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第1章 変な子供と小さな期待 3

「……あの子は、違う……?」


 少しの期待が、一瞬胸をかすめる。すぐに「そんなわけない」と諦める心が戻ってきたが、いやでも、もしかして…という思いが何度も行き来した。

 異なる思いの交錯に、目眩を感じる。


「…あの子、もう寝ただろうか…」

 思わず口にした言葉は、まるで息をするかのようで、あまりの自然さに、驚くことすら忘れていた。


 今までの自分では、まず気にかけることのない心配と、言うはずのない言葉。それなのに、何故……。

 理解できないまま、カストルは燭台を手に立ち上がる。頭ではどこに向かおうとしているのか分からないまま、部屋を出た。


 いつも通り、静かで寒く誰もいないトレゾール宮の夜の廊下は、いつにも増して寒く感じる。

 真夜中とはいえ、季節は夏。寒さを感じることはほとんどない。

 だからこれは、気温のせいではないと、よく分かっていた。


 求めるように足を進めるカストルの中に、行き先を問う心は何故かなかった。


 決まっていたかのように歩き続けて、トレゾールを出る。トレゾール宮とロワ宮をつなぐ渡り廊下は外に面していて、虫の声が響き、風が流れ、吹かれて叩き合う草花がサワサワと静かに鳴く音が聞こえてくる。しかし、そのどれも、彼が足を止める理由にはならなかった。


 彼が真っ直ぐ向かったのは、昼間と違って暗闇に包まれた階段。普段はメイドたちが日没に合わせて壁掛けの燭台に灯りを灯して回るが、流石にこの時間には全て消されているようだ。

 足元が見えず、不安定なそれを、いつもならば気にして掴むマントの端も無視して、半ば早足で駆け上がる。


 彼がようやく足を止めたのは、昼間逃げた育児室の扉の前に来てからだった。

 そこでようやく、自分がここに向かって歩いていたのだと気付く。


 ため息のようにこぼした言葉が、そのまま自分の足を動かしたことに、驚きを通り越して感心すら覚えた。

 痛みから逃れるために、感情を消したことは何度もあったが、意識せず吐いた言葉に感情を忘れて行動することがあるとは、知らなかった。


 昼間のようなけたたましい泣き声は、聞こえてこない。やはりもう寝ただろうか。

 起こさないようにこのまま引き返すべきでは、という思いがよぎるものの、心の奥底で何かが疼いていて、身体が思いの通りに動かない。

 見えない何かに引き留められるかのように、その場を離れることができない。だが、そんな状況に恐怖も不安も感じていない自分がいることに気付いた。


 ……ならば、わざわざ抗わずとも良いのではないか。


 カストルはそのまま誘われるようにドアノブに手をかけ、音を立てないように静かに中へ入る。

 薄暗い部屋の中で目に映ったのは、部屋の隅の簡易ベッドで寝息を立てる、あの若い乳母と、窓から差し込む一筋の月明かりに照らされた、窓際のベビーベッド。

 燭台の灯りと月明かりを頼りに、ゆっくりとベビーベッドに近づき、中を覗き込む。そこには、あの変な子供が静かに眠っていた。


 暗くてはっきりとは見えないが、少し目元が腫れていて、疲れたような顔をしている気がする。おそらくあの後も、散々泣いたのだろう。

 泣き叫ぶ姿を想像して、カストルは胸の奥が寒くなるのを感じた。体の中心が冷たくなり、そこから冷気が身体中に広がっていく感覚。それは彼にとってあまり経験のない感覚で、それが罪悪感だと気付くのがわずかに遅れた。


 ……あの笑顔に、深い意味はきっとない。たまたま気まぐれに向けられただけに決まっている。


 俺がこれまで何をしていたか、この子は何も知らない。きっと知れば、皆と同じになる。

 …それなのに、どうして俺は、あの笑顔にこんなにも執着しているのだろうか。

「……お前は、違うのか……?」

 答えるはずもない赤子に、呟くようにポツリと尋ねる。


 …もう一度触れたら、分かるだろうか。


 そう考えながら、そっと手を伸ばす。次の瞬間、クシュッ、と赤子が小さなくしゃみをした。

 カストルは思わずビクッと肩を震わせ、仰け反るように身を引く。

 赤子はまだ重そうな瞼を小さな両手で擦りながら、小さなあくびをひとつ吐き、何度か瞬きをしてから昼間と同じくキョトン、とした目をこちらに向けてきた。


 恐る恐る、といった様子で彼は再びベッドを覗き込み、赤子の顔を見つめる。赤子はやはり、カストルと目が合っても泣くような様子はまるでなく、ただじっと見つめていた。

 純真無垢なその瞳は、まるでこちらの心を見透かしているかのようだったが、やはり不思議と不愉快ではなかった。


 ……違う、のか?


 否定と肯定を繰り返してきた期待が、再び彼の中で膨らんでいく。

 求めるように、確かめるように、カストルは再び赤子に手を伸ばした。それに応えるように、赤子は彼の人差し指を掴み、変わらずじっと見つめ続ける。

 それは、初めて会った日のように、まるでカストルに対して何かを要求しているようだった。


「………オ……」

 小さくも強く、柔らかく、温かい手。

 逃げも怯えもしない、その瞳。

 この子は、違う。

 きっと、違う。


「オフィー、リア……?」

 願いを込めるような呼びかけに、その子供は……オフィーリアは、満足そうに微笑んだ。

 明かりが灯るような笑顔に、カストルは小さく息を呑む。


 オフィーリア……俺の、姪。

 そう納得したカストルの顔に、今にも泣き出しそうな笑みが零れていたことを、この時のカストルはまだ気付いていなかった。



 1歳を間近に控えた王族の子供には、《神の名》を付ける儀式が行われる。


 儀式といっても大袈裟なものではなく、子供のミドルネームを一族総出で考える、というだけのものだ。

 パラフ大陸は、神が清めた芽吹きの大地。大陸内の5つの国々は、神の子供である5柱の王によって創られたというのが、古くから伝えられている建国の歴史だ。


 神の子供たち、5柱の王。その子孫である各国の王族は、神の末裔であるとも言える。王族たちは、自分の子供に神々の名前をミドルネームとして与えることで、その子に先祖の神々の加護が与えられると信じていた。しかし、このパラフ大陸を清めた神の名前が記録として残されていないため、《神話》と名の付く全ての文化から神の名前を借り、子供に付けているのだ。

 もちろん、適当に決めていいわけではない。神の名を付けた者は、その子の名付け親としてその子供に対する一定の責任が伴う上、名前そのものも、口にしていいのは儀式に参加した近しい親族と生涯の伴侶のみという、かなり重要な意味を持つものだ。


 その人間への最上の願いを込めて、名付けをする必要がある。

 とはいえ、神の名前はひとつの教えだけでも100を優に超えるほどある。そんな中で、たったひとつだけを名付けなければならない。加えて、一生背負うことになる名前に悪しき神の名前を付けるわけにはいかないので、かなり慎重に決めなければならない。そのため、一族はこの名付けの儀式にかなり頭を悩ませることになるのだ。


「兄上、何か案はありますか」

 突然声をかけられて、カストルはハッと我に返った。

 彼に尋ねてきたのは、他でもないポリュデウケスだ。


 オフィーリアが生まれて11ヶ月が経ったこの日、ロワ宮の育児室には名付けのために少人数だが、最も近い血縁者が集まっていた。

 部屋の隅で縮こまっている乳母のカレンは別にして、先ほどまでカストルに背を向けて立っていたオフィーリアの父、ポリュデウケス。その傍らで静かに下を向く母エイレーネー、母の両足にしがみついて隠れる兄クラトスと、姉アグネス。扉の前に不機嫌そうにそっぽを向く金髪の女、祖母シャーロット。その対角線上の壁にもたれるようにして立つ、伯父カストルの、計6人だけの一族会議。


 議題の中心であるオフィーリアは、部屋の中に何人もの人間がいる状況が珍しいからか、はじめはキョロキョロと周りを見回していたが、今は我関せず、といった様子で窓際に敷かれた絨毯の上に座り、木切れのおもちゃで遊んでいる。


 かなり身体が大きくなり、何かに掴まっていればひとりで立って歩くこともできるようになってきていた。少し目を離すとソファーの上によじ登ろうとしてバランスを崩したり、部屋の中を這い回って気付くとカストルの背後にピッタリとついて回っていたりする。一度それに気付かず、カストルが後ろ手に閉めた部屋の扉に身体が挟まれてしまったことがあった。

 そんなことがあったので、カストルは常にオフィーリアの様子を注視するようになったのだ。

 そして今も、おもちゃで遊ぶオフィーリアの様子を遠くからジッと見つめ、いつ何が起きても動けるように身構えていた。そんな最中(さなか)にポリュデウケスから声をかけられたので、カストルは驚いて思わずオフィーリアから目を離し、「は?」と我ながら間抜けな声を上げて聞き返した。


「兄上は、何か良い案がありますか?」

「何故俺に聞く」

 同じ質問をしてきたポリュデウケスに半ば苛立ちながら、カストルはそう答える。

 だが、ポリュデウケスは不思議そうに首を傾げ、さも当然のように続けた。

「…?一族全員で話し合うものですので」

「全員じゃないだろう、あの老いぼれはどうした。死んだか」

 いつものように悪態を吐きながらそう尋ねると、クラトスとアグネスは恐れるようにますます母親の足にしがみ付き、先ほどまでそっぽをむいていたシャーロットは化粧のきつい顔を歪ませてキッとこちらを睨み、ポリュデウケスは小さくため息を吐いた。


「…父上は、体調がよろしくないそうです」

「……だからって何故俺に聞く。お前たちで決めればいいだろう」

 そう吐き捨ててフイッと目を逸らすと、再びオフィーリアの方へ目を向ける。オフィーリアは退屈になったのか、おもちゃ遊びをやめ、近くのソファーに手をかけながら絨毯の上を歩いていた。


 ……つたい歩きは最近かなり上達していて不安はほとんどないが、ソファーによじ登ろうとしたり、急に手を離してしまったりする心配があるので、油断ならない。


 そんなカストルの心配に全く気付かず、ポリュデウケスは続けて声をかけてくる。

「上の2人の時は不参加だった兄上が、珍しく参加されているので。それに、最近よくオフィーリアの顔を見に来られているとか」

「……」

 図星を突かれたような気になって、カストルは黙り込む。


 ……確かに、オフィーリアが他とは違うのではないかと気づいたあの日から、カストルはほぼ毎日ここに来ていた。理由は分かるが、絶対にこの男にだけは話せない。

 《神の名》についても、全く考えていなかったわけではない。むしろ、たったひとつの、確信のような名前(ねがい)があった。


 だがそれは、カストルにとって一方的でしかない願いで、たった数度笑みを向けてくれたからといって、怖がられていないと分かったからといって、自分勝手な願いを、まだまだ小さいこの身体に背負わせていいのかと、そう思って発言することを避けていた。


 …だが、もしも、望むことが許されるのなら……。


 その時、オフィーリアの視線とカストルの視線がぶつかった。先ほどまで歩き回っていたオフィーリアは、ソファーに手を置いて立ったまま、こちらをジッと見つめている。まるで、何かを期待しているかのような瞳。


 …なんだ。話を聞いていたのか?


 そんなことはないと思いながらも、求めるようなオフィーリアの瞳には抗えない。今後一切、逆らうことはできないだろうと、彼は諦めに似た信条を持っていた。


 ……いいのか、願っても。


 期待を込めて、願いを込めて。

 けど、その願いの通りにならなくても、俺は……。


「…ハトホル」


 息を漏らすような声で、そう呟く。

「……っ」

 カストルの返答に、ポリュデウケスは息を呑んだ。当然だ。この名前に込められた願いは、おそらくこの中ではこの男しか知らない。それが叶うことはないと、カストルがずっと考えないようにしていたことも。


 諦めたように一度目を伏せてから、再びオフィーリアを見つめる。その途端、今度はカストルが息を呑んだ。

 カストルの目に映ったのは、キャッキャッと声を上げて笑う、オフィーリアの姿。まるでその名を喜んでいるかのように、彼の願いを受け入れているかのように。


 オフィーリアの笑い声に、カストルだけでなく他の一族も皆驚いた。先ほどまでカストル以外誰も見ていなかったオフィーリアに、全員の視線が集中する。カストルを睨み付けていたシャーロットが目を丸くし、下を向いたままだったエイレーネーがポカンと口を開け、ずっと隠れていたクラトスやアグネスまでもが、興味深そうにオフィーリアの様子を見つめている。

「……本人が気に入ったようなので、オフィーリアの神の名はハトホルとしましょう」


 ポリュデウケスがそう宣言すると、それを合図にシャーロットはハッと我に返って部屋を出た。

 それに続きたいわけではないが、カストルも、無性にここを立ち去りたいと思った。

 逃げるようにオフィーリアから目を逸らすと、扉の方へ足早に近付く。ドアノブに手をかけた次の瞬間、カストルの背後で「あっ」というポリュデウケスの声が聞こえた。直後、何かが倒れるような一瞬の微振動と、鈍い音が響く。


 何事かと慌てて振り返ると、何故そうなったのか、いつの間にそんなところにいたのか、絨毯の外の比較的硬い床の上に、オフィーリアがうつ伏せになって倒れている姿があった。


 …なんだ。転んだのか?


 しん、と静まり返り、全員の体が一瞬固まる。

 ゆっくりと上げたオフィーリアの顔は、一瞬何が起きたのか分からなかったようにポカン、としていたが、徐々に理解できたのか、痛みが追いかけてきたのか、目に涙をたっぷりと溜めて、顔中をしわくちゃにした。


「ひっ……」

 エイレーネーが小さく悲鳴を上げ、ポリュデウケスの顔が青くなる。感情が荒れれば、魔力も荒れる。こういう時、真っ先に対処するのは乳母の仕事だが、それよりも早く、カストルはオフィーリアに駆け寄って膝を折った。

「…大丈夫か?」

 呟くように尋ねながら、オフィーリアを観察し、怪我の有無を確認する。鼻の頭と額が少し赤くなっているが、出血はないようだった。


 ホッとため息を吐くと、オフィーリアの身体を持ち上げてその場に座らせる。今にも泣き出しそうだったオフィーリアは、小さな手で涙を拭うと、両手をカストルに向けて大きく広げた。


「あっこっ」

「え……?」

 突然の声に、カストルは思わず声を漏らす。それは間違いなく、オフィーリアから発せられたものだった。

 そしてそれは、これまでのような視線や表情による訴えではなく、明確な要求だった。

 これまで何か言いたげに声を発している姿は見てきたが、この日初めて、それは言葉となってこちらに伝わってきた。


 ……小さな、女神。


「…仕方ないな」

 そう答えると、慣れた手つきでオフィーリアを抱き上げ、背中を優しく叩く。安心したのか、満足したのか、カストルの胸に顔を埋めながらオフィーリアはクスクスと笑った。


 その声に、カストルは思わずつられて笑う。だがそれに気付いていたのは、驚くような目で彼を見下ろすポリュデウケスだけで、カストル自身は、やはりまだ、自分の中の小さな変化を自覚できていないのだった。


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