口を押さえてそちらの方を向く。

「どうした?」

 焼きそばの屋台前――目の前――を横切る人物に「あれ」と寛貴が目配めくばせする。

 視線でうながされた先には、ウィッグを付けてセミロングになっている女装した優哉が、優哉に似た歳上の女性と歩いていた。

「銀行からもう戻って来たのか」

「んなわけあるか。片道四○分だぞ。銀行に寄る時間を考えたら一時間半は戻ってねえよ」

 優哉が出発してからまだ三○分だぞ、と寛貴。

 つまり別人と言う訳か。

 優哉を注視すると確かに優哉とは違った。わしがどこをどう見間違えたのか解らないが、見た目や雰囲気が優哉に似ているくらいで、優哉とは別人の女性だった。

「今の女、なんとなくだが優哉に似てなかったか?」

「わしは一瞬見間違えたぞ」

「だよな。オレサマもだ」


『もしも〜し? 祐介く〜ん? 聞いてる〜?』


「あ、はいはい」

 通話中だったことを思い出して、わしは携帯電話を耳に押し当てた。


 ◆◆◆


 そろそろ日暮れも間近な五時五十分ちょい過ぎ。

 両替してきた姫風が、銀行の自動ドアから姿を出現させた。手にはチラシのような物をたずさえている。

 駐車場でボケーッとしていた僕に、あと二メートルと言った距離まで近づいた姫風が、立ち止まって、僕の爪先から頭まで何度も視線を往復させる。

「ゆうカッコイイ。愛してる」

 姫風がうっとりしたように呟いた。

 なにごとかと周囲の人たちが僕を振り返る。

 周囲に「なんでもないですなんでもないです」と必死にジェスチャーする僕。

「開口一番なに言ってんのっ! ……で、その手に持ってる紙はなに?」

 姫風がA4サイズのそれをズズイと僕に突き出す。

「納涼祭のお知らせ。開催日は三日後」

 受け取ったチラシには、納涼祭の告知が書き記されていた。汐実神社しおみじんじゃなる場所で、日時は二十一日の十八時からとのこと。つまりは三日後の夜からもよおされるらしい。

「夏祭りか。バイトが終わった次の日みたいだね、これ。でも汐実神社ってどこだろう?」

「ゆうの叔母宅から北側の山間部に見える赤い鳥居は覚えてる?」

「あ〜あの山ん中にポツンとある赤いやつね。あれが汐実神社ってこと?」

 姫風が頷いた。

「神社近いな!」

 近場のお祭りならば是非行きたい。夏祭りなら尚更だ。

 叔母さんには、バイトが終わって更に二泊させて貰えるようにお願いしなきゃね。

「ゆうと夏祭りデート」

「妄想での脳内デートならいくらでも僕を出演させてくれて構わないから、沙雪さ――新海さんとのリアルデートは一切邪魔しないでね」

「リアルデート? 面白い妄想は程々にした方が良い」

「電波女に電波扱いされたっ!?」

「電波女ではなく妻」

「……ループする話題はやめようか」

 自信満々な姫風をたしなめつつエンジンを始動させる。同時に、姫風が僕の背後に座り、脇腹へ両腕を回してくる。密着してくる。しかし、突然なにを思ったのか、密着していた体を離した。

「不満」と姫風。

「はっ? 不満」

「ライダースーツのせいで抱きついてもゆうスメルがしない。これ脱いで」

 ライダースーツを脱がそうとする姫風の手を払う。

「やめれ。で、スメルって?」

「匂い。ゆうしゅう

「降りろ変態」

「やだ」

 姫風を引きがしにかかるけど、体ごと密着される。脇腹に回されている両腕の力も強くなった。

 肺を圧迫されて僕の息が止まる。

「ぐふっ、さ、鯖折さばおりすな」

「このままデートに――」

「誰が行くかっ!」

 脇腹に回されていた姫風の両腕がゆるんだ。

「そんなに古墳デートが嫌い?」

「だからなんで古墳にこだわるんだよっ!」

「古墳以外ならどこ?」

「デート自体嫌だっ!」

「ゆうはままあう」

 我が侭の権化ごんげにヘルメットをかぶせた。

「落ちないようにしっかり掴まってて」

「任せて」

 姫風が両足まで僕の脇腹に回してくる。

「ぐふっ」

 ※足の力は腕の力の三倍だそうです。

「み、見える……シャングリラとか桃園郷とか黄天とか高天原とか理想郷とか行っちゃいけないものが見え――絞め殺す気かっ!!」

「ゆうにノリツッコミは向いてない、と」

 姫風が胸元から手帳みたいな物を引っ張り出してメモった。

「……凄いとこに収納してるね」

淑女しゅくじょたしなみ」

 嫌な嗜みだ。

 そうこうするうちに、姫風がメモり終えた手帳を胸元に戻した。


 この淑女の胸元は四次元に繋がっているのかも知れない。


 ◆◆◆


 暮れなずむ夕刻の六時半。

 姫風を先に下ろして「海の家」に向かわせた僕は、叔母さん別荘宅に単車を戻して、ライダースーツのせいで汗臭くなった体をシャワーで洗い流して、Tシャツプラス水着に着替え直した。

 一息つく間もなく叔母さん別荘宅から出ると目の前に無表情な姫風が立っていた。両手にバット持参で。

「殴らないでっ!!」

 僕は両手で頭をかばう。

「私がゆうの頭蓋骨、大脳新皮質、前頭葉を唐竹割りで殴り割るワケがない」

「具体的な否定内容だねっ!!」

 絶体殴るつもりだっただろうっ!?

「姫風はバットなんか持っちゃいけない! 僕に渡して!」

「ゆう強引」

 姫風がバットを握り締めた姿を長時間目撃した場合、心臓の弱い人――主に僕がショック死するので姫風からバットを押収する。

「なんでバットを持ってたのさ」

 姫風の話を聞くとバットを手にしていた理由はこうだ。

「スイカ割り用のバットが足りなくなりそうだったから、叔母別荘宅ここの裏庭に保管していたそれを補充に来た」とのこと。

「僕はてっきり僕を殺しに来たのかと思ったよ」

「なぜ?」

「なんとなくね」

「私に対してやましいことがある、に百兆ジンバブエドル」

「それ確か日本円換算で六十円くらいの価値だよね?」

 ジンバブエは国民に社会補償おかねをバラ蒔きすぎて、他国とレート格差が生じた国だよね。

 姫風と肩を並べて「海の家」に向かい始める。

「はぐらかしてる」と追求してくる姫風。Tシャツの上から乳首をままれる僕。

「やめれ!」

 姫風の手を振り払った。

「焦ってる。ゆうは私に疚しいことがある」

「焦ってるのは乳首を摘ままれたからだ! 疚しいことは……」

 疚しいこと? 問われて最初に浮かんだ内容は、新か――沙雪さゆきさんと二人きりで花火をしたことだった。

「べ、別に疚しいことなんかないし!」

 客観的に見ると、僕が浮気を誤魔化す彼氏みたいになってるね!

 眼光鋭く僕を睨み付けていぶかしむ姫風。

 沙雪さんとの花火を追求されたらボロが出そうなので、急遽話題を変更する。

「そ、そんなことよりも! いい加減、僕についての嘘をつくのはやめなさい」

「例えば?」

「叔母さんに言ってた僕欠乏症とか」

「嘘じゃない。現に今はゆう欠乏症。握手して。掌からゆうエキスを補給する」

「僕エキスってなんだっ!? なおさら握手は嫌だよっ!!」

「友達なのに?」

「友達だからこそ嫌だ」

「つまり、友達以上の関係に踏み出したい、と?」

「んなワケあるか!」

 拡大解釈もはなはだしい!

「ゆうが友達宣言をしてまだ三ヶ月。ゆうはせっかち。だけどその話なら大歓迎」

「人の話を聞け!」

「握手したら聞く」

「握手以外にもなにかされそうで嫌だ!」

 ホントにエキスを吸われかねないので、隣を歩いていた姫風から距離を取る。

「他意はない」と姫風が僕を見つめる。

「ただ、私の寿命は短いから、ゆうと少しでも長く居たいだけ」

「は? 今なんて?」

 よく聞き取れなかった。


「私の寿命は短いの」


「……え?」


 僕の心臓が、ドクンッと大きく脈打った。




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