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背景

 1974年、国連において排他的経済水域の設定、並びに領海の拡大に関する海洋法の改訂が行われた。


 日本は当初、周辺の資源開発の観点から領海3海里を主張したが、1977年には国際法に倣い12海里への拡大、並びに排他的経済水域設定のために領海法を定めた。


 これにより、日本はそれまでの4倍の領海、さらに50倍の経済水域を持つ事となり、その警備並びに管理に当たる巡視船の整備が急務となることから「しれとこ」型巡視船を一挙に大量建造する計画を立てる。



 その頃、国連での会議を受けて排他的経済水域設定や領海の拡大への対応を始めたソビエト連邦において、KGBはある報告書を作成していた。


 報告書は日本に対する分析が記され、排他的経済水域設定にあたって、クリル諸島(千島列島)が知床半島から伸びる排他的経済水域に覆われ、日本は漁業利権だけでなく、択捉、国後奪取の野望を抱く可能性が非常に高いとされ、その対策として、択捉島の空軍基地拡充、国後島の港湾施設の拡充並びに択捉島への国境警備隊海上部隊の配備を提案すらされていた。


 この報告書に従い、ソ連は1976年から空軍基地拡充を開始し、国境警備隊を配備するために大規模な港湾施設の建設を始める事になる。

 この年ベレンコ中尉亡命事件が発生し、函館空港が舞台となった事も、日本への警戒心を高める動機として大きかったとされている。


 翌年、日本が領海法を整備し、海上保安庁の拡充を計画している事が報告されると、KGBの懸念が現実のものであるとして極東における軍事力並びに国境警備隊の拡充をさらに加速させる事になった。


 1978年、日本では急速な拡大が始まった北方領土におけるソ連軍の動向に対する警戒が高まり、その対応として矢臼別演習場に常時部隊展開を行う措置を取る。

 

 日本においては、北方領土の基地拡大を北海道東部への侵攻態勢を整えるためだと分析し、海上自衛隊をむつ湾の大湊からさらに北海道太平洋岸へと前進させるべきではないかとの意見もみられたが、ソ連を過度に刺激しないため、部内での議論に留まる事になった。


 日本が北方領土の基地拡大を警戒し、矢臼別へと部隊配備を実施した事はソ連をさらに警戒させ、1981年、極東配備のために建造されていた「ネレーイ」型国境警備艦が黒海を発し極東へと向かったのだが、当初の計画ではペトロパブロフスク•カムチャッキーを予定していたものを、日本の矢臼別新駐屯地への警戒から、急遽択捉島へと変更される事となった。


 択捉島への大型艦艇配備は日本を驚愕させ、中には海上自衛隊の北海道太平洋岸配備や旧型護衛艦を海上保安庁へ移管と言った提言までなされる事となったが、海上自衛隊はGNP1%枠の予算の中で、ようやく始まった本格的なミサイルシステム艦の整備を急ぎ、なおかつ、ソ連太平洋艦隊への備えを考慮し、北海道への新基地建設や海上保安庁への艦艇移管を行う予算、勢力的な余裕が存在していなかった。


 野党や革新勢力からの批判も相次いだ。曰く、国境警備隊は海上保安庁のカウンターパートである海上警察機関であり、北方領土周辺に自衛隊基地を置けば要らぬ摩擦をうみかねないとの主張には、多くが賛同が寄せられる事になった。


 しかし、僅か3か月後に現れた二隻目を見てなお、同じ事が通った訳では無い。

 あまつさえ、釧路沖4海里という日本の領海を航行したのだから、その騒ぎは尋常ではなかった。


 各テレビ、新聞に取り上げられ、週刊誌も少年誌から女性誌までもが扱う大事件に発展していった。


 この領海侵入は自衛隊はもちろん、海上保安庁も阻止、排除できなかったのだから、騒ぐなと言う方がおかしいのかも知れない。


 それら各メディアに取り上げられた「ネレーイ」型の写真には、特徴的な昇降機構を持つオーサ型艦対空ミサイルこそ写っていないが、艦首にある100ミリ砲や中央部に置かれた魚雷発射管がしっかり写り、誰がどう見ても軍艦であった。

 これ以後、択捉島にはさらに2隻の「ネレーイ」型が配備され、日本では択捉水雷戦隊の名で呼ばれる事となる。


 これでは野党や革新勢力も、自衛隊配備や護衛艦移管を声高に反対が出来ない。


 しかし、海上自衛隊には余力がない。


 そうした中、日本政府は海防艦型巡視船を参考とした「海上警備特型巡視船」を構想し、渋る海上保安庁を説得、68式3インチ連装速射砲2基、65式四連装魚雷発射管1基を備えた特千トン型PLの建造を開始したのは1983年の事だった。


 「のつけ」型と名付けられた特千トン型は最終的に6隻が建造され、釧路、根室、紋別に配備される事となった。 


 

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― 新着の感想 ―
[一言] 状況的に色々と厳しいですね。 なんというか……自前で無理に整備しなくても、米国に泣きついてエドサル級とかキャノン級あたりを融通してもらった方が本当は楽な気がしますが……建前上は軍隊ではなく警…
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