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汚れ続けた君主と戦術家

作者: 玉露



213年、初秋の事である。


午後もあらかた時が経った頃、人気のない書庫で、ガラガラと書簡を音を立てて数巻広げながら、荀攸は改めて領土の住民数と食料増産量、そして主な産業を見直していた。

戦術家の彼の仕事ではないにも関わらずだ。

度重なる戦に対応出来るよう、兵や食料の確保は重要である。今までこの手の仕事を得意としていた者は、既にいなくなっていたのだ。


「おお、荀攸、ここだったか」

顔を上げると、君主である曹操がいつの間にか目の前に立っていた。荀攸も曹操も小柄な方なので目線は同じだ。

荀攸は拱手をし、軽く頭を下げる。驚いた様子はない。書庫は誰でも出入り可能なのだ。

「どうだ、首尾は?」

「おそれながら、今年は何とか間に合わせますが、来年以降もこの状態では保ちません」

「そうだな…」

曹操は顎髭を撫でながら呟く。

荀攸の言う、今年は保持出来るのは、この先は冬になり、基本的に戦は避けるので消耗しないで済むだけの事なのだ。

「お前には苦労をかける」

君主は、すまん、と呟き、目線を下げる。

荀攸は、首を横に振る。

「これは俺の仕事です。戦に関わる事ですから」

そこで、言葉を切り、息を吸う。

「ただ、俺も、自分がもっと楽になる手段を知ってはいます」

その言葉に、曹操は顔を上げる。

「……お前、いいのか?……」

「俺が、いつ、反対しましたか?」


事の起こりは曹操が魏公に就任した頃から始まっていた。当事者である彼は以前の事を思い出す。

そして、改めて目の前の戦術家を見る。


「そういえば、お前は何も言って来なかったな……

荀家や潁川の奴らは皆反対だったから、お前もかと、勝手に思い込んでおったわ」

はっはっはっ、と笑う。扉が閉まっているとはいえ、誰でも入れる書庫である。しかし、他人に聞かれても構わないと、彼らは思っていた。

「俺は、あの人達と立場や境遇が違います。

俺は戦術家です。戦に勝つこと、領土を増やすこと、そして、主君の覇道を押し進める事を第一と考えています」

そして、顔を上げて主君の目を見据える。

「そのための手段の一つです。今となっては反対意見は出る筈はありません。万一出たとしても俺が潰します」


滅多に見ることのない、荀攸の暗く、だが強く輝く目の光。

戦場で敵と対峙している時の目だ。

その目をまともに見てしまった曹操は息をのんだ。


この男を見くびっていたな……

これが本性だったな……

嗚呼、こいつを抑えていた男は、もういなかったな……


だが、それは一瞬の出来事だった。

殿、と呼び掛けられた時には、いつもの控え目な荀攸がいただけだった。曹操は我に返る。

「万一の為に警護の者を増やしましょう。それで充分です」

「…ああ、わかった……」

「俺は草稿作りに入ります。来年の春前、次の戦の始まる前に御位についていただくよう努めます」

重大な事を、日々の報告であるかの様に伝え、荀攸は広げていた書簡をわざと音を立てて片付け始めた。

そして、誰に伝えるつもりもなく呟く。


「殿も俺も、失敗を数多くしていますし、罪人の経験もあります。大切な肉親も亡くしています。

……だから、殿のお気持ちは誰よりも理解しているはずです。

……少なくとも、失敗や挫折の経験のない、恵まれた境遇の人々とは違います」

そこで、息を継ぐ。

そうだよなあ、と曹操は呟く。

「わしも恵まれておらん。祖父は宦官、親は養子、その上、本流の家系ではないし、四六時中悪事を働いた……

わしの手は汚れている」

「汚れて当然です、それだけ働いてきた証です。寧ろ……」

この先、声を出していいのか一瞬迷う。


「瑕一つない、きれいなものは近寄りがたいのです。

僭越ながら申し上げますが、君主や執政者に清廉さは必要ないのです。

強い精神力、広い心、時勢を読む力と丈夫な体、取り敢えずこれらが揃えば何とかなります。

俺が何とかします」

荀攸の、静かだが力強いもの言いに対し、

「お前なら、出来るのだな?」

目を輝かせ、曹操は荀攸に顔を近づける。

「殿が君主として力を尽くせば、俺だけではなく、周りの方々も自然とついてきます」

「うまい事を言う」

フン、と君主は鼻で笑う。侮ったものではなく、満足している笑みだ。

「殿の実力では、魏公の位でも足りないようです」

持ち上げているわけではない。ただ、言う機会がなかったのだ。

曹操の傍らには、あの、穢れを知らぬ美しい影が常に控えていたからだ。


この美しい影が消えた今、曹操にとっても覇道に向けて存分に力を振るう機会の到来でもあったのだ。


「世間の穢れも知らず、汚される事もなく、美しいままでした……あれだけ清らかな方は、もういないでしょう……」

「よく、わしの様な汚ならしい男に付いてきてくれたのか、今では分からなくなる時がある。」

曹操の独白に、荀攸は微かに口元を上げ笑みを溢す。

「……失礼ながら、あの方には珍しかったのかもしれません。

……俺を珍しいものと見ていたように……」


彼らは互いに過去を一瞬振り返ったが、彼らにはそれ以上に先に進むべきものの方が遥かに大事だった。



翌年、曹操は魏王として中原を支配するようになった。




























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― 新着の感想 ―
[良い点] 玉露様が表現された荀彧の、人よりも神に近いのではないかと思わせる清らかさ、美しさが非常に印象的でした。 [一言] 三国志物の素敵な掌編をありがとうございました。
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