第1章 変な子供と小さな期待 1
太古の昔から伝えられてきた神話の中で、『女神と悪魔が清めた芽吹きの大地』と呼ばれる大陸、パラフ大陸。
大陸内に5つ存在する国のうち中央に位置しているのが、ここレヴィン王国。《半端者の王子》と呼ばれ、畏怖されながらも生きてきた国だ。
レヴィンとは、古い言葉で『つなぐ』ということ。古くからレヴィン王国は、他4つの国を管理し、統括する役割を担っている。
しかし、それははるか昔のことで、今は管理というより、貿易によって絶えず関わっているだけの間柄だ。
北のホレフ大陸は小国ながら混合農業を行い、小麦をレヴィン王国に提供している。東のスターヴ王国は海に面しており、水産物をレヴィン王国に提供している。南のカイツ王国は医術や薬草学に優れており、薬草をレヴィン王国に提供している。西のアビーブ王国は山に面しており、そこで採れる魔石や宝石をレヴィン王国に提供している。
レヴィン王国は、他国から輸入した技術と生産品を利用した加工品を他国に提供し、それぞれ対等な関係を築いているのだ。
他にもレヴィン王国は、様々な技術で自国を支えてもいた。
カストルが得意とし、国務とは別で担っている《設計》もそのひとつだ。
「頼まれていた修正、済んだぞ」
カストルはそう言うと、ポリュデウケスが作業している机の上に修正済みの図面と見積もり書の束を置いた。
机の上は、カストルの自室ほどではないが、小さな書類の山がいくつかできていた。
彼の母親であるシャーロット妃の趣味によって飾られたロワ宮の執務室は、華美なだけで規則性もなければ、カストルから見ればセンスの欠片もない、ただ無駄に広い部屋だ。
一応は、王太子がポリュデウケスの執務室ということで、散乱させていてはならないと、侍女らが毎日掃除や整頓を行っている。なので、たまにしか整理していないカストルの自室に比べればずっと清潔だ。
とはいえ、多忙な日々が続けば、どんなに毎日整頓していても机の上は多少散らかる。さらに、図面は普段の書類用紙16枚分の大きさがある1枚紙だ。棒状に丸めて留めているものの、それでもそれなりの大きさだ。
それを、なんの気遣いもせずに机の上に置いたため、ポリュデウケスは軽くこちらを睨みつけた。
半年前に生まれた3番目の子供、オフィーリアの教育に関する準備、それに加えて通常の業務と、最近また不調になったエドアルドゥスの国務の手伝いで忙しい日々が続いていたためか、その顔は疲れ切っているようだ。
疲労の色が隠せていないポリュデウケスに、カストルは思わず鼻で笑った。
聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声のつもりだったが、ポリュデウケスの耳には届いていたらしく、眉間の皺をさらに深くして不満気に口を開いた。
「何がおかしいんです」
「いや?相変わらずのマヌケ面だと思っただけだ」
「…喧嘩を売りに来られたのですか」
呆れるようなため息と共に、ポリュデウケスは前髪を掻き上げた。
……だが、呆れるのはこちらの方だ。
カストルは嘲笑の色をたっぷりと含ませた笑みを浮かべ、返答する。
「ほぉ?お前は俺と喧嘩ができたのか、知らなかったな」
ポリュデウケスはその言葉に再びこちらを睨みつけてきたが、それ以上のことはしてこないと、カストルは知っていた。
異母兄弟として生を受けてきて20年。2人は喧嘩という喧嘩をまともにしたことがない。
……常にいがみ合ってはいるが、それは喧嘩とは違う。《喧嘩》は、絆あってのものだ。
ポリュデウケスの疲れ切った瞳の中に、同じく疲労困憊な自分の姿が映っている。それを見て、己も人のことを笑えるような状況ではないことに気が付いた。
意識せず刻まれる眉間の深い皺。異母弟の瞳に映るカストルの声に、20歳の若々しさはなかった。だが、そんなお互いの様子に気付いていても、この異母兄弟は相手を気遣って労いの言葉をかけ合うような間柄ではない。
それに、カストルは机の上に置いたそれは、王都テオスを守る重要な砦。《大門》の定期点検工事に必要な図面と書類であるため、どんなに多忙でも必ず確認してもらわねばならないのだ。
それは、この男もよく分かっている。
だから、これについての文句は言わない。
レヴィン王国は北から王都テオス、ピャール公爵領とディアマンディス伯爵領が隣り合っている貴族領、テオスの街に入れるだけの稼ぎがない者たちが住まう貧民街、未開地であるエルフの森、魔族たちが住まうディアマンディスの街、と並んでいる。
王城や貴族街、商人町や学園があるテオスの街は、街全体を囲むようにして高い壁が建っている。それが、《大門》だ。
正確には、テオスの唯一の出入り口である門のことを大門と呼んでいるのだが、門と壁はつながっているため、壁も大門の一部として考えられているのだ。
大門の中に入ることができるのは、国王の許可を得て通行証を与えられた者のみ。通行証をもらうためには、普通の平民でもそれなりの稼ぎと地位を持っている必要がある。
元々は、魔族と戦争していた時代に、魔族の襲撃から民を守るために建てられた《大門》だったが、今では完全に身分差の象徴となっている。
カストルにとっては、忌まわしいことこの上ない壁だが、歴史的価値もある建造物で、対立関係にある魔族から街を守っているのは紛れも無い事実。大門の維持と改築はこの国における最重要事項なのだ。
ポリュデウケスは苦虫を噛み潰したような顔をしたが、仕方ない、といった様子でため息を吐き、図面と書類の束を机の端に避けた。
「……今日中に確認して、大臣らに回しておきます」
「あぁ」
カストルは笑みを消して短くそう答えると、踵を返して部屋を出た。
……この男は、頭は悪いが無能では無い。この案件の重要性は分かっているので、その言葉の通りにこなしてはくれるだろう。
喧嘩もできない関係なのに、こう確信することはできるという事実に、カストルは少し憤りを覚えた。
両開きの扉が閉まると同時に、カストルは深呼吸に似たため息を吐く。ここ数ヶ月続いていた激務が、ようやく落ち着いた。明日も国務の手伝いがあるが、少なくとも今日この後は自由に過ごす時間がある。
忘れていた疲れが突然訪れたように、一気に肩が重くなる。ここ2、3日程度徹夜だったことを思い出して、心なしか眠気も感じるが、紛らわすように軽く首を横に振り、長い廊下へ足を向けた。
……せっかくロワ宮に来たのだから、書庫へ寄っていくか。
そんなことを考えながら、カストルは階段へ足を進める。本当は今すぐにでも休むべきだと身体が訴えてきているのが分かる。しかし、久方振りの自由時間だという事実に、彼の足が行き先を変更することはなかった。
書庫があるのは5階。カストルが今いるのは2階なので、窓のない薄暗い階段を、長すぎるマントの端を引っ掛けないよう注意しながら静かに上がる。
カストルは、幼少の頃から読書が趣味で、主に物語を好んで読んでいた。彼が生活しているトレゾール宮でも書庫として利用している部屋があり、そこには彼が自ら集めた本が多くある。
だが、ロワ宮の書庫はそれ以上だ。部屋の広さもそうだが、本の数も種類も、王城内で最も豊富な書庫だ。
本だけではない。ロワ宮にあるドレスや装飾品、酒に楽器、馬小屋の馬や王城のほとんどの家具は、新し物好きで浪費家のシャーロット妃が、毎月大量に購入しているものだ。
加えて彼女は飽き性でもあるため、大量に買うだけ買ってもその大半は放置している。家具に関しては、季節に合わせて総入れ替えしても並びきれないほどあり、それらは倉庫にしまい込まれるか、古い物は捨てられている。なんとも無意味な趣味だ。
そもそもその買い物自体、『欲しいから買った』『必要だから買った』のではなく、『自分に興味を持たない夫への不満解消』という、実にくだらない承認欲求を満たすための愚行だった。
……そんなことで気を引いても、あの男には一生無駄だとまだ分からないのか。それとも、その事実さえも衝動の引き金になってしまっているのか。
エドアルドゥスは、愛のない政略結婚で妻になったシャーロットに対し、結婚当時から愛情も関心も持っていなかった。義務としてポリュデウケスという跡取りはもうけたが、彼らが夫婦らしい関わりをしたのはそれだけだ。
事故の後遺症による記憶障害で、シャーロットの存在どころか酷い時は己自身のことすら分からなくなることが、ここ最近かなり増えてきた。そのせいで、元々の浪費癖にさらに拍車がかかってきてしまったのだ。
それでも、シャーロットの実家は隣国アビーブ王国の王室。その身分の高さから、誰も彼女に口が出せない。浪費も、かろうじて国費に影響を与えない程度のものなので、罪に問うこともできない。何より、彼女に唯一口が出せる立場のエドアルドゥス王が、彼女に全く干渉しない、干渉できない状況なので、今ではもう容認されてしまっているのだ。
カストルとしては、そのおかげでこちらの財布を痛めずに多くの本が読めているので、特に気にするようなことでもなかった。
シャーロットは、自分が買ったものを他人が使おうが何も言わないし、無断で私物化しても咎めもしない。そうでなくとも、シャーロットは血の繋がっていない義息の行動に興味などないので、カストルはたまに書庫を訪れては、いくつか本を持ち出していた。
……ほとんど読まずに捨てられるくらいなら、それを楽しめるものが使った方がいいだろう。むしろ、古くなったといってもまだ十分使えるものを簡単に捨てられては、それを作った者があまりに不憫だ。
5階まで階段を上り切ると、目の前に長い廊下が広がる。向かって左は壁一面が窓になっており、昼間の眩しすぎる陽光が差し込んでくる。右には部屋が3つあり、扉がそれぞれ並んでいる。
その時、カストルはふと違和感を覚えた。
ロワ宮は、国王が生活し、現在では王太子が執務を行なっている城だ。部屋の中はもちろん、廊下の隅々まで毎日清掃されていて、一切の埃は許されない。現に、4階までの廊下には窓を拭いたり、花瓶の花や壁がけの燭台のロウソクを新しいものに変えたりと、メイドたちが忙しく働いていた。
だが、この階にだけは、メイドの姿がまるでない。それどころか、何日も掃除していないかのように隅に埃が溜まり、花瓶の花は少し萎れ、燭台のロウソクは完全に溶けているのにそのままだ。
目を覆いたくなるほど酷いわけではないが、下の階までと比べるともはや異常だ。同じ城とは思えない。
……珍しい。
彼が住まうトレゾールのように、メイドたちがカストルと対面することを避けて掃除の手を抜き、逃げるようにトレゾールを出ることはよくある。だが、ロワ宮は王族の中で最高位の者が暮らす城なのだ。メイドたちが仕事の手を抜くことが見逃される場所ではない。
……まぁなんであれ、誰もいないならばそれはそれで好都合だ。俺と目が合うたびに青冷めて逃げていくメイドや使用人たちの姿を見るのは、いつものこととはいえやはり気分が悪いからな。
そう思い、少しホッとしたような気持ちで廊下を歩き出そうとした。次の瞬間。
「ふぇええーっ!!」
静寂を切り裂くようにして、赤子のけたたましい泣き声が響き渡った。
爆発音のようなそれに、カストルは咄嗟に両耳を塞ぐ。
「なんだ……?」
少ししてから、慎重に両耳から手を離す。
泣き声は相変わらず響いているが、耳の方が徐々に慣れてきたため、状況を整理するために周囲を見回し、考えを巡らせた。
そうして、ハッと気が付く。
この階にある部屋は全部で3つ。うち2つは部屋そのものがかなりの広さであるため、他の階であればもっと部屋数があるが、ここには3部屋しかない。
階段から見て1番奥の両開きの扉は、音楽室に。そのひとつ手前の、同じく両開きの扉扉は、目的地である書庫につながっている。どちらも防音壁で室内からの声は外に漏れにくくできているはずだ。
泣き声の先は、1番手前の片開きの扉。3つの中では最も小さな部屋である育児室だ。
王族の子として生まれた子供は、3歳になるまでは乳母と共にこの部屋で過ごす。身分の高い貴族や王族の女は、基本的に自分で子育てはしない。もちろん例外はあるが、多くは自分より身分の低い貴族の女を乳母として雇い、子供の世話を全て任せている。その間母親は、女主人としての仕事や、夫の補佐である書類業務をするのだ。
……たまにシャーロットのように、浪費ばかりで執務を全て息子夫婦と義息に丸投げしてしまう怠惰な女主人もいるが。
泣き声が止まる気配のない育児室の扉の前までくると、ジッと見つめる。常人には見えないだろうが、扉の隙間から、まるで煙のように漏れ出てくる魔力の流れが、カストルの目には映っていた。
それは、魔法を使うことができないカストルでも誰のものかすぐに判断できるほど、身に覚えのある強い気配だった。
カストルは、魔力はあるが魔法使いではない。
彼が3歳になった時、魔力の第一覚醒が起こり、いずれ訪れる第二覚醒に備えて自身の魔力を操る魔力訓練を何年も受けていた。
しかし、彼の魔力は時期を過ぎてでも覚醒することはなく、魔法はおろか魔力操作すらまともに体得できない始末。聴覚は魔力によって人並み異常に良くなったが、そんな能力は、カストルを余計に不快にさせるだけだった。
彼の訓練結果を受けた周りの感想は様々だが、その全てが負の感情に満ちている。
——魔力持ちが、自分の魔力すら扱えないとは。
——やはり平民の血が入った者は劣等なのだ。
——王族のくせに恥も礼儀も知らぬ。
他にも多くの罵声が、望まず強化されてしまった耳に、聞きたくもないのに聞こえてくるのだ。
結局、彼にできるのは他人の魔力の視認と、聴覚の強化。しかし魔力の視認に関しては、第一覚醒である《魔力の発現》が認められた者であれば誰でも可能になる能力なので、特別なことなど何ひとつない。
しかし、対峙する相手が魔力持ちか否かを判断することはできるので、《敵》の多いカストルにとってはかなり使える能力だった。
育児室から流れてくる魔力と泣き声から、カストルはこの階にメイドがひとりも近づかない理由が概ね予想できた。
声の主は間違いなく、半年前に生まれたレヴィン王国の新たな王女、オフィーリア・レヴィン。
未だに赤子とは思えないほどのけたたましい声で泣き叫んでいるが、あの赤子は初めてカストルが部屋に近づいた時もそうだった。初めは、近づいただけでまだ顔も見せていないのに泣くなどなんて、よほど臆病で敏感な子なのだろうと思ったが、その後に顔を見せたら何故か泣き止んだので、もしかすると、部屋に入る前のあれには別の理由があったのかもしれない、と後から考えなおしていた。
この階に誰の姿もないのは、この強大すぎる魔力のせいだ。
——魔力持ちの子供には、同じく魔力持ちの大人が傍に付き、育てること。
法律ではないが、この国で定められているいわゆる暗黙のルールだ。
カストルの幼少期には、魔力持ちの侍女が多くいたが、半数以上が既に引退したか、結婚して仕事を辞めてしまっていて、今の侍女やメイドはほとんどが魔力のない普通の人間。
生後1ヶ月で発現させたあの赤子の魔力は、ここ数ヶ月でさらに力を増している。己を制御できない赤子の魔力は非常に不安定で危険だ。もしこれだけ強大な魔力が暴走しようものなら、この辺り一帯ひとたまりもないだろう。
「…フッ……そいつはいい。いっそこのままこの国ごと壊しくれるなら、俺は何の気兼ねもなく出ていけるわけだ」
起きもしない未来を口から零すと、赤子の泣き声を無視して扉の前を通り過ぎる。
…乳母が付いているのだ、いずれ泣き止むだろう。
扉から離れた瞬間、赤子の泣き声がより一層増したように感じたが、きっと気のせいだと、心の中で呟いた。
カストルが知る限り、この城で《乳母》と呼ばれるのは既に自分の子供を成人まで育てあげた年配か壮年の女か、若くても歳の離れた兄弟の世話をしたことのある女だ。8年前に引退したカストルの乳母は、後者だった。
赤子とはいえ性格やタイプは違うのでそれぞれ大変さは異なるだろうが、乳母として選ばれた以上、多少なりとも子育てを経験したことがある者たちであるはずなので、特別手のかかる子供だったとしてもどうにかして泣き止ませようとはするだろう。
そう思っていたが、カストルはまたも感じた違和感に止めたくもない足を止めた。
……まただ。赤子をあやす声がまた聞こえない。
カストルの聴覚は、集中して聞こうと思えば他人の心臓の音さえも聞こえるほど優れている。そんな彼の耳が、乳母と思しき人物の声をほとんど拾えない。
赤子の泣き声にかき消されてしまっているせいかと思ったが、どうやら違うようだ。よく耳を澄ませて集中すると、ようやく微かに声が聞こえてくる。それは死にかけの虫のような小さな声だが、かろうじて、声の主がかなり若いこと、そして怯えているかのように不安げに震えていることが分かった。
…赤子と触れ合ったことのないカストルでも知っている。赤子は、自分をあやす大人が不安げだとその不安が伝わってきて余計に泣くのだ。
カストルの中に、あの日と同じ怒りと、煩わしい記憶が浮かぶ。それは、振り払っても、忘れようとしても何度も繰り返す呪いのようだった。
「……忌々しい」
小さく呟く自分の声には、色も力もなかったが、それをただの独り言と片付けることはできないほどに、口の中に居残っていた。