52.魔王の片鱗(1)
月日は流れ、冬の厳しい寒さも少しずつ緩んできた。
リバレイ領ではまだ雪が積もっているけれど、セントラルでは春の花もちらほら咲き始めているだろう。
私はファビアンと一緒に畑で作業する手を止め、空を見上げる。
「天候も落ち着いてきたわね。最近じゃ、雪もそれほど降らなくなったし」
「そうですね。まだ油断はできませんが、真冬のような大雪にはならないかと」
「それなら……この小麦たちも、最終段階に入ってもいいかもしれないわね」
ゆっくりと、でもすくすくと順調に育っている小麦たち。
大雪にならないなら、もっと成長を促して早く収穫まで持っていきたい。
「収穫の頃には色が変わるのですよね。私は収穫直前の小麦畑は見たことがあったのですが、それ以前の小麦の色がこのような緑色をしているとは思ってもみませんでした。色が変わっていく様子を見られるのはとても楽しみです」
ファビアンがまだ小さな穂に優しく触れ、笑みを見せた。
そう。実は私も知らなかったのだ。すでに実っている小麦畑は見たことがあったけれど、その過程は知らなかった。ううん、実際は目にしていたのかもしれないけれど、記憶に残っていないのだ。
意識をして見なければ、記憶として残らない。これまでも、無意識で通り過ぎてしまった景色がいくつもあるのだと思うと、勿体なくて仕方がない。
「レティシア様、今日はエルキュール様も早く邸に戻られるとのことですので、そろそろ片付けを始めましょう」
そういえば、エルも出がけに言っていた。今日は早く帰ってこられると。
佳境に入っていた砂漠の民の統一も、ようやくあと一歩のところまできたのだという。
カミルは水さえあれば簡単だと笑っていたけれど、話はそこまで単純ではなかった。生きていくために暗殺を請け負わなければいけないほど過酷な状況にあっても、それをよしとし、この状況に染まり切っていた民たちもいたのだ。そんな民たちは、クラウディアの配下に入ることを頑なに拒んだ。
もちろん、カミルだってそれはわかっていただろう。口ではあんな風に言っていても、彼がこの状況を一番よく理解していたはずだ。カミルは辛抱強く、そんな民たちには特に時間を割いて、じっくりと話し合いを進めていた。
そんなカミルにエルも協力し、ノースディア領やダイア砂漠にも行き来しながら、最善を尽くしてきた。それが、ようやく実を結ぼうとしているのだ。
私がファビアンに頷き、片付けに取り掛かろうとした、その時だった。
「ゴォラアアアアッ!」
ちょうど死角になっている場所から、いきなり何者かが奇声をあげながら私に向かって襲い掛かってくる。
叫び声がする直前、私は空気が急変したことに気付いた。だから、咄嗟に相手の攻撃を寸でのところで躱し、距離を取ることに成功した。
「レティシア様!」
すぐさまファビアンが駆けつけ、私を背に庇い、襲い掛かってきた敵と対峙する。
ファビアンは剣を抜いており、相手に向かって殺気を放っている。相手の隙を窺いつつ、周りの気配にも注意している。
そうか、敵が一人とは限らない。
私も他の気配を探るけれど、どうやら、敵は相対してる彼だけのようだ。
「たった一人でここまで来たのか。たいしたものだな」
「うるせぇ、どけ」
「お前が襲おうとしていた相手が誰か、わかって言っているんだろうな?」
敵は不敵な笑みを浮かべ、鋭いナイフを構え直す。そのナイフの刃と柄は変わった形をしている。弧を描くように曲がっているのだ。男はそれを逆手で握っていた。
「わかってるぜ。クラウディア国の聖女様だ」
「我が国の宝を傷つけようなど、身の程知らずが!」
「聖女様を人質にすりゃ、砂漠の民はお前らなんぞに屈する必要はなくなる! 庇いだてするなら命はねぇぞ」
「騎士が主君を守るのは当然のこと! お前こそ命はないと思え!」
ファビアンが剣を構え、相手に切りかかろうとした瞬間だった。
とんでもなく大きな力、オーラというのだろうか、それを感じ、続いて地の底に響くような声がした。その後、ファビアンという声がする。
「レティシア様、離れて!」
「えっ……きゃあっ!」
ファビアンが私を抱きかかえるようにして、敵と更に距離を取る。
ファビアンは背を向けている。これじゃ攻撃され放題だ。危ない!
「うわあああああっ!」
しかし、危険なのは私たちではなかった。
空から雷が落ちたかのような激しい光が地をつんざき、穴を開けたのだ。
大きなものではない。人一人がすっぽりと入るほどの大きさで、敵は見事にその穴にはまってしまっていた。
「いったい何が起こったの……?」
呆然としながらそう呟くと、ファビアンが私を慎重に地面に下ろし、そのまま跪いて頭を垂れた。
その先にいたのは──エル。




