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経緯

 1984年から「のつけ」型巡視船が配備され、米ソ間の緊張が高まるにつれて北方領土周辺の情勢もきな臭くなっていった。


 ソ連は日本による奪取作戦を警戒し、北方機動演習に際しては警備艦や海軍艦艇を派遣しての警戒監視を行うほどだった。


 とくにその期間は知床半島や根室周辺での漁にまで影響をあたえ、常にソ連国境警備隊による漁船団監視が行われ、船団を外れた船が臨検を受ける事が恒常化しており、日本側も巡視船を出してソ連側と対峙する事が多かった。


 中でも1988年には魚群を追う船団がソ連の主張する海域へ向けて航行したため、「ネレーイ」型と「のつけ」型が中間線を挟んで睨み合いを続ける事態にまで発展している。


 翌1989年には知床東方沖で操業する漁船団8隻が拿捕される事件が発生し、日常的な巡視船による警戒が行われ、事ある事にソ連国境警備隊と睨み合う状態が続いていた。


 しかし、1990年にはサハリンから重度の火傷を負った少年を海上保安庁がサハリンからの要請で北海道へと移送を担うなど、日ソ関係も雪解けに向けて歩を進めている様に見られていた。


 1991年8月、モスクワにおいて発生したクーデターの影響を懸念し、警戒を行った根室海上保安部であったが、択捉水雷戦隊が暴発する様な事態にはならず、北方領土周辺は静かにソ連邦崩壊を受け入れ、ロシア連邦へと衣替えが行われる事となった。


 日本側はソ連邦崩壊によって北方領土問題が解決へ向けて前進する事を期待し、ロシア側も元島民による北方領土訪問を受け入れる旨、合意する事が出来た。


 こうして1992年にはその重武装が俄と問題になり出した「のつけ」型であったが、完成から10年未満の新造船である事から拙速な改修や武装撤去の話は起きる事なく任務を続けていた。


 この頃のロシアはソ連時代に出されたKGB報告には懐疑的であり、日本との経済関係構築のためにも、融和政策を重視し、北方領土への元島民受け入れにも合意する。


 しかし、雲行きが変わるのは意外にも早く、1993年になると海上保安庁との相互交流による所属艦船の往来事業を停止する。


 それは、日本において北方領土と経済関係が不可分であるとする政治発言を気にロシア側が態度を硬化させた結果であった。


 しかし、日本側はロシアの情勢変化を正面から受け止めず、経済関係進展への期待にばかり目を向けていた。


 この頃の択捉島は燃料事情も厳しくなり、所在する国境警備隊では物資や部品の不足すら起きる状態であった。

 その様な状態の中、日本は変わらず巡視船を走らせ、漁船団の警護にあたっていた。

 この様な状態であった事から、択捉島に在する国境警備隊、軍はソ連時代からの日本によるクリル侵攻という妄想が蘇り、友好的態度で接する海上保安官に対しても疑念を抱くようになる。


 夏を迎える頃にはロシア政界は大統領と議会の対立が顕在化しており、KGBから引き継がれた国境警備隊は、日本への警戒をより一層強める様になっていった。

 択捉における物資不足からの不満や不安に加え、モスクワの政治情勢を見据えた思惑まで加わり、冷戦期と変わらないところまで、択捉水雷戦隊は先鋭化していた。


 日本においても、ロシアに対する楽観的見通しばかりが先立っていた訳では無い。6月にはロシア極東において対日強硬論が軍や国境警備隊にまん延しだしている事を掴んだ組織は存在していた。

 自衛隊はその兆候を掴み、内閣へと報告も行っていた。


 外務省もロシア側の対日姿勢変化を内閣へと報告していた。


 しかし、政界が混乱していたのはロシアだけではなく、日本も選挙を控えて内閣が正常に機能していなかった。


 さらに悪い事に、9月には自民党に代わって時の野党勢力が政権をもぎ取り、ロシア極東情勢に関する報告はまたイチからやり直しの事態を迎える事になった。


 この事によって、海上保安庁は「のつけ」型の魚雷操法訓練の予定を変更する機会を失ってしまう。

 これまでは択捉を拠点にする国境警備隊への配慮から、青森沖まで出向くか、紋別沖合で行うのが通例だった訓練だが、1993年はロシア沿岸警備隊との交流を兼ねて訓練を行う事を企画し、釧路沖での実施を計画していた。


 開催期間は9月30日から10月3日を予定し、8月の政権交代によって北方領土情勢を考慮した訓練日時、場所の変更を行うことなく実施する事となった。

 すでにロシア側からは参加謝絶との返事を受けてはいたが、そこから極度に事態が悪化している事までは認識できていなかった。


 元来、魚雷操法訓練は海上自衛隊の指導の下行っていたこともあり、今回も大湊から指導のために護衛艦が向かっていた。


 


 

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