事件
9月24日、「のつけ」型6隻は揃って母港において弾薬の積み込みや魚雷の整備を行っていた。
26日には紋別から2隻が出港し、まずは根室へと向う。
27日には護衛艦が釧路へ寄港、翌日は市民への一般公開も行われている。
この状況を択捉島ではどう捉えていたかと言うと、往年のKGBが行っていた様に「これは警告に値する行動である」と分析していた。
さらに、ロシアは大統領と議会が対立しており、政治情勢も不安定であった。
公式には「過剰な警戒心から起きた不幸な出来事」と、ロシア側は報告書をまとめている。
しかし、後に国境警備隊やロシア政界を取材して書かれたノンフィクション作品において、「当時の択捉島司令部には、政界正常化後を見越した打算があっての行動であった」と結論付けている。
どちらが正しいかは分からない。しかし、日本側にも同じ事が言える。
6月には自衛隊、外務省がそれぞれ別のルートから警鐘を鳴らしていた。
政権交代による混乱や引き継ぎの瑕疵があったにせよ、従来からロシアを刺激するなと口にしていた政党を含む連立政権であったのだから、無理に釧路沖での訓練実施を継承する必要は無かったはずだ。
訓練実施に関し、直に対峙する釧路や根室海上保安部から何らかの懸念や意見が本庁に寄せられた記録も存在していない。
日本側にも、「ロシアが態度を軟化させれば、いつでも参加出来る実績づくり」という楽観論が存在していた事は否定出来ない。
こうした双方の思惑のズレにより、思わぬ事態が生起してしまった。
29日、根室から4隻が出港し、釧路を目指したのだが、ロシア側は26日の時点で非常警戒態勢を敷いて歯舞諸島へと4隻の「ネレーイ」型を集結させる指令を出しており、28日には揃って納沙布岬を目指して航行していた。
29日正午前、納沙布岬北東において、「のつけ」型の船団へと「ネレーイ」型から砲撃が行われた。
砲撃前に無線による警告が行われたのだが、残念な事に通信士は隊内周波数のまま発信しており、日本側へは届いて居なかった。
周波数変更ミスに気付かないまま数分の時が流れ、返答一つない事から、その行動は訓練ではなく襲撃であると判断し、発砲を始める事となった。
日本側は択捉水雷戦隊が揃って向かって来る事に疑問は抱いたが、訓練実施は通報済みの事なので、まさか攻撃を受けるなどとは予想だにしていなかった。
これまでの8年近く、両者は漁船団を巡る対峙は幾度もあったものの、どちらも砲を指向する事態には発展していない。
軍艦でこそないものの、武器を向ける事の意味を知らない仲ではない。そんな信頼を相手に寄せていた。
ロシア側からしても、無線を受信すれば日本側は何らかの返信があるはずだという信頼は当然ながら存在していた。
しかし、ロシア側は周波数変更ミスによって日本側からの返信を得ることが出来なかった。
無線により目的を尋ね、さらに進路変更を求めても何らかの反応を見せない日本側の行動から、未だ中間線を越えていないにも関わらず警告射撃を開始する。
日本側からすれば突然の砲撃である。
当然の様にロシア側ヘ無線で問い質した。
間の悪い事に、突出しすぎたロシア側は中間線目前、もはや止まれる位置ではなかった。
そのタイミングで日本側から侵入を警告する無線があったのだから、疑いを深めたのは仕方がない。
砲撃開始で通信士も緊張から自分のミスに気づくまもなく任務にあたっていたのだから。
こうしてロシア側は、日本がロシアの過失を口実に作戦実施を行ったと判断し、警告射撃から攻撃へと変更する。
仮に、ロシア側の艦砲が旧式の光学射撃装置であったなら、簡単に砲撃は当たらなかっただろう。
しかし、「ネレーイ」型にはレーダー射撃装置が備わっていた。
ロシア側の砲弾は速やかに「しゃこたん」の船尾に命中し、日本側も何もせず退避する選択が出来なくなった。
すでに訓練の準備として砲弾は積まれている。
いち早く進路変更すると共に砲弾が砲側へと揚げられ、日本側も射撃を始める。
さらにロシア側の魚雷発射管が指向しているとの報告を受けて魚雷発射準備も始める。
こうして生起した衝突は、「しゃこたん」と「よびと」が被弾、32名の死者を出す事態となった。
こうした中で魚雷発射も行われ、ロシア艦「オリョール」を航行不能に追い込む。
交戦開始から約10分後、勇ましい報告を受けたサハリンでは、すぐさま戦闘停止を命じ、火傷急患移送以来北海道との間に設けられた直通回線によって日本側へも戦闘停止要請を行っている。
実際に戦闘が停止するまでに、さらに日本側では13名の命が失われている。
日本側で多数の犠牲を出した要因は、採用された3インチ砲が多数の操作要員を必要としたため、甲板上には多数の保安官が所在し、波浪避け程度のシールドでは着弾、炸裂した砲弾から身を守る術が無かった事による。
ロシア側では雷撃を受けた「オリョール」において23名が亡くなっているが、砲弾を受けた他の艦では数名程度と雲泥の差であった。