1.唯々諾々
「うわあああぁぁぁっ!?」
僕は叫びながら飛び起きた。
勢いよく真上に放り投げた布団が頭に振ってきて、首がゴキッて鳴る。ゴキッて。絶対鳴っちゃいけない音だよ今の!
「『なにが満更でもない』だよ!? 嫌がれよ僕!? あの姫風と結婚だよ!? ありえないよ!?」
荒い息を吐きながら、頬から流れ出る分泌液を手の甲で拭う。液の成分は主に汗。
ガチャダッダッダッゴンゴンゴン!
「鈴城嬢! 鈴城嬢大丈夫か!? 鈴城嬢なにがあったんだ!? 貞操は!? 貞操は大丈夫なのか!?」
扉の外には恐らく夢に見た佐竹くんが居る。僕と佐竹くんは二部屋離れているはずなんだけど、いち早く駆け付けてくれたみたいだ。凄い地獄耳。んなことは別にしても、相変わらず僕の性別を勘違いしているようだった。
「くそ! ドアが開かない! 今助けるから待っててくれ! すぐに鍵を借りてくる!」
タッタッタッ……と佐竹くんの足音が遠ざかって行った。
これとまったく同じことが二ヶ月前もあったよね?
「デジャビュウってヤツだねうぶぁっ!?」
「朝からウルセエぞ優哉」
僕の顔面に枕を投げつけたのは、右隣で寝ていた坂本寛貴ことピロシキだ。彼は布団から身を起こして、壁に掛けてあるデジタル時計を一瞥すると、軽く舌打ちした。
「まだ五時半だぞ。オレサマの眠りを妨げるなボケが」
どこのエスタ●クだお前は。
「ごめん」
「ふん、解れば良いんだボケが」
ピロシキが布団の中に潜り込んで数分後。彼が熟睡したのを確認してから、耳元にこんなメッセージを吹き込んだ。
「一葉さんがピロシキにプロポーズ一葉さんがピロシキにプロポーズ一葉さんがピロシキにプロポーズ一葉さんがピロシキにプロポーズ」
みるみるうちに顔が真っ青になっていくピロシキ。
いそいそと僕は自分の布団の中へ潜り込む。
数秒後、ピロシキが絶叫した。
「うわあああぁぁぁっ!? おぶっ!!」
すかさず身を起こした僕は、ピロシキの顔面に枕を投げ付けた。
「な、なにすんだテメエ!」
「午前五時半に大声を上げるなんて常識外れだよピロシキ」
ちっとピロシキが舌打ちする。
「仕方ねえだろ!? 姉ちゃんがウェディングドレス姿でオレの横に立ってる夢を見たんだ!! それとピロシキ言うな!」
僕は平静を装いつつも、内心でガッツポーズ。
「それはそれはご愁傷様。でも時間も時間だし、静かにしないとね」
また舌打ちしてピロシキが布団の中へ潜り込んでいく。
満足した僕も再度布団の中へ潜り込んだ。
数分後――
「にゃあああぁぁぁ!? 首がもげちゃぅぅぅ!?」
「お前ウルセエよ!」
佐竹くんがやって来るまでこれを繰り返した結果、「お主らほんに仲が良いのぉ」と僕らのやりとりの一部始終を眺めていたらしい鳳祐介ことジジイが、ポツリと零した。
ピロシキといがみ合いながらも思い出すのは、夢の中のできごと。先ほど見たウェディングイベント――悪夢についてだ。
僕がこんな悪夢を見るようになったのは、つい最近のこと。そして、なにを隠そう、悪夢の原因には心当たりがある。
全てはあの日起こった、「あの事件」からだ。
キーワードは「あの事件」と「満更でもない」の二つ。いや本当は全然重要なワードじゃないんだけどね。
それでも一応語ろう。
そもそも僕が、姫風と一緒に居ることに「満更でもない」と思うようになった理由は、あの事件のせいだ。
あの事件とは五月末に発生した「鈴城優哉身代金要求未遂事件」のことだ。
長いね。僕は早口で三回言えないよ。
僕の中では「鈴城優哉身代金要求未遂事件」を「友達宣言記念日」と呼称している。
姫風に「友達になろう」と、僕から歩み寄った記念日だ。
今思えば「早まったことをしたなぁ」と言う思いと「あれで良かったんだよ」と言うアンビバレンツ(二律背反)な思いが混じって複雑な気分になる。
まぁ、済んだことを愚痴っても未来は明るくならないので、この愚痴はここで終了。
件の「友達宣言記念日」以降、僕と姫風の関係は劇的に変わった――こともなく、以前より、邪険に扱う回数が減り、まともな会話を交わす回数が増えたくらいだ。
姫風と話すことが苦にならないと言うのも不思議なもので、今の気分を例えるなら「宇宙人が地球に住居を構えることを許可した気分」かな?
その宇宙人は「友達宣言記念日」の翌日から、毎朝寮の前に椿さんをともない、登下校の送迎に来るようになった。
ちなみに、姫風と椿さんは加齢臭(父親父)の姉兼僕の叔母のところへ下宿させてもらっていることが「友達宣言記念日」に判明。寮との距離は約二キロメートル。超近い。
迎えにきた双子、特に妹の姫風とは、友達になると宣言したのだから、登校の際はもちろん、休み時間、下校の際関係なく、いつでも会話を交わすようになってしまっている。
会話を交わすようになったのは良いけど、彼女たち双子の返答は、まともな内容が二割くらいしか返ってこない。
男に二言はない訳で、今更「友達宣言」を撤回しようとは思わない。
思わないけど、意思の疎通は大事だなぁ、と二人と会話していて常々思う。
と言うのも、会話中に姫風は大抵痴女化して、椿さんの場合は大抵話が飛ぶ。もしくは返ってこない。白ヤギさんに出した手紙ばりに返ってこない。
その二人との会話の中で、最近は、彼女たちの有効な活用法を覚えてきた。
話の的を絞れば良いのだ。
僕に関するあらゆることを熟知している姫風は、例えば僕が好きなアーティストのアルバム発売日を訊けば、必ず答えてくれる。博識を遺憾無く発揮してそのアーティストに纏わるエピソードや知恵まで授けてくれたりするのだ。結構便利。
なんてことを回想していたら、足音荒く駆け抜けてきた誰かが、僕らに割り当てられた部屋の前で解錠作業に入った。
「待ってろよ鈴城嬢! 今、俺が助けるからな!」
性別の勘違いと声から佐竹くんで間違いなさそうだ。
「くっ、これも違う! 待っててくれよ鈴城嬢! もう少し子! もう少しの辛抱だ!」
叔母から鍵束を借りてきたは良いけど、多すぎる鍵に手を焼いて、解錠に手間取っているらしい。
「……優哉、お主はなにから助けられるんじゃ?」
「僕が知る訳ないでしょ!?」
「佐竹のヤツ、このままだと扉を壊しかねねえぞ」
二人とも僕を見るな。
僕の左隣にスペースを構えるジジイが続ける。
「『僕は関係ない』と言う目をしておるが、お主が一声かければ済む話じゃろぉ?」
「まったくだ。早く佐竹の安眠妨害を止めやがれ」
なんで僕が佐竹くんの手綱を握らされてるの?
僕が押し付けられた責任にう〜う〜唸っていると、布団の収納スペースに使われている空間と、三人が寝泊まりしている空間を隔てる襖が音もなくスライドした。
「ゆう、おはよう」
『うわぁっ!?』と僕、ジジイ、ピロシキが驚愕をユニゾンさせる。
「ひ、姫風!? いつからそこに!?」
布団を収納しておくスペース内にストーカー女・姫風が居た。
「前世から。あ、昨日から」
壮絶な言い間違えだった。
「そんなことより、ゆう、こっちに来て」
「昨日から!? それは無理がああああああぁぁぁぁぁぁっ!? むぐぅ!?」
僕は口を塞がれながら、姫風の手により収納スペースへ引きずり込まれてしまった。
「黒マッチョ、坂本、あとは任せる」
言い捨てた姫風は収納スペースにて、引き込んだ僕をハグハグ開始。言われたピロシキが崖に面した窓を開け、ジジイが「黒マッチョ……」と寂しそうに呟きながら、僕らの潜む襖をピシャッと閉める。そして、二人は何事もなかったかのように、元の位置――自分の就寝していた布団へ戻った。
なにこの連携プレイ。
僕は必死でもがくけど、異常な膂力を備える姫風からは逃れられない。
視界の光源は、僅かな隙間から差し込んでくる朝陽だけ。
そうこうするうちに、ガチャガチャ……カチャッと開錠音が聴こえてくる。
「しゃあっ!! やっと開いたぜ鈴城嬢ぉ!!」
襖の隙間から眺めていた僕の視界に、佐竹くんが登場した。
どうにか解錠に成功して、足音荒く室内へ飛び込んできたようだ。その佐竹くんが近くに居たピロシキに詰め寄る。
「鈴城嬢は!?」
「外」
「とう!」
佐竹くんはピロシキが指差した窓から勢いよく飛び降りた。
ちなみに僕ら三人が寝泊まりする部屋は角部屋で、海岸沿いの崖っぷちに面している。
躊躇うことなく窓から飛び降りた佐竹くんの幻影を追うかののように、無言で窓を見つめるピロシキとジジイ。
先に口を開いたのはジジイだった。
「寛貴、そこの窓の外は、高さ四○メートルはある崖じゃぞ?」
「細けえことは良いんだよ。これで佐竹は暫く帰って来れねえから二度寝できるし」
ピロシキが言うそばから、ドボーンと音がした。あたかも巨大なナニかが水面に落ちたような音だった。あたかも巨大なナニかが。
渾身の力を振り絞り、姫風の魔の手から脱出した僕は、襖を蹴り倒して収納スペースから飛び出る。
そんな僕の努力を嘲笑うかのようにピロシキが一言。
「優哉窓閉めとけよ」
「開口一番それか!!」
さっさと布団の中にピロシキが潜り込む。
「無視か!!」
ぽんぽん、と背後からジジイに肩を叩かれる。振り替えると、初孫を眺める好好爺の顔をしたジジイがそこに居た。
「ほんに罪作りな色男じゃのぉ、お主は」
「それ佐竹くんのことだよね!? それ佐竹くんのことだよね!?」
超嬉しくないレッテルは要らないので二回言いました!!
言い合う僕とジジイを尻目に、なに食わぬ顔で姫風が僕の布団内へ忍び込む。
「姫風はそこでなにしてるのかな?」
「準備」
「準備?」
「try to have a baby.」
「流暢な英語でなに言ってるか解らないけどなんとなく解った! 断る!」
夏休みが始まって、まだ三日目だけど、既に前途多難だった。
◆◆◆
携帯電話を新規で買い直したり、水色の便箋差出人を捜索したり、新海さんの惚れている相手を確かめられないまま、あれよあれよと月日は流れ、気付けば夏休みに突入してしまった。
夏休み真っ只中の僕とクラスメイトは、叔母(加齢臭の姉)からの依頼で、海の家にて絶賛バイト中だったりする。
海の家は僕の住む寮から八○キロほど離れた海岸線沿いにあり、その付近にある崖に面した築八年の三階建て家屋で、現在は寝泊まりしている。
条件は一ヶ月の住み込みで、時給九二〇円の三食賄い付きと言うなかなかの厚待遇。訂正、バイトの中身を加味すると過酷の一言に尽きる。
ちなみに家屋は叔母の所有物件とのこと。
ところで、窓から飛び立った佐竹くんは無事だろうか?
それはそうと、僕がクラスメイトとバイトをしている理由をお教えしよう。
そう、あれは教室内の冷房が壊れて間もない、七月の上旬のことだった……。
夕陽が差し込む放課後の教室にて、僕、姫風、椿さん、新海さん、ジジイ、ピロシキ、相庭さん、国府田さん、佐竹くん、灰田くん、妹尾くんの十一人は、静かに、あるいは情熱的にノートと向き合っていた。
僕の白紙のノートと。
時間はこの日のSHRが終わり、僕が帰り支度を始めた時にまで遡る。
「就職するにしても進学するにしても、そろそろ赤点はヤバくね? オレら二年だし。明日からテストだしな。つ〜かさ、どんなノートの取り方をしたら赤点になるんだ? ……ん? 待てよ。そう言えば、お前がノートを提出してる姿、一回も見たことねえな」
これは帰り支度を終えて僕の目の前にやってきた、学年次席たるピロシキの言葉だ。
彼は女の子に九股をかける極悪人。だけど、それにも関わらず、なぜか女の子に大人気のイケメン野郎だ。やっぱり男は顔なのか。
身長は一七〇センチの僕より少し上。茶髪に染めたセミロングをうなじ付近でひとくくりにしていて、馬の尻尾みたいにひょこひょこさせている。
就職も進学も未だに考えていなかった僕は、彼の言葉を受けて、ポリポリとコメカミを掻くだけ。
「ちょっとノートを見せてみろ」と鞄に詰めた数学のノートをピロシキに抜き取られた。
中身を覗いた途端に、目を丸くするピロシキ。
「……は、白紙だと?」
「てへ☆」
僕はペコちゃんばりに舌を出して自分の頭をコツン☆
「てへ☆ じゃねえ!」
僕の通う私立綾喃高校は、テスト毎に提出物がある。それは教科毎に板書を記したノートだ。
僕が在籍する進学(普通)科は全部で十三教科・二十三科目あり(英語【ライティング、リーディング、オーラル】、国語【現国、漢文、古文】、数学【1、2、3】、理科【生物、物理、化学】、社会【地理、世界史、日本史】、美術、音楽、体育、保健、家庭科、技術、柔道、剣道)、中間考査は基本五教科各一〇〇点満点(総合で一五〇〇点)で、学年末考査も各教科一〇〇点満点だ(総合で二三〇〇点)、教科によってはノートを提出するだけで十〜十五点の加点になるものもある。
そのノートを一年生の時から作っていなかった僕は「ほ、他のノートも白紙か!? これヤバいってレベルじゃねえぞ!? 明日から期末テストだぞ!?」と言うピロシキの切羽詰まった言葉に納得させられて、「じゃあピロシキのノートはどうなんだ」と、ピロシキの鞄からノートをひったくった。
「うりゃあ!」と、引きちぎらんばかりに開いたピロシキのノートは、凄く几帳面だった。
丁寧な字で要点を解り易く纏めており、これが勉強のできるやつとできないやつの差か、と染々僕は感心する。
そこへ帰り支度を終えた鈴城姫風が静かにやってくる。いつもの無表情で。クウォーターの証であるエメラルドグリーンの瞳で僕を見つめ、腰まであるロングヘアーの黒髪を揺らし、衣替えをして夏服姿となった半袖ブラウスの胸も揺らし、今日も今日とて日本人離れした足の長さと腰の高さ、スタイルの良さを僕に見せつけている。
「ゆう、帰ろう」
「帰れない」
「なぜ?」
「ノートの提出が明日だから」
「白紙?」
「もちろん」
姫風は僕の右隣で一部始終聴いていたであろう新海沙雪さんを押し退けて、着席した。新海さん涙目。
茶髪ポニーテールと愛らしい顔立ち、一五〇センチの低身長が特徴なスレンダープリティーガールは、押し退けられて立ち尽くし、呆然としている。
その新海さんに「姉がごめん」と僕は謝り、姫風に憤慨する。
「姫風サイテーだな!」
「タヌキのTime of right.は終了。もう少し詳しく言うとTime to exercise the right.」
「た、たい、なんだって?」
右の……時間?
「ゆうの隣で呼吸する権利は終了したと言うこと」
今の発言内に呼吸とか権利なんて英単語はあったの?
「今のライトは右隣の右と権利をかけたダブルミーニングかのぉ?」
ダブルミーニングってなに?
帰り支度を終えたジジイが僕の目の前――ピロシキの隣にやってきた。相庭さんも【親衛隊】を引き連れて、立ち尽くす新海さんの傍らにやってきていた。
いつもの放課後の風景に僕はなんとなく和む。
目の前で角刈り頭を撫で付けながら、筋骨隆々の高身長を持つジジイが染々と告げてくる。
「お主らは相変わらず阿吽の呼吸じゃのぉ」
僕と姫風を交互に眺めて、妙な納得をするジジイ。
あうんのこきゅーってなに?
ピロシキが僕のノートを指差しながら「んなことより、祐介、ちょっとこれを見てみろ」とジジイに話しかける。
「寛貴よ、買ってきてばかりのノートをわしに見せてどうする気じゃ?」
ジジイは手渡された僕のノートをパラパラと捲り、そう感想を述べた。
そのノートは四ヶ月前に買った僕のノートだよぉ〜、とは言えない。雰囲気的に。
「これこいつのノートだから」
僕を一瞥して嘆息するピロシキ。
再度疑問符を浮かべるジジイ。
「じゃから、買ったばかりのノートをわしに見せてどうする気じゃ?」
ピロシキが「そう思うよな、普通」と再度嘆息する。
「これ、優哉が四月に買った数学のノートだから」
「んん? どういうことじゃ?」と要領を得ないジジイが、ピロシキにノートを返す。
「さすがの祐介でもこれは理解できないか。かくいう俺もこれが現実かどうか、ちょっと不安になってきたくらいだしな」
「なにを言いたいのかよく解らんが、勿体ぶらずに早く言えばよかろぉ?」
勿体ぶっていたピロシキが、僕の机上にノートを置き、最初のページを開いて、トントンと指し示す。
「訊いて驚け。こいつは四月から七月の今日まで、黒板の内容をノートに書き写してないんだ、一文字もな」
「は?」
「当然、加点が貰えるノートも一切提出していない」
「真か!?」
ジジイがピロシキからコンパクトに僕へ振り返る。その目は全力で見開かれ、僕を射抜かんばかりに注視していた。
「優哉……それは真か?」
「てへ☆」
僕はペコちゃんばりに舌を出して自分の頭をコツン☆
「……違わず真のようじゃな」
一気に疲労困憊と言った表情になるジジイ。
現実を直視してくれてサンキュー!
「えとえと、『てへ☆』可愛い! 鈴城くんの『てへ☆』は凄く可愛い!」
場の空気を払拭しようと頑張る新海さん。
「お前黙ってろ」と素でキレそうなピロシキくん。
「新海さんの方が可愛いよ?」と僕。
「お前特に黙ってろ」と血管がキレそうなピロシキくん。
「す、鈴城くん……もう、バカ!」
顔を真っ赤にした新海さんから照れ隠しの張り手を顎にいただきました。あは、脳がプリンみたいにプルプル揺れてる。
「はっ!!」
隣から不穏な空気!
姫風が妹尾くんの座る椅子を奪い、新海さんに投げようとしていた。
「ばっ――姫風やめろっ!!」
僕は姫風を急いで後ろから羽交い締めにする。
「やだ。ゆうに触れた。タヌキ壊す」
「壊すな!」
一進一退の熾烈な攻防を繰り返す僕と姫風――見た目地味――。
「ゆうが大好きなスキンシップはあとでしてあげるから、今はこの手を離して」
「これ止むを得ずだろ!?」
姫風に都合良く捏造するな!
「どうしても離してくれないの?」
「今離したら投げるだろそれ!」
今にも投擲しそうな妹尾くんの椅子を指摘する。
「仕方ないからタヌキを壊す前に、ゆうをハグしてあげる」
「頼むから会話を成立させよう! な?」
会話文だけ見ると恐ろしく噛み合ってるのに、意思の疎通が皆無なのはなぜだ!
姫風は椅子を下ろして、僕に「今はもう椅子を投げない」と明言した。視線は新海さんをロックオンしたままなので、確実にあとで投げる気だ。
背後から姫風を羽交い締めにする僕の肩関節を一瞬だけ外して、僕にくるりと向き直った姫風がおもむろに口を開く。
「ゆう、私は可愛い?」
突然なにさ。
「そんなことより外された肩が泣きそうなほど痛いんですけど」
「ゆう、私は可愛い?」
これ答えるまで訊き続けるパターンか。
外された関節の非難を諦めてさっさと姫風に答える。
「姫風は可愛いよ? 地球上だと三十五億人目くらいに」
「つまり一番?」
どう解釈したら一番なんだ。「んなことより、呼吸をするように僕の肩を外すな」
「ゆう、嬉しそう。M気質がある」
節穴アイを持つ姫風に凄く誤解された。
どこをどうしたら今の僕が嬉しそうに見えるんだ。
「変なレッテルを貼るな。僕はドSだ」
つい性癖をカミングアウトしてしまった。周囲の友人たちが心なしか僕から距離をとった気がする。
「良かった。私はドM」
姫風も性癖をカミングアウトした。絶対嘘だ。
「そこの当事者! 和んでる場合じゃねえだろ!」
ピロシキには今のやり取りが和んでるように見えたのか。節穴アイ二号め。
「なにを怒ってるのさピロシキ」
僕は肩を揉みながらピロシキに向き直る。
「なに落ち着いてやがる!? 自分の状況を! 赤点具合を把握してから物を言え! あとピロシキ言うな!」
「『急いてはことを仕損じる』と言う諺を知ってる?」
「それは、尻に火が着いて丸焦げ状態のお前が使う言葉じゃないのは解るか? 解るな? 解れよ!?」
「一理あるね痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!」
ピロシキが僕の顔を片手で掴み、握り潰そうとした瞬間、姫風が拳でピロシキの体を吹き飛ばして止めた。吹き飛ばされたピロシキは複数の机を巻き込み、黒板下の壁にぶつかって止まる。
「ゆうに触れて良いのは、私だけ」
静かに告げた姫風が拳を掲げて見せた。
眼前で発生したにも関わらず、あまりの事態に「……え?」とクラスメイトの思考が追い付かない様子だ。
いち早く立ち直った僕は姫風を非難する。
「姫風やり過ぎ!」
リカバリーの早いピロシキがすぐに起き上がってこないじゃないか!
「私に触れて良いのも、ゆうだけ」
頼むから会話を成立させようよ! とツッコミを入れようとしたところで、はたと気付いた。
とどのつまり――
「今の攻撃は、ピロシキのアイアンクロー(鷲掴み)から助けてくれた訳じゃないんだね?」
「助ける?」と首を傾げる姫風。
「うん、今の言動で姫風の行動原理が再確認できたよ」
僕が苛められたからピロシキを殴った訳ではなく、あくまでも、姫風は姫風以外が僕に触れることをよしとしないから、ピロシキを殴っただけらしい。
姫風、恐ろしい子。
恐怖のストーカーから、哀れなピロシキに視線を移すと、うつ伏せに倒れた状態で痙攣している彼の姿が見てとれた。
姫風本気でやり過ぎ。あれ死後痙攣じゃないのか。
一瞬の騒動に、教室に残っていた少数のクラスメイトたちや【親衛隊】の面々は唖然としてしまい、開いた口が塞がらない様子だった。
どうにか唖然から立ち直ったクラスメイトたちは、一人また一人と、逃げるように教室内から去っていく。【親衛隊】は逃げたくても逃げ出せない感じだ。
姫風がまた恐怖心を植え付けてしまった。これ以上孤立無援ネタを作ってどうする。
そんなことは惑星の片隅に置いておくとして、僕はピロシキの生死を確認すべく、床に転がる彼へ近付いて、恐る恐る声をかけた。
「……生きてる?」
ピロシキからはくぐもった声音が返ってきた。
「……なんとかな」
おぉ、生きてる生きてる。
よろめくピロシキに肩を貸して、広瀬くんの席にまで戻り、慎重に彼を座らせる。
僕が席に着いたことを確認したジジイが、疲労困憊な表情でこう告げた。
「さて、優哉のことじゃが、なにか対策を考じねばならんな」
たった今発生した事件はスルーか!? ピロシキは殺人未遂を受けたんだよ!?
ジジイの言動を受けた新海さんと相庭さんは口々に僕のノート事情を口々に問い始める。
彼女たちはピロシキの吹き飛ばしを完全になかったものにしたいらしい。ピロシキ可哀想に。
問われた僕の代わりに、僕の状況を把握しているピロシキ――なんとか現世に留まっている――が、もう一度解り易く、僕のノート事情をみんなに暴露した。
すると、姫風を除いて、みんなの顔がひきつった。
「マズイのぉ」とジジイ。
「マズイね」と新海さん。
「マズイわね」と相庭さん。
目の前に腰かける瀕死のピロシキくんが、さらに僕に突っ込んでくる。
「……んで、バカな優哉くんは授業中になにをしてんだ。板書のノートを一切とらずに」
唇を尖らせて拗ねる僕。
「……教科書と睨めっこ」
「は? 睨めっこ?」
「睨めっこしてるから、ノートに板書を写してる暇がない」
「……先生の話が理解できないから、毎回教科書を読み返して、その間に授業が終わっていたとか言う訳じゃないよな」
僕は無言で拳を突き出し、グーを作って親指だけ立てる。
「『そのとおり』じゃねえよバカ!」
あらゆる事象を意に介さない姫風が、鞄から自分のノートを取り出して、僕に手を差し出す。
「ゆう、ノートをあるだけ出して」
「え?」
「私たちで今からゆうのノートを作る」
姫風の言動を受けて、相庭さんがぎょっとした。
「私たち?」と目を丸くする相庭さんを華麗にスルーした姫風が、僕を見据えながら、ピロシキとジジイともう一名に命令する。
「坂本、黒マッチョ、後ろの名無し、手伝いなさい」
言われて僕の左隣の席にジジイが腰かける。僕の後ろで今まさに教室から立ち去ろうとしていた、名無しこと妹尾俊之くんが自席に戻り、腰をおろした。
なにこの統率力。あと順応性。
姫風が「それから」と続ける。
「黒板前にいるそこの二人、こちらへ来て、近くに座りなさい」
逃げ遅れていた佐竹昇くんと灰田龍太郎くんが、ギョッとしたようにこちらを振り向く。二人は顔を見合わせて、恐る恐ると言った面持ちでこちらへ近付き、ジジイの前とピロシキの前席に各々(おのおの)座った。
そりゃあ抵抗したらピロシキみたいにされるかも、と恐々(こわごわ)従うよね。
今度は新海さんと相庭さんに矛先を向ける姫風。
「タヌキとキツネも好感度を上げたかったら手伝いなさい」
誰の好感度?
「ん、んい!? 好感度!? 鈴城くんの好感度は鰻登り!?」
僕の好感度?
「沙雪、煩悩が耳から出てるわよ」
相庭さんの指摘通り、新海さんの耳からエクトプラズムが出てる。人か!
「姫風、新海さん、僕のノートがどうして好感度へ繋がるのさ?」
妙な沈黙が流れた。
立ち直った新海さんと嘆息する相庭さんが、無言で空いている席に座る。
あれ、僕なんか滑った?
姫風が僕の頭をナデナデ。
「やめれ!」と僕は振り払った。
「ゆうは黙ってて、あとでフレンチキスをあげるから」
フレンチキスって本来はディープキスのことだよね!?
「いや、黙ってるからキスはなしの方向でお願いし――」
「黙ってて」
えも言われぬ迫力に僕は無言で首肯した。
髪型をシニヨンにしている相庭さんが、【親衛隊】を帰宅させる指示を出したあと、小さく溜め息をついて僕に向き直り、手を貸してくれる旨を素っ気なく言う。
「私、テスト勉強は終えてるから今日は暇だし、手伝ってあげるわ。鈴城くん、これ貸し一つね」
深々と頭を垂れるバカな僕。ザ・五七五。
「ほんとにすみません」
佐竹くん、灰田くん、妹尾くんにもペコペコと頭を下げた。
三人ともテスト勉強は終了しているらしく、これといった急ぎの用事もがないとのことで、躊躇いがちにだけれど笑顔を返してくれた。
僕は友人に恵まれ過ぎてちょっと泣いた。
「なんだかよく解らないが、ほら鈴城嬢、泣くなよ。美人が台なしだ」と佐竹くん。
「ま、困った時はお互い様だろ?」と灰田くん。
プラス台詞を割愛させて貰った妹尾くんたち三人の声音が優しくて、また泣いてしまった。
「泣いてる暇があったら、早くオレサマにノートをよこせ」
おのれピロシキめ……。
息も絶え絶え、瀕死なイケメンの言動で涙がピタッと止まった。
僕は鞄から残りのノートを取り出したあと、背後のロッカー内に突っ込んでいた残りの教科のノートもまとめて回収した。
「お前、全教科をその中に突っ込んでたのかよ……」
僕は無言で拳を突き出し、グーを作って親指だけ立てた。
「だから『そのとおり!』じゃねえよバカ!」
ピロシキはツッコミもそこそこに佐竹くん、灰田くん、妹尾くんにもこうなった経緯と事情を説明する。僕はそれを聞き流しながらノートを配り終えた。
配り終えるとまたひかれた。
みなさんはノートの白紙状態が冗談だと思っていたらしい。
「こいつを誰だと思ってる? 自他共に認めるバカだぞ?」
ピロシキが僕を指差しながらそう付け加えると、みなさんはすぐに納得してくれた表情となる。
うん、泣くよ?
僕がメソメソする間に、ピロシキが一同を見回して再確認する。
「学期末テストの加点ノートは十九科目。それに対してオレサマたちは九人。人数からも解るように、ノルマは最低でも一人二冊だ」
みなさんは投げやりに、あるいは真面目に、コクコクと張り子の虎ばりに頷いていらっしゃる。
「各自バカノートを持ち帰り、自宅にてノルマを終わらせろ。本来なら優哉がどうなろうと知ったこっちゃないが、このノート状況と、姫風姐さんのプレッシャーを鑑みれば拒否なんか――」
「坂本」と姫風が水を指す。
「――できな……なんスか姐さん?」
「私は全教科のノートを持ってる。今ここで丸写しが可能」
姫風以外が「え?」って顔になった。
一足先に立ち直ったピロシキが演説を再開する。
「……聞いたかみんな! 姐さんは全教科のノートを持ち合わせている! もう一度言うぞ! 姐さんは全教科のノートを持ち合わせている!」
姫風さん、ここは空気読もうよ。ピロシキが泣いてるじゃないか。
「良いかみんな! 今からここで、丸写しを始めるぞ! そんでもって、テスト明けには優哉に飯を奢らせるぞ!」
ヤケクソなピロシキの一声とともに、各々、僕のノートとなぜか全教科を所持していた姫風からのノートを借りて、丸写し作業を開始する。
僕にとって必要な物を、いつでも絶対に所持している姫風。
恐ろしいを通り越して寒気を感じつつ、僕もノートの丸写し作業を開始する。
なお、必要な物を所持している理由を姫風に言わせれば「妻として当然のこと」だとか。曰く「備え有ればハッピーウェディング」だそうだ。
そんなこんなで、気付けば僕らの教室――2−Cには、生徒が僕たち九人だけになっていた。
そこへ――
「忘れ物ぅ忘れ物ぅ♪」
陽気な声音で国府田さんが教室に戻ってきた。
「あぅ♪ あったよぅー!」
――犠牲者一名追加。
姫風に命令された国府田さんは、一切事情説明をされないまま、ノートの丸写し作業の末席に加えられた。
丸写し作業が行われて、一分も経過しないうちに、みなさんの作業スピードは落ちた。
教室内が臭いのだ。悪臭だけなら我慢できるけど、匂いを増産する相手が問題だった。
誰もが、その相手になにも言えず、時間だけが経過してゆく。
教室内はシャーペンの筆記音と、焦げ臭い匂いが充満してゆく。
誰もが焦げ臭い匂いの元凶をチラ見しながら筆記する。
言わずもがなだけど、匂いの元凶は僕の隣に座る姫風。
恐ろしい速度で筆記しており、シャーペンの芯とノートの接地面から煙が立ち上っているのだ。人か。
窓付近の席に座るジジイが、カラカラカラッと窓を開けることで、姫風対策とした。
それから三十分程経過すると、新たな犠牲者が現れた。
その新たな犠牲者は、抑揚のない声音でこう告げた。
「姫風、ゆうや、いつまで経っても靴箱に来ないから心配したじゃないか」
いつの間にやら、姫風と一卵性双生児である姉・椿さんが、教室内の戸口に立っていた。表情はいつもの不機嫌面。
怒りっぱなしだと悪玉菌が増えるよ? 増えたらどうなるのかしらないけど。
姫風は椿さんに取り合うことなく丸写し作業を続ける。
「姫風、椿さんになにか言ったら?」
「椿よりゆうが大切」
言うと、姫風がさらに筆記速度を上げた。
「今、ノートとシャー芯の境目が光ったよ!?」
「今の見た!?」と周囲に話を振るも、みんな黙りを決め込み、筆記作業に没頭しようと努力されている。
僕に形振り構ってる暇なんてないですよね。
「……すみません」と僕も作業を再開する。
一人要領を飲み込めていないであろう椿さんが、新海さんや灰田くんと言ったクラスメイトの視線にめげることなく、堂々と姫風の目前にやってきた。
「姫風、なにをしているんだい?」
セミロングのワンレングスから覗かせる左目はエメラルドグリーン。姫風と同じ体型だけど、なぜか胸はぺったんこ。「あの胸の起伏はまな板代わりに使えるね!」とか「魚とか捌けちゃったりして!」とか口走った日には、恐らく生爪を剥がされるので、それだけは言わない。
客観的に見て、姫風は綺麗、椿さんは凛々しいと言う言葉がよく似合う。口が裂けても本人には言わないけど。裂かないでね?
ノートに視線を落としたまま姫風が告げる。
「椿、良いところに来た。手伝って。ゆうが死ぬ」
なにその死亡予告。
「ゆうやが死ぬとは物騒な話だね」
理由も訊かずに納得する椿さん。
もうやだこの双子。
「姫風の頼みとあらばこの身を喜んで捧げようじゃないか。それで私はなにをすれば良いんだい?」
麗人・椿さんが姫風の目の前で演技めいたリアクションを繰り返す。
「人数分のコーヒーを買ってきて」
双子の姉すらパシリですか。そうですか。
言われた椿さんは「解った」と頷き、教室から出ていく。
哀れな椿さんを見送った三分後、哀れな椿さんが戻ってきた。
恐らく哀れな椿さんは、三階層に位置するこの二−Cから、一階層にある自販機まで全力疾走したと思われる。
「た、ただいま」
哀れな椿さんは各々(おのおの)の机にコーヒーを置いていく。肩で息をしながら。
財布を出そうとしたら「せめてもの労いだ」とあわ――椿さんに押し留められた。
普通ならここで申し訳ない気分でいっぱいになるはずだけど、椿さんボイスは抑揚のない声音。受け取る印象は怖い。だから、僕らは揃って首肯するしかなった。
「他になにか手伝うことはないかな?」
行き渡った缶コーヒーを確認した椿さんが、抑揚のない声音で姫風に問う。
問われた姫風がノートの山を指差した。
「そこの机の上にあるノートで」
「ノートで?」
「一人漫才」
みんなコーヒー吹いた。
「え? ひとり、え? 一人漫才?」
珍しく、滅茶苦茶戸惑う椿さん。
「早く」と姫風が急かす。
姫風は鬼か。改名して「姫川鬼化」と名乗れ。
言われた椿さんはノートを一冊手にとり、鼻声で「わ、解った」と応えた。
やめてやれよ椿さん涙目になってるじゃないか。
僕が止める間もなく椿さんの一人漫才が始まる。
「はいはいどうもどうも、私は鈴城椿と言いまして、最近この学校に転校してきた新参者なんですよぉ。それでですね、転校について――」
やばい。椿さん、話し方もキャラも崩壊してるけど、きっちり漫才しちゃってるよ。
五分後――
「だから私はこう思うんですよ。転校も天候も気分次第で受け取り方が変わるって。ですからね――」
椿さんの興がノってきたところで、姫風が水を指した。
「椿」
ハンカチで汗を拭い、荒い呼吸を繰り返す椿さん。
「な、なにかな姫風?」
あくまで爽やかに振る舞う椿さん。
「次は便座カバーの重要性について、黒板を使って説明して」
凄くハードル上げたよ姫風さん。
「わ、解ったか」
了承しちゃたよ椿さん。
教卓の前にて、椿さんの授業が始まる。
立体的な便座カバーの絵をチョークで黒板に描きながら、「え〜、便座カバーとは〜」と講義を開始したけど、僕らは笑いを堪えるのに必死だった。必死にノートへ神経を集中させ、椿さんの講座を聞き流すのだった。
一時間後――
シャーペンの速度を緩めないまま「椿」と姫風が声を発した。
「単に保温性の優れた便座カ――なにかな姫風?」
僕は勿論のこと、みんなも椿さんに感心していたと思う。
一介の高校生が、便座カバーについて、一時間も講義を披露していたのだ。他の高校生にできるだろうか? 僕には無理だ。
長々と便座カバーについて、様々な見解と知識量を見せてくれた椿さんに拍手を贈呈したかったけど、拍手した瞬間、周囲のクラスメイトから「真面目に写せ」とタコ殴りに合いそうなのでやめた。
それはそうと、姫風による、次なる椿さんへの指示がなにか気になるところ。
不謹慎ながら、体内のワクワクメーターが上昇する僕。
姫風は椿さんに目も繰れず、二の句を放つ。
「静かにして」
ワクワクメーター粉砕。
血を分けた双子にすら姫風は無慈悲だった。
「椿、あなたはそこで、いつまでつまらない話をするつもり?」
「させてたの姫風じゃん!? させてたの姫風じゃん!?」
堪えきれず二回ツッコミを入れてしまった。周囲からのタコ殴りはなし。
「ゆう、これは姉妹間の問題」と姫風。
「ゆうや、姫風の言う通りだ」と椿さん。
「え、あ、そうなの……?」
そう言われては引き下がらざるえない。
「今ので納得するのか!?」
隣のジジイから驚愕っぽい声が聞こえてきたけど無視だ。
僕は姉妹の会話を聞きつつ、丸写し作業に戻る。
「椿、つまらない便座カバーの講義をまだ続けたいの?」
だからさせてたの姫風じゃん!?
「姫風が望むなら、あと二時間は語れるが、私としては遠慮したいかな」
便座カバーについてあと二時間も語れる椿さんに僕は軽く引いた。
「椿の意見は要らない。早くここに来て、手伝いなさい」
凄く理不尽です。
「任せてくれ」
安請け合いをさせたら右に出るものはいない椿さんが、姫風からノートの説明を受けて、姫風(新海さん)の背後席に腰を下ろした。
それから二時間後、総勢十一人の奮闘により、十九冊に及んだ白紙のノートは、統べからく今学期考査提出分の文字で埋め尽くされた。
功労賞トップは言わずもがなの姫風七冊――途中で椿さんから最後の一冊を引ったくった――、次いで佐竹くん三冊、三番手が新海さんで二冊、あとは一人一冊ずつの打ち分けだ。
時刻は午後七時を少し回った頃。
よくもまぁ、こんな遅い時刻までクラスメイトを私的なことに付き合わせてしまったものだ。
「みんな、僕のせいで、こんな時間まで付き合わせてごめん。それとありがとう」
改めてペコリと平身低頭する僕。
「礼が言えれば充分じゃ。次からは皆の手を煩わせぬように心掛けることじゃのぉ」
ジジイの仰る通りです。
項垂れた僕は素直に「うん」と首肯する。
誰かにメールを打ち終えた相庭さんが言う。
「鈴城くん悄気込まないの。私としては、テスト対策になったから、返って良かったかも知れないし」
「あ、ボクも書き写してる途中でそう思ったよぅ! それに閣下のノートも見易くて解り易かったよぅ!」
閣下って……まだ姫風と国府田さんの主従関係は続いてるの?
「開始当初は終わるか不安だったが、終わってみれば、あっという間だったな」
女性陣から幾分距離をとって座る灰田くんが、伸びをしてあくびを漏らす。
バカな僕が原因による姫風の強引な統制を、ポジティブに捉えてくれるみんなの思考に、少しだけ救われた気分になった。
「疲れた。死ぬ。オレサマ帰る。もう帰って寝る」
言うやピロシキは、姫風から這う這うの体で、教室を出て行った。
ピロシキを皮切りに、ジジイ、相庭さん、国府田さん、灰田くん、姫風から椅子を奪われたことにより終始空気椅子だった妹尾くんも教室をあとにする。
みんなを先に返した僕は、居残ったメンバーを極力視界に入れないように心掛けて、戸締まり&片付けを始める。
すかさず椿さんが歩み寄ってきた。
「ゆうや、あれは止めないのかい?」
椿さんが居残ったメンバー――中央の三人を指差す。
「……まぁ、三人が喧嘩をしなければ僕は構わないけど」
丸写し終了から今の今まで、新海さん、佐竹くん、姫風が中央で互いを睨み合っているのだ。
取っ組み合いや殴り合いに発展する空気とは違うようなので、新海さんの親友たる相庭さんや、佐竹くんの友人たる灰田くんは、二人に声もかけず、さっさと帰宅した。
だから僕も新海さんが被害に会わない限り、姫風を放置自転車ばりに放置している訳です。
姫風至上主義の椿さんは、僕の言に得心したのか、それ以上の詮索をやめて、片付けを手伝い始める。
戸締まり中に、鈴を鳴らしたような姫風の声音が聞こえてきた。
「これで証明された」
間を置かずに佐竹くんの反論が聞こえる。
「なにがだよ!」
「なにがだろうね?」と、僕と椿さんもそちらを振り向く。
「鈴城姉! 答えろ!」
佐竹くんの張り上げた声音に、コクコクと新海さんが頷いている。
姫風は無表情、佐竹くんと新海さんは苦虫を噛み潰しておかわりさせられたような顔付きをしていた。
姫風が無表情で佐竹くんに応える。
「ノートの冊数イコール愛の量」
言われた佐竹くんと新海さんが「くっ!」と同時に呻いて胸元を押さえた。
またなにかの勝負をしてたの?
「ゆうや、私だって時間が許せばノートの五冊や六冊、丸写しすることはできたんだ。それは解ってくれるよね?」
傍らの椿さんに、チョンチョンと額を人差し指でつつかれる。
デフォルトの不機嫌な表情に戻っている椿さんに、恥ずかしいと言うより恐怖を感じた。
「え、あ、うん。あ、ありがとうございます」
指先一つでダウンさせられそうな緊迫感に襲われた僕は何度も頷き、急に気遣い始めた椿さんから少しだけ距離を取る。
「あの三人は捨て置いて二人で帰ろうか、ゆうや」
「そうですね」
「なぜ敬語なんだい?」
生意気言うと、指先一つでダウンさせられそうなんだもん。
「クセです」
またの名を『椿さん対策』とか『自己防衛』と言う。
「面白いクセだね。では、二人っきりで帰ろうか?」
「そうですね」
「ふふ」と不機嫌面で笑う椿さん。
このあとなぜか僕だけ、教室から姫風により丁重に追い出されて、先に帰るよう告げられた。
教室を出て数秒後に、背後から椿さんの断末魔が聞こえたけど、僕は怖くて振り替えることができなかった。
一週間後にはテストが終了して、みんなに夕飯をご馳走した。
時間は進んで、二週間後――テスト返却直後の放課後。
学年主席のジジイを抑えて台頭した姫風が、次席となったジジイとともに、校長室へ召喚されて表彰を受けに出掛けたりしているので、「帰るなら今のうちかなぁ」とか「今更逃げるように帰る仲でもないかなぁ」とか僕は思考していた。
次いで返却された成績表を眺めて、盛大な溜め息をついていたところ、惜しくも学年次席を逃した学年三位のピロシキが、ポカリを飲みながら鞄片手に近寄ってきた。ニヤニヤ顔で。
「今回も惨敗だったか?」
「……ある意味ね」
ピロシキが眉を顰める。
「慈悲深いオレサマは深く追求しないでやる。ちなみに前回の中間テスト、総合で何点だった?」
どこが慈悲深いんだ!
中間テストは基本五教科十五科目の一五〇〇点満点。
それを念頭に置き、僕は成績表の中間テスト点数欄に目をやる。
「……な、七〇点」
「いや、一番点数が高かったやつを訊いてるんじゃなくて」
「……前回の中間は総合で七〇点ですがなにか?」
ピロシキがポカリ吹いた。
「目があああぁぁぁ!?」と絶叫した広瀬くんが床でのたうち回っている。ピロシキの水鉄砲が水球部エース候補筆頭代理補佐の眼球に命中したようだ。
水球部エース候補筆頭代理補佐を一瞥したあと、何事もなかったかのようにピロシキがポカリを飲み直す。
「前回は総合で七〇点か……なら今回の期末テストも追試か? 何点だったんだ?」
結局訊くのか。慈悲はどこに行った!
「今回は……一六一ハ点」
「やっぱり一六〇〇点か……はあ!? 一六〇〇点!? テストは二十三科目だから、一科目あたり平均七〇点!? ちょ、見せてみろよ!!」
「イヤだよ! あ!?」
両手にあった成績表はピロシキに掠め取られてしまった。奪い取ったそれを、視線で焼かんばかりに睨み付けるピロシキ。ややあって、成績表から顔を上げた彼は、鼻息を荒くして、興奮を僕に見せ付ける。
「ま、マジじゃねえか! お前、余裕で平均点越えてる教科もあるじゃねえか!! バカ返上か!? 次のバカはこいつか!?」
水球部エース候補筆頭代理補佐を指差さすピロシキ。
「ノートの加点があるから、実質取れたのは五〇〜六〇点だけどね。平均点を越えたお陰で、各教科の先生に呼び出しを受けたし」
呼び出しだを受けたのは、テスト採点期間中のことだった。
「マジか!! カンニングのか!! でも不器用なお前には無理だろ!? カンニング!!」
ピロシキくんよ、そろそろ興奮を納めて欲しいんだけど。
「普通ならそうだよね。今までテストで赤点しか取ってなかった僕が呼び出しをくらったんだから」
僕は席から立ち上がり、ピロシキの手にあった成績表を取り返す。
「違うのか!?」
「違うんだよ」
「じゃあなんの呼び出しだ!?」
「僕も最初はカンニング疑惑で呼び出しかな? と各先生に会いに言ったんだよ。そしたら『悩みごとがあるなら相談しろ』とか『良いカウンセラーを紹介するわよ』とか、各先生方の携帯電話アドレスを押し付けられた挙げ句、最後は可哀想な子を見る目で眺められたんだよね。僕の精神を疑う前に、カンニング疑惑を先に疑って欲しかったよ」
「そりゃあ、仕方ねえよ!」
ピロシキが先生サイドの意見に頷く。
肝臓を抉るように打つぞピロシキ。
僕が拳を構えた瞬間、落ち着きを取り戻したピロシキが、カンニングからの話題変更を行なった。
「なんにしても、よくこんな点数が取れたな、特に暗記科目の歴史や英語。お前には鬼門じゃねえのか?」
「それは、その……」
その点については凄く答えたくなかった。
高得点を取れた理由は明確だ。勿論カンニングじゃない。
言い澱んでいた僕の隣に、表彰式を終えて戻ってきた姫風がやってきて、ピロシキから僕を庇った。
「ゆうをバカにしないで」
一部始終を聞いていたらしい姫風の登場を皮切りに、僕の周囲に居たクラスメイトが一人、また一人と教室から姿を消す。
ここは立入禁止区域か。
「いや、実際自他共に認めるバカですよ、こいつ」
ピロシキの宣いは真実だけに否定できない。
「ゆうは、他人より少し容量が少ないだけ」
それだとPCのCPU話っぽいよ?
「姫風さん姫風さん、『ようりょう』の字が違わない?」
中空に「ようりょう」と書く僕を無視して、姫風は続ける。
「ゆうは容量が悪い。容量が足りないから、覚えた端から彼方へ消える」
「一番僕をバカにしてるの姫風だよね!? うひっ!?」
中空の指を姫風にパクッと喰わえらる。
「ひゅうふぁひょうひょうふぁひょふふぇひょうひょうふぁふぁふぅふぃふぁふぇ(ゆうは要領が良くて容量が悪いだけ)」
喰わえたまま喋られて、背筋がゾクゾクする。背筋以外もゾクゾクする。急いで指を引き抜いた。
「い、いきなりなにすんだ!!」
「指フェ――」
「ああああああぁぁぁぁぁぁ!?」
周囲の新海さん、妹尾くん、小窪さん、その他は僕の突然の絶叫に恐れ戦いている。
い、今の姫風発言は聞かれてないよね!? 聞かれてないよね!? 危なかったっ!! いろんな意味で危なかったっ!!
ゼーハーゼーハーと肩で息をつく僕の頬を、痴女がさりげなくナデナデする。
「決してゆうの頭は……悪くない」
スベスベした姫風の手の感触が「ちょっと心地良い」と感じる自分を叱咤して、痴女の手を払った。
「姫風、今の僅かな間はなにカナ?」
「ゆうは容量が悪いだけ」
「だめ押しみたいダネ、姫風。僕は脳の容量の話はしてないんだけドナ?」
以下数回繰り返し。
それを断ち切ったのはポカリを飲み終えたピロシキだった。
「で、結局、お前が脱赤点をした秘訣はなんだよ? お前の脱赤点はオレサマが東大や慶大に行くより難しいって話だったんだぞ? 祐介曰く」
おのれ――ジジイめ。
「秘訣は……」
「秘訣は?」
言いたくないけれど、こんなことに意地を張って、隠しだてしても仕方がないと思い、僕は真相の種明かしをする。
「秘訣は……姫風のノートだよ。それをただ眺めだけ」
「マジで?」
「マジで」と僕は嘆息した。
要は、姫風のノートが僕の理解し易いように作られていたと言う単純な理由――それだけだった。
姫風ノートを読むだけで、数式も、英単語も、変格活用も、大統領の名前も、元素記号も脳内にスルスルと入ってゆき、気付けばどの教科も七割強取れていた、という単純な話だ。
ありがたいけど、姫風に多大な貸しを作ったようで凄く悔しい。だから、極力、この話は避けたかった訳です。
「姐さんスゲェな!」
種明かしを聞いたピロシキは、七○点から一六〇〇点に引き上げた功労者に心底感心している。
「ゆうが頑張っだけ」
姫風は上目使いで僕を見上げながら、頭を僕に預けてきた。
これは「褒めろ撫でろ甘えさせろ」の催促に違いない。
姫風のお陰で赤点を免れたことは紛れもない事実なので、僕は嘆息して姫風の頭に手を添える。
「……姫風、ありがとう。今回はホントに助かったよ」
教室内なので、頭頂部を軽くナデコナデコしておいた。
ナデコをやめると、そのまま姫風が体重を預けてくる。
「これ以上甘えんな」
突飛ばすと、倒れている広瀬くんの胸に、姫風が肘から倒れ込んだ。
「かはっ!!」
直撃を受けた広瀬くんがビクンビクン痙攣している。
「さ、帰ろうか」
「ナチュラルに帰ろうとするな」
鞄を手に教室から出ようと回れ右をした僕は、ピロシキに肩をがっしりと掴まれてしまい、姫風から逃げ出すことができなくなってしまった。
「逃げずに姐さんの容態を確認しろ」
「面倒だよ。どうせフェイントかなにかでしょ?」
「お前、姐さんには本当に容赦ねえな」
そうかな? 最近はフレンドリーを心がけてるんだけど。そう言われてしまっては仕方ない。姫風を起こすとしよう。
「姫風、寝たフリはやめてそろそろ帰るよ」
飛びかかられても再度突き飛ばせるように、身構えながら倒れた姫風に声をかける。
「拳を構えながら姉を起こすとか、かなりシュールな光景だよな」とピロシキ。煩いよ!
茶化されながらも姫風を何度か呼び掛ける。
しかし――
「返事がないただのしかば――」
「気絶しているようじゃな」
最後まで言わせてよジジイ。
「お帰り、遅かったね」
ジジイが校長室から解放された時刻は姫風と同時のはず。
「そこで倒れておるお主の姉が異常な速さで教室に戻ってきただけじゃ」
ぶっ倒れた姫風をジジイ、ピロシキ、僕の三人で眺める。
今の季節――七月中旬――は夏服の為、姫風は上着を羽織っていない。学校指定のベストも装備しておらず、ブラウス越しに黒いキャミソールと、黒いブラのストラップが透けて見えている状態だ。
姫風の呼吸に合わせて、存在感を主張するメロンさんが静かに上下している。
「姐さんて……大胆だよな」
隣で肩を並べていたピロシキの喉から、生唾を飲み込む音が聞こえた。
ピロシキに向けて「お主は犬か」と嘆息するジジイ。「盛ってるね」と僕も嘆息する。
「あ、イヤ、優哉、悪ぃ」
ピロシキはバツが悪そうに僕への謝罪を口にした。
姫風は黙ってさえいれば、『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花』と例えられるくらいの器量を持つ美人だ。僕、今のよく言えたな!
だから、ピロシキが思わず鼻の下を伸ばしてまうのは仕方がない。
けれど、姫風の彼氏ではない僕に彼が謝罪するのはお門違いだ。
「謝る必要はまったくないよ。できるなら僕のポジションを代わってあげたいくらいだし」
「お前枯れてるな。それともロリコンか?」
豊かな双球のメロンさんを眼前にしてなにも感じないのか? とピロシキが言外に伝えてくる。
「失敬な! ぼくはノーマルだ! 大きなおっぱいが大好きだ!」
大胆な痴女が嫌いなだけで、おっぱい自体は大好きだ!
「叫ぶな、恥ずかしい」
ピロシキが指摘した瞬間、背後でドサリッと音がした。
なにか重たい物が崩れ落ちる音に似てい――
「新海さん!?」
振り替えると、新海さんがはらはらと涙を流しながら、「チッサイのはダメ? チッサイのは悪?」と床に横たわっているではないか。
新海さんに視線を移したピロシキが半眼となり、ジジイがやれやれと首を横に振る。
「……またか」
「いつものじゃな」
「なにその恒例行事的な感想は!?」
ジジイとピロシキには「新海の傍に行ってこい」と促され、新海さんの隣でお手上げといたボディーランゲージを見せる相庭さんには「キスの一つでもしてあげて」と意味不明な暴言を吐かれた。
新海さんに駆け寄った僕は、周囲の机や、いつの間にか二十人にまで膨れ上がった【相庭梨華親衛隊】を押し退けて、膝をつき、彼女を抱き起こす。
「わぉ、大胆」と相庭さんが茶化してくるが無視だ。
「新海さん!! どうしたの!? なにがあったの!? 誰にヤられたの!?」
息も絶え絶え、顔も真っ赤な新海さんが、蚊の鳴くような声音で言う。
「は、犯人は……巨乳好きのしゅじゅきくん」
「おのれ巨乳好きのしゅじゅきくんめ!!」
ボコボコにしてやる!!
「お主じゃ」
「しゃあああぁぁぁ!! 歯を食いしばれ僕! ボコボコにしてやるぞ!! って、違うだろ!?」
頼むから事態をややこしくしないでよジジイ!!
「本人がこれじゃあのぉ」
「仲は進展しないわけね」
「死ね」
外野からの野次はジジイ、相庭さん、ピロシキの順でした。
努めてギャラリーをシャットアウトした僕は、新海さんにハンカチを渡し、ゆっくりと起き上がらせる。
「あ、あの、ありがとう」
新海さんがハンカチを目元に押し当てる。
「痛いところはない?」
「ん、ないよ。ないない」
ないない星人になった真っ赤な新海さんが、頻りに「ないない」と繰り返す。
ふと我に返り、自分の手が新海さんの体を支えていることに気付いた。
僕ってば超大胆!! 新海さんの背中に手を回して、抱き起こしてるよ!! これセクハラだよね!?
告訴されたらマズイので、急いで新海さんを支えていた愚手を離すと、「あ、まだっ」と新海さんに小声で言われて戸惑った。
「な、なにが『まだ』なのカナ?」
「まだ触れてて欲しいかなぁ、とかなんとか、ないない。それはないです、はい」
言ったあとで新海さんがないない星人に戻り、両手で自らの顔を覆ってしまった。
「そ、そう? そうなんだ。ないんだ」
両手で顔を覆った新海さんがコクコクと首肯する。
不意に「友達宣言記念日」の時に姫風が教授してくれた、「新海さんは僕が好き説」を思い出す。
「そうかも知れない」と言う思いと「本当にそうなのだろうか」と言う思いが僕の中でせめぎあい、微動だにできない。
遠巻きから深い溜め息が聞こえた。
「餌を蒔かれておるのに食い付かんとは情けない」
「沙雪、そこから畳みかけなさいよ」
「どっちか速く喰いつけ」
外野からの野次はジジイ、相庭さん、ピロシキの順でした。
「そこで僕らを肴にしてる三人ちょっと来い! 説教だ!!」
訳の解らないことをごちゃごちゃ言われると、僕はキレるよ? 沸点低いって有名なんだよ?
「ところで優哉」
「あにさ!?」
手始めにピロシキから絞め落としてやる!
「姐さんのこと忘れてね?」
あ。
「い、いやだなぁ、僕が姫風のことを忘れてる訳けないじゃん」
「嘘つきが。新海のことで頭ん中はイッパイだったクセに」
ええ、その通りです。
「おのれ、ピロシキめ!」
僕は拳を握り絞める。
「図星を指されてファイティングポーズを取るな。取り敢えず姐さんを介抱してやれ。オレらへ被害が増えねえうちに。あとピロシキ言うな」
そうピロシキに促されて、改めて広瀬くんの上に倒れている姫風を見下ろす。
眠っている(気絶している?)表情は無防備で、どこか儚げな感じさえして、思わず守ってあげたくなるような、抱き締めたくなるような気分になった。
……なにこれ、おかしいよ。僕の中で姫風株が急上昇してるってこと?
はっとなってピロシキに振り返り、僕はなぜか言い訳を口走る。
「もう一度伝えておくけど、これと僕は、血の繋がりがないからね?」
「いきなりなんだよ?」
ピロシキやジジイ、相庭さんが怪訝な表情となる。相庭さんに至っては、僕と姫風の非血縁関係内容が理解できる訳もなく、理解に苦しんでいる様子だった。
僕はピロシキとジジイに「なんとなく」と返し、知らず知らずのうちに、また姫風の肢体へ視線を移していた。
ブラのお陰か、姫風のメロンさんは寝ても横に垂れる様子はない――って、さっきからなんなんだ僕は!
「……根本的な疑問なんじゃが、鈴城姉はなぜ気絶しておるんじゃ?」
その根本的な理由が不明なんですよジジイさん。
「お前、一服盛ったろ?」
ピロシキが半眼で睨んでくる。
「なにその疑惑!?」
ピロシキ横で見てたよね!? 盛る暇なんてなかったよね!?
「で、なんで姐さんは気絶してんだよ? もしくは眠ってんだよ?」
「あのねえ、僕は姫風辞典じゃないんだから、姫風のことを逐一聞かれても毎回説明できないよ。ん〜と、夏だし熱射病とかじゃないの?」
とか言い合っている最中に、むくりと姫風が半身だけを起こして、僕に手を伸ばす。
姫風さんてば凄い腹筋してらっしゃる。
姫風の手を無視していると、無言で見上げ続けられる。目力に圧倒される。
凄いプレッシャーだ!!
「……僕に『起こせ』と?」
姫風がコクリと首肯した。
僕は嘆息を零しながらも姫風に手を貸して、よいしょと立ち上がらせる。次いでに姫風についた埃をササッと払った。
途端に「おぉ?」とピロシキ。
「なに?」と振り返ると、ジジイとピロシキが僕と姫風の間で視線を往復させて、目を丸くしていた。
なにその驚嘆。
「気のせいかもしれねえけど、お前、姐さんに優しくねえか?」
ピロシキとジジイが顔を見合わせて「なあ?」とか「のぉ?」とか頷き合っている。
姫風の扱いに容赦がないと言ったり、優しいと言ったり、意見は統一して欲しい。
「どこが優しいのさ」
「どことなくだが、姐さんとの接し方に険が取れてきたっつ〜か」
自分では解らないけれど、「友達宣言記念日」以降、偶発的に歩み寄り効果が出てきているのかも知れない。
「あ〜……まぁ……その……話せば長くなるから、また今度ね」
つまるところ、僕は「友達宣言記念日」の内容を公にしたくない。
だから、巧い誤魔化し方が思い付かず、コメカミをポリポリ掻くだけ。
そこへ、助け船のようにポケットから格闘ゲームのBGMが流れ始めた。僕は携帯電話をマナーモードにし忘れていたようだ。
この着信音設定は誰だっけ? とディスプレイを眺める。表示されていた文字は《鈴木鳳花》――ぽんと手を打つ。
「あぁ、出戻り会計士の叔母さんか!」
「お前何気に毒舌だよな」
ピロシキを無視して通話ボタンをポチっとな。
『――ウェックショイィイッ! うぅ、なぜかクシャミが……あ、優哉くん? 私、鳳花叔母さん。学校終わった? 今電話しても大丈夫?』
「学校は今さっき終わりました。電話は大丈夫ですよ」
相手方(叔母さん)の電話口では慌ただしい声音が飛び交っている。
『それなら良かったわ。時間がないから単刀直入に訊ねるけど、夏休みはもう予定が詰まってる感じかしら?』
「特には詰まってないです」
どうにかして新海さんをデートに誘う以外は特にない。
なお、姫風が自身を指差して「古墳でデート」と口パクしているけど無視だ。
『よし! だったらバイトしないバイト! 住み込みで!』
「え、住み込みでバイト、ですか? え〜と」
それはいろいろと自由に制約がありそうな話だ、と僕の脳でも推測できた。正直、断りたい。でも、この前迷惑をかけてしまった叔母さんには罪滅ぼしもしたい、と同時に思った。
これもアンビバレンツ?
『たくさん人手が欲しいの。できれば十人くらい。友達も誘ってバイトに来てくれないかしら?』
叔母さんによると、毎年夏期限定で「海の家」を副業されているらしい。その予定で今年もバイトを雇用していたけれど、バイトに訪れるはずだった大学生たちがドタキャンしちゃったとかで、人手が全く足りないとのことを電話口で語ってくれた。
叔母さんが切羽詰まった状況だと言うことは理解できるけど、僕も遊びたい盛りの高校二年生です。
「え〜と……ちょっと考えさせてもらって良いですか?」
『こんな事を頼める子は優哉くんしか居ないの! バイト代には色をつけるし、叔母さんを助けると思って、この通りお願い!』
電話口で僕に頭を下げる叔母さんの姿が安易に想像できた。
それに、そこまで言われて応えないのは、僕の中の「漢」が廃ると言うもの。
「解りました! 僕やります! 十人くらいを集めれば良いんですよね? 集まりしだい折り返し連絡します!」
『あ、ありがとう! それじゃあお願いね!』
通話を終えたおニューな携帯電話をポケットにしまいながら、さて、メンバーはどうしよう、と思考を巡らせ始める。
サーチするのは使える漢のみ。
「住み込みでバイトがどうとか言ってたが、夏休みの金稼ぎか?」
目ぼしい漢たちは――なんだ、居るじゃないか目前に。
ピロシキの質問をスルーしつつ僕の眼前で雁首を揃えるピロシキ、ジジイ、姫風、椿さん、新海さん、相庭さんを順番に眺める。
半眼に、あるいは怪訝な表情となっているピロシキたちが「質問に答えろ」「良からぬことを企んでないと良いがのぉ」「ゆう、どこでバイトするの?」「帰宅しながら話さないか? 姫風」「豊胸には唐揚げかなぁ?」「暑いわねこの教室」と騒いでる中、ピロシキ、ジジイ、姫風、椿さん、と僕は指折り勘定に数える。自分を入れて漢は計五人。
「あと五人」
バッと背後を振り向く。
「ひっ!?」と姫風警報から逃げ遅れていた妹尾くんが、バックステップで僕から距離を取った。
「妹尾くんは夏休み暇だよね? 言いつつ妹尾くんの机を飛び越えて、鼻と鼻が触れ合うくらいの距離で、彼を見つめる。
「バイトしない?」
「さ、させて下さい」
――残るは四人。
教室内を見回すけど、惜しいことに誰もいない。姫風警報のせいだ。
そこへ、「俺には聞こえたんだ! 鈴城嬢が俺の力を必要とする、心の声が!」と廊下から佐竹くんの声が反響して聞こえてくる。
「ええい放せ龍太郎! 俺は鈴城嬢と住み込みでくんずほぐれつバイトをするんだ! そして一夏の淡い体験をするんだ! だから放せ!」
「『だから』ってお前なぁ……鈴城は男だって何度言わせるんだ! 昇が居たら纏まる話もややこしくなるだろうがっ! ほら帰るぞ!」
事態を把握する為、廊下に出てみると、教室に向かっている佐竹くんを、背後から灰田くんが羽交い締めにして、引きずっているシーンに遭遇した。
「はん! なにが『ややこしくなる』だ節穴野郎が! 俺と鈴城嬢は運命の赤いワイヤーで結ばれてるんだ! 間を引き裂こうとしても無駄無駄無駄! ――あ! 鈴城嬢っ!!」
人数合わせで佐竹くんを呼び込もうかな、と考えていた自分に、激しい頭痛を覚えた。
頭を抱える僕の周囲に、姫風、新海さん、相庭さん、椿さんが颯爽と現れる。
……椿さんいつから居たんだ!?
佐竹くんが車懸かりの陣で僕らへ近寄る度に、姫風たち四人は僕を置いて、鶴翼の陣で前へと突き進む。
なにこの川中島の合戦。
「ゆう、先ほどの電話は誰から?」
佐竹くんに顔を向けたまま、牽制して膠着状態に突入させた姫風が問うてくる。暴走した佐竹くんを止められる姫風はある意味凄い。
怪力無双な姫風は最初からバイトに誘うつもりなので、問われた内容――海の家について――を語って聞かせた。
「ゆうはバイトを手伝うつもり?」
「うん。もちろん、姫風は僕を手伝ってくれるよね?」
僕が言うや姫風がぶばっと鼻血を吹いた。
「解る……ゆうが心の奥底から私を必要としている、それが解る」
無表情な姫風が口の端だけをつり上げて、ブツブツと譫言を呟いている。
「ひ、姫風……さん?」
僕が呼び掛けるも――
「……チャペル……ヴァージンロード……新婚旅行……一戸建て……」
姫風から危ない単語の数々が聞こえてきたので、一先ず呼び掛けをやめた。
「わ、わたしも住み込みのバイトに参加させて欲しいなぁ」
意を決したように、けれど、僅かに緊張した面持ちで、新海さんが僕に声を掛けてくる。
「り、梨華も夏休みはバイトをしたいって言ってるし」
「え? 一言も言ってないけど。むしろ夏は焼けるから外に出たくないのよ」
「こう言ってるけど、わたしと梨華の二人を追加でお願いします」
人数は多ければ多い程良いと叔母さんは言ってたよね!
「追加で新海さんと相庭さんですな! 超歓迎します!」
「……はぁ」と頭を押さえて嘆息する相庭さんと、「んいっへっへっへっ」とやや不気味に笑う新海さんを入れてこれで八人。
「十人か……最初からわしらは頭数に入れられておる訳じゃな」
「みたいだな。オレら拒否権なしかよ」
以上が姫風に語った内容を小耳に挟んだ野郎二人のコメントでした。
佐竹くんが灰田くんを振り切り、「俺も俺も!」と連呼しながら駆け寄ってくる。
「鈴城嬢! 俺俺、俺も鈴城嬢とバイトする! マグロ漁船でもヤ●ザの弾除けでもなんでもするから俺も混ぜてくれぐあっ!?」
すかさず姫風アッパーと椿ネリチャギ(回し蹴り)を同時にくらいドサリと倒れ伏す佐竹くん。
「さ、佐竹くん? 大丈夫?」
呼び掛けるも返事がない。
……佐竹くん死んだ?
「これが痴女と暴君に近付き過ぎた者の末路か……」
片手で目頭を押さえて「可哀想に」と呟き、佐竹くんから逃げ出す僕を、ピロシキが呼び止めた。
「お前それで佐竹をスルーする気だろ」
「……ピロシキのクセに勘の良いやつめ」
「お前がワンパターンなだけだ。あとピロシキ言うな」
人を単純みたいに言うな!
「性別をはっきりさせる良い機会ではないか?」
隣でそう告げてくるジジイの助言は的を射ていた。
僕は逡巡しつつ、佐竹くんを誘うことに決める。
「……えっと、じゃあ、佐竹くんにもお願いしようかな」
そう声掛すると、倒れ伏す佐竹くんが、拳を握り親指だけを立てて事切れた。
「俺もバイトに加わって良いかな?」
今まで佐竹くんのストッパー役を買ってくれていた灰田くんが、話に割り込み自分を指差す。
イケメンな灰田くんなら、客寄せとして歓迎されること間違いなしだ。
僕が「もちろん!」と答えるや、どうにか起き上がった佐竹くんが、うんざりした顔でこう言った。
「龍太郎までくるのかよ」
「お前が言うな!」
ピロシキのツッコミはこの場の総意だった。
一同は肩を並べて警戒、あるいは談笑しながら、家路へと歩き出す。
一人取り残された形の椿さんは、困惑しつつ涙目となっていた。
「あ、あれ? ゆうや、姫風、わ、私は?」
この後、打たれ弱いことに定評のある椿さんが、泣きながら追ってきたことは想像に難くなかった。