小説書いて地固まる3
「グレース嬢。どうか、私と踊っていただけないだろうか」
差し出された手を前にしばし固まる私。けれど赤い瞳にまっすぐ見つめられ、正直……嬉しいと思ってしまった。
今日は私の社交界デビューの日。このファーストダンスは王家から贈られる慣例。そしてたった今、作家ナツ・ヨシカワとしての復権が叶い、伯爵令嬢であるグレース・ハミルトンの地に落ちていた評判も一気に浮上した。アレン殿下とカトリーナ様という、この国最強のカードを切り札にして。
そんな事情から、私の心はぐらりと大きく傾いた。
一度くらい、この手を取っても許されるのではないだろうか、と。
これが私に許される最初で最後のチャンス。貴族としてのお披露目の日に神様が与えてくれたプレゼントだと、そう思おう。たとえジェスト様の心に別の誰かがいたとしても———今だけは忘れる。
そう自分を納得させて、彼の差し出した手に自分のそれを載せようとした、そのとき。
「なお、クインザート家とハミルトン家から、ジェストとグレース嬢、両名の婚約の申し出が以前より提出されていたことを承知の者も多いだろう。本日のグレース嬢の社交界デビューをもって、この婚約は名実ともに受理されたことを、王太子である私、アレンの名で証明する!」
「え……っ!?」
殿下の衝撃の発言に声を上げようとすれば、ジェスト様が私の手をさっと掴んで、そのままダンスフロアの中央に引っ張っていった。辺りでは三度の拍手が沸き起こり、広いフロアには私たちだけが立ち尽くしている。
「え、待って、婚約って……」
「音楽が始まるぞ」
「でも……っ」
間を開けず楽団がワルツの調べを紡ぎ出した。淑女教育の賜物で音楽が鳴れば自然と身体が動き出し、気がつけば私とジェスト様はダンスを踊っていた。踊りながらステップもそぞろに、頭の中はいったい何が起きてしまったのかと大混乱だ。
(アレン殿下は、私たちの婚約が名実ともに受理されたって言ってた……。でもこの婚約は秘密裏に小説を書くための手段にすぎなくて、もう小説は書き終わったのだから、正式に結ばれる前に破談になるはずで……)
なぜそれが正式な話として進んでしまったのか。そう考えていると。
「足元がずいぶん疎かだな」
不意に私を揶揄うような声音が頭上から聞こえて、はっと顔を上げた。
「ジェスト様!」
「なんだ」
そうだった、私は今この人と踊っているんだったと、改めて気を入れ直す。同時に、驚いている場合ではないことにも思い至った。
「あの、アレン殿下は何か勘違いなさっているようです。婚約だなんて、きっと冗談か何かだと思います」
「冗談で王太子の名前を出すわけがないだろう。もう———覆せない」
「でも! これはすでに流れた話ですし、何か事情があって伝わっていなかったってことですよね。大丈夫です、覆せないなら婚約破棄でも解消でも、ちゃんとしましょう。そりゃ、ジェスト様にとっては不名誉な傷となるかもしれませんが……」
「……そんなに嫌か」
「へ?」
「俺と婚約するのは……おまえにとって破棄したいほど、嫌なのか」
「はい? 何をおっしゃってるんですか? 嫌なのはジェスト様の方でしょう!?」
「おまえとの婚約を嫌だと、言ったことはないはずだ」
「それはそうかもしれませんが、でも本心は違うじゃないですか。だってジェスト様は……カトリーナ様のことをお好きだったのでしょう?」
ついさっき、ジェスト様の手を取れることを、記念すべき舞踏会のファーストダンスを彼と踊れることを、とても嬉しく思っていた。でも、こうしてカトリーナ様のことを口にしなければならなくなり、口の中に苦いものが広がった。
それ以上彼の顔を見ていられず、再び俯いた私の頭上から「は?」という間の抜けた声が降ってきた。
「俺がカトリーナのことを好き? 馬鹿な。そんなこと、あるわけないだろう」
「え……?」
勢いにつられて今一度見上げれば、彼が私の手を握りしめたまま固まっていた。ちょうどのタイミングで短いワルツが終わり、周囲のカップルたちは思い思いにパートナーに礼をする。
だがジェスト様は私の手を離そうとはしなかった。私もまた、予想もしていなかった彼の発言に驚き、動きが止まってしまった。
そうこうするうちにフロアの人間が入れ替わり、次の曲が始まってしまった。音楽が流れ始めれば動かないわけにはいかない。自然と私たちもダンスの波に乗っていった。
「カトリーナは俺にとってただの従姉妹だ。好きと言えば好きな部類には入るが、それ以上でも以下でもない。小さいときはよく俺たちの前で泣いていたから、手のかかる妹みたいな存在で……いや、そんなことは今はどうでもいい。とにかく、アレを異性として好きだとか、そういう感情は一切ない」
「え……、そうなの、ですか?」
「当たり前だろう。それにカトリーナのことは、主人であるアレン殿下がずっと大切にしてきたんだぞ。2人のことを応援することはあっても、俺が横恋慕みたいな、そんな真似するはずもない」
巧みにリードしながらきっぱりとそう言い切るジェスト様に、私はいろんな意味で言葉をなくしてしまった。ということは、あれほどカトリーナのためにと言い張っていたのは、カトリーナ様とアレン殿下が結ばれる未来を願ってのことだったということか。
その事実が知れた途端、心の底からほっとして、思わず顔をくしゃりと歪めてしまった。
「良かった……。ということはアレン殿下とはカトリーナ様を取り合う仲ではなかったんですね。ジェスト様が殿下にカトリーナ様を奪われたことで、自分の想いに蓋をされているのだとばかり思っていて。でも、そうじゃなかったって、ジェスト様が傷ついたわけではないとわかって……本当に良かったです!」
アレン殿下をお守りするためだけに生家から引き離され、クインザート家からも顧みられず、その上愛する人まで奪われたとあっては不幸の盛り合わせがすぎるだろうと、自分のこと以上に辛く思っていた。少なくともそのひとつは杞憂だったことがわかり、安堵の気持ちで胸がいっぱいになった。
けれどジェスト様は私の発言に対し、赤い瞳をざっと曇らせた。
「おまえこそ、ここに来るのも辛かったのではないか?」
「あぁ、ナツ・ヨシカワの噂のことですね。でも、つい先ほど殿下とカトリーナ様がすべて否定してくださったので、もう辛くはありません」
「そうじゃない。いや、その噂が否定されたことはもちろん良かったんだが……おまえは、殿下とカトリーナが並び立つ姿を見てきっと悲しむだろうと思っていて……」
「私が、2人の姿を見て悲しむ? まさか。あぁでも、確かに、ジェスト様がカトリーナ様のことを好きだと思っていたので、そういう意味ではちょっとだけモヤモヤはしましたけど、でも今はそれも勘違いだったとわかって、心からあのお二人を祝福したい気持ちでいっぱいですよ?」
「本当にそれでいいのか? おまえは……アレン殿下に想いを寄せていたのだろう?」
「…………は?」
ちょっと待って、今何か、幻聴が聞こえたような?




