29-2.逃亡(2)
「やめろっ!!」
カミルが急いで私のところへ来て、身体を揺り動かす。それでも続行しようとしたら、今度はルナの方へ向かった。
「ルナに触らないで!」
そこで私の集中が途切れてしまい、ミシミシという嫌な音が止む。
カミルは大きく息を吐き出し、髪をぐしゃぐしゃと掻き乱した。
「チッ。聖女の力を侮っていた。まさかこんなヤバイもんだとはな。……おい!」
カミルはルベンの方を向き、思い切り睨みをきかせながら言った。
「なにがなんでもこのガキを親元へ帰せ。もし違えた場合は、お前を殺す」
「ひっ!」
「誤魔化そうとしても無駄だ。すぐには無理だろうが、必ず確認する。違えたとわかり次第、お前を暗殺してやる。わかったな、わかったらさっさとそのガキを連れて行け!」
「ひ……は、はいぃっ」
ルベンは足をもつれさせながらやって来て、ルナを抱き上げる。ルナは涙目で私を見た。
「大丈夫。もうすぐお父様とお母様に会えるから。もう少しだけ我慢してちょうだい」
ルナはコクリと頷く。それを確認した後、私はルベンに言った。
「丁重に、安全によ。わかったわね。……ルベン」
「ひぃっ!」
ルベンはコクコクと何度も頷くと、ルナを抱いたまま一目散に外へと飛び出して行った。
「へぇ、あいつ、ルベンっていうのか」
「えぇ。まさか私に名前を知られているとは思わなかったんでしょうね」
「名前を知られているということは、ご主人様のことも知られているということ。あいつ、真っ青になってやがった!」
カミルが楽しそうに笑い出す。
どうやら彼も、この依頼がルベンの一存でないことはわかっていたようだ。
それでも、そんなことは彼らにとってどうでもいいことだ。本当の依頼主なんて関係ない。報酬さえ手に入ればいいのだから。
そこでふと、報酬のことが気になってしまった。私はいったい、いくらで取引されたのだろう?
「私はいくらで売られたのかしら?」
「それは言えないな。安心しろ、決して安くはない。お前を他国に売り飛ばせば更に儲けられるし、なかなかうまい仕事だと思って引き受けたんだが……。想像以上だな。お前を売り飛ばすなんて勿体ない。必ず俺のものにしてやる」
「あいにく、私は人妻ですので」
「関係ない。ここではそうかもしれないが、国を出れば、そんなものは何の意味もなさなくなる」
「……あなたは、どこの国の人?」
「さぁな」
カミルは皮肉げに笑い、私に向かって腕を伸ばしたかと思うと、私の腕の縄を素早く解き結び直す。今度は後ろ手ではなく、前だ。そして、私をひょいと簡単に抱き上げる。
「ちょっと!」
「おっと、おとなしくしとけよ。お前はあのガキを親元に帰すことを条件に、俺のものになると言ったんだ」
「言ってないわ!」
「あぁ、言葉にはしていなかったな。だが、お前はその条件を呑んだはずだ、レティシア」
「……っ」
私は強く唇を噛みしめる。
ルナを救うにはそうするしかなかった。それに、今ここで暴れたところでどうにもならない。ルナだけでも助けられてよかったのだ。
口を噤んでしまった私に、カミルは耳元でそっと囁いた。
「大事にしてやる。後悔はさせない」
不覚にも、ドクンと胸が騒いでしまった。それが悔しくて、私はカミルから顔を背ける。
カミルは小さく笑うと、従者二人に向かって大きな声をあげた。
「アシム! スード! 出るぞ!」
「はいっ!」
アシムと呼ばれた、あの怒鳴り散らしていた短気な男は、大慌てで外へ出て行った。馬の用意をするのだろう。スードという抜け目なさそうな男の方は、荷物をまとめている。
「こんなに風が強いのに、馬で移動できるの?」
「雪が降ると厄介だからな。少々きついが、雪よりマシだ」
確かにそうだった。
この天候だと雪が降ればたちまち動けなくなる。そうなれば、彼らにとっては死活問題だ。
「頭! 準備ができた!」
「いつでも出られる」
アシムとスードに頷き、カミルは私を抱いたまま外に出る。
強い風が吹きつけ、凍えそうになる。するとカミルは分厚い毛布で私を包み、一旦私をスードに預けた。馬に跨り、スードと協力して私をカミルの馬に乗せる。
「落っこちないよう、固定する。しばらく不自由だが我慢しろ」
カミルは自分の身体にロープ状にした布で私を固定し、左手で抱える。手綱を持つのは右手だけだ。
「片手で大丈夫なの?」
「問題ない」
カミルはニヤリと笑うと、馬を走らせた。どんどんスピードが上がっていき、寒さが身に沁みる。
カミルはこれほど速いスピードにもかかわらず、片手だけで馬を操っている。只者ではない。それはそうだ、彼は暗殺組織の頭なのだから。
「数時間は休憩なしだ。だが、クラウディアを出たところで休ませてやるからな」
カミルがそう言って、優しく私に微笑みかける。
何のつもりか知らないけれど、それで私の心が安らぐはずもなく、時間が経つにつれて胸が苦しくなってくる。
クラウディア国を離れる。もう二度と家族やエル、騎士団をはじめとするリバレイ領の人たちに会えないのだろうか。
やっと、ようやっと、愛する人に巡り合えたというのに。
涙が溢れそうになるのを必死に堪え、私は強く瞼を閉じた。




