俺様>>公爵だってやる時はやるのを見る
ニコラウス・クライセン公爵は常に、人の顔色を窺って生きてきた。
王子として生まれたが、どうにも両親の不仲に幼いながらも気付き、そして母親が異様に自身に執着しているのを目の当たりにした。何故か年の近い兄の事を嫌っており、ほんのちょっとでも話題に出そうものなら、烈火の如く怒り出した。
その怒りはニコラウスではなく、周囲の随従に被害が及び、彼らから何となく感じていた冷たい視線がさらに厳しいものに変わったのがわかった時、母親の機嫌を損ねるのはやめようと心に決めた。
ただでさえ居心地が悪いのに、これ以上悪くなるのは避けたかったのだ。
しかしながらニコラウスが幾ら母の機嫌を取ろうともだ。父が女性に手を出し、それを兄が咎め、大事になったと噂が王宮内を駆け巡る度に、母は半狂乱で切れた。
母としては、兄の子供らしからぬ行動と言動が気に食わないようで、父の奔放な行動など放っておけば良いのにと金切り声を上げていた。
大人になってから知ったのだが、夫の浮気は見て見ぬふりをするのが貴婦人としての嗜み、などと言われていた為に、兄の行動に高位貴族のご夫人達から失笑されていたようだ。
そしてそれがさらに母を追い詰めた。
王妃という立場なのに蔑ろにされ、嘲笑されたせいで、ますます子供のニコラに執着したのだ。そして我が子の安全と教育の為という大義名分と、ニコラを与えておけば周囲に喚き散らす事もさほどなかった為、謂わば人身御供のようなものとなってしまっていた。
それでも成人すれば、いや結婚さえすれば、王宮を出て母親と離れられると思っていたのに。
公爵領を与えられたがその代わりに、隠居した母親も引き取る事を御膳立てされてしまっていた。
嫌だった。心の底から嫌で仕方がなかった。
けれども人の顔色を伺って生きてきたし、下手に反抗して兄の不興をかい、リーンとの結婚話を無かった事にされるのが恐ろしかった。
それ故に公爵邸にて母親も一緒に暮らす事になったが、離宮で過ごした時と同じ様に、今度は夫婦の事に関してやたらと口を出してくるようになった。それでも反抗さえせず聞き流していれば、面倒ごとにはならないので、それをリーンに教えたら、今度は妻の方が激怒し、喚き散らし、そしてニコラを詰った。
自分が我慢する事こそが、誰にも被害が及ばない筈なのに。その筈だったのに。
何をしても、妻の顔は不機嫌なまま。だんだんと表情というものがなくなっていき、フェリクスが生まれた後は、まるで母と同じようにヒステリックに喚くようになった。
まだ母のように周囲に被害を及ばす事はなかったが、それでも厳しい言葉と態度に打ちのめされた。
自分が愛したリーンが居なくなってしまったように思えて、執務室に籠る日々。下手に自分が何かをすれば、余計に怒らせてしまいかねない。だからこそ、母に応対した時と同じように、言いたい事もいわずすべて受け入れてきた。
その結果が、コレ。
妻からは公爵邸に帰ってくるなと言われ、兄からは王宮から出ていけと言われ、最後には腰にブーツを投げつけられた。
何故だ、何故こうなった。
腰に当たり床に倒れ伏したクライセン公爵は、立ち上がる事すらできず、拳を握り締めた。
先程、生まれて初めて兄と取っ組み合いの喧嘩をした後で、謝ってきた時に感じた怒りが、いまだ腹の奥底で燻っている。
喧嘩をしていた時はそこまででは無かった。けれどもああもあっさりと頭を下げた兄を見て、激しい怒りに駆られた。
生まれて初めて、感情をぶつけたのだ。言いたい事をいってやったのだ。
それなのに兄は、自分が謝ればそれで良いだろうと言わんばかりに、ああもあっさりと、悪びれもせずに。
それだけ自身が軽んじられているように思えて仕方がなかった。
「ちょっとアンタ、公爵にブーツ投げつけるだなんて、なんてことしてんのよ!!??」
「私は引き止めてあげただけですわ! つまりこの事に関する責任は全て、アミルカル殿下にあるのでしてよ!!!」
「何いきなり全ての罪を僕に擦りつけようとしてるんですかぁ!!!?? 貴方に助けを求めた僕が馬鹿だった!!!」
「オーッホッホッホッ!!! 今更自分がお馬鹿さんである事に気付きまして? この天才を前にして、己の才覚の至らなさを悔やむのは、致しかない事ですわ!! 何せこの私! 神が嫉妬しまくっちゃうほどの超絶天才だぜなのですわあああ!!!!」
「うああああああああああっ!!!!!」
騒がしい声に視線をあげれば、小憎たらしいアミルカルが、顔を真っ赤にして頭を掻きむしっている。こうして見れば、大人びた皇太子も、ただの子供にしか見えない。
そしてその様子を見て、いつも取り繕って物事を冷めた目で見ているような兄が、困惑しているのがわかった。
すべて理解しているといわんばかりの兄がだ。
その姿を見て、先程まであった怒りは消え、決意を新たに公爵は体を起こした。
「に、ニコラ、無事か?」
声を掛けてきた王に、頭が冷えた公爵は真顔で言った。
「兄さん、…陛下よ。どうか今すぐに、アンネマリーと私の隠し子であるセバスとの婚姻を認めて頂きたい。それからテオバルトとクリスティーネ・フリージンガーとの婚姻もだ」
「……いきなりだな」
「いきなりではありません。そもそも本日王宮に来たのも、その話をする為だったのですから」
訝しげな視線を向けられるが、決意した公爵は揺るがない。
今日は一日散々な目に合ったが、それ故に確信したのだ。
あのアンネマリーだけは、クライセン公爵家に入れてはいけないと。
フェリクスの婚約を決めるとき、何度か顔を合わせた事があったが、大人しいどこにでもいる貴族の令嬢だと思っていた。しかしながら最近の行動は、あまりにも過ぎた。
こんなのが嫁になったら、間違いなく色んな事が拙い。本当に拙い。リーンが公爵邸内を叫びながら全力疾走する姿に、公爵は色々と考えさせられていたのだ。
何かしらの事が起こる時、全ての起因はアンネマリーにあるといっても過言ではないと、公爵は思った。
こんな日々が毎日の様に続いては、心が保たない。無理である。絶対に無理である。本当に無理である。
隠し子がいたとか、もうそういう泥くらいいくらでも被る。むしろその程度の泥を被っただけで、フェリクスとアンネマリーが結婚しない未来が来るのならば、喜んで被ろうと公爵は思った。
そのためには是が非でも、テオバルトとクリスティーネの婚姻を認めてもらわねばならない。
「テオバルトは、アミル殿下の策略に利用され、とんでもない噂を、……かの令嬢と懇意であるという話を広められそうになったんですよ。その非道さは、陛下だってお分かりになる筈です」
「……ニコラウス、それはまあ、うん。そうだな、かの令嬢と恋仲である噂は、色々と致命的であるな。……アミルにはもう一度、ちゃんと人を選ぶようにと話しておこう。だがしかし、お前の庶子が恋仲らしいが、そっちは良いのか?」
「愛し合う二人が婚姻することこそ、当たり前の常識ではありませんか!!!」
公爵わかってますわねという声が聞こえてきたが、気のせいに違いない。
「それにかの令嬢とアミル殿下の気安さは、男女でありながら近いと思いませんか。いずれ愛を育み始めるのではないかと」
「誰か、婚姻証明書を持ってくるのだ。今すぐに!!!!」
王もまた、アンネマリーが王家に入ってくるのを阻止したいようである。いまここに、兄弟の気持ちは一致したのである。
迅速なる王の裁可によって、ここにアンネマリーと公爵家の庶子セバスチャンとの婚姻が結ばれたのであった。
「オホホホホ! オーッホッホッホッホッホ!!! やったのですわ!! オーッホッホッホッホッホッホ!!!!!」
「うるさ……、ちょ、まじでうるさっ!」
「あらあらあらあらあらぁ! まだまだ婚姻出来てないミアは、羨ましくって仕方ないのかしらぁ!? ミアったら婚期逃すタイプですものねぇええええ!!!??」
「往復ビンタするわよ、アンタ」
聖女ミアとフェリクスについては、婚約関係を結ぶという事にした。あんなのが義姉とはいえだ、二人に血縁はない。あの姉妹を引き離せば、平民の小娘など簡単に御せると公爵は思ったのだ。
テオバルトとクリスティーネの結婚は、まず間違いなくフリージンガー侯爵の怒りを買う。
なにせフリージンガー侯爵は、自身の娘とアミルカルとの婚約を強く望んでいるのだ。だが王が国内の貴族の娘との婚約を正式なものにしないのには訳がある。
現在の王妃は高位貴族の娘であったが、その実家が色々と宮中で騒がしく外戚として大きな顔をし、それに王が煩わされたからだ。
フリージンガー侯爵はまず間違いなく、王妃の外戚の二の舞をしでかすだろう。それがわかっているからこそ、王は決断できていない。
隣国の王女との婚約話も持ち上がっているが、それにも乗り気になれないのには理由があった。
アミルと王女の婚約の条件が隣国への留学だからだ。
なぜ一人息子である皇太子を、わざわざ隣国に留学させねばならぬのかと、王は頭を抱えている。そもそも隣国の方が若干国としての力が大きいから、正式に婚約するのならばそれは断れない。
悩ましい条件に明確に反対していたのがフリージンガー家であったわけだ。
そんななかで、フリージンガー侯爵家の長女クリスティーナとテオバルトの結婚は、アミルを遠避けるのにちょうど良い口実になるようにも思えた。
蔑ろにされている長女の勝手な婚姻に、侯爵はまず間違いなく激怒するだろう。しかしながらテオバルトは王家の血が流れているから、無碍にもできない。王家との婚姻を姉妹でできるわけもなく。アミルカルとフリージンガー家の次女との婚約は不可能となるだろう。アミルカルの婚約者候補が一人消える。
そうなると以前から話が来ていた隣国の王女との婚約が、ほぼ確定となるだろう。
つまりアミルカルは隣国へ留学が確定するという、公爵にとっては最高の厄介払いが出来るのだ。
これで全て上手くいくと、公爵は確信した。
きっとフリージンガー侯爵は、激怒するだろう。だがクリスティーネは長女であるし、王家の庶子であるテオバルトを殺すなどは出来やしないだろう。
そこを上手く誘導して、クリスとテオバルトの夫婦を、王都から離れた領地での仕事を任せるようにさせるべきだと、侯爵を説得するつもりだった。
なるべく王都から離れた僻地が良い。
物理的に距離を空けるのは、短絡的な考えに人を走らせない為でもあるし、何よりもアンネマリーを自分の家族から引き離す良い口実になると思ったのだ。
僻地での執務ともなれば、人手がいる。しかしながら侯爵に睨まれた娘と王家の庶子の、謂く付きの夫婦に手を貸す人間がいるだろうか。
普通はいない。
しかしここに、普通ではない令嬢が存在するわけである。
公爵邸でアンネマリーとフリージンガー家令嬢が懇意にしているのは、何度も見かけているので知っていた。
上手く話を誘導さえすれば、アンネマリーはクリスティーネにくっついて、公爵邸を出て行くに違いない。いや出て行かせよう。
そうすれば自分は公爵邸で、妻とフェリクスとで心安らかに暮らせば良いのだ。
この結果を持ち帰ればきっと、リーンは自分を受け入れてくれるに違いない。公爵は己の成果に笑みを浮かべながら、王宮を後にしたのだった。
まずはフリージンガー侯爵の説得をと彼の元へと向かい、難航はしたが話は纏まった。
そして三日ぶりに屋敷に戻ってみれば、そこには何もなかった。
何もなかったし、誰もいなかった。
何も。
誰も?
「えっ、何がどうした」
呆然とする公爵に、秘書官が今更戻って来たのかと言わんばかりの視線を投げ付けてきた。一応上司なんだけれども、そして王弟なんだけれどもと、公爵は思ったが、それよりももぬけの殻となった屋敷について気になった。
妻のリーンは、息子のフェリクスは無事なのだろうか。
「お二人はご無事です。……あのこちら、クリスティーネお嬢様からお手紙を預かっておりまして」
フリージンガー侯爵の娘からとはと、公爵は訝しげに手紙を開く。礼状など今読んでいる場合ではないが、秘書官が読めと有無を言わせぬ圧力を掛けてくるため、渋々開いたのだ。
そこには、怒りで震えたような筆跡で一言。
『この怨み、忘れてなるものか』
クライセン公爵は知らない。クリスが絶対に街から出たくない、つまり僻地での暮らしなどトラウマ級にお断りであった事を。
「なぜだ!!!???」
「屋敷の荷物は、アンネマリーお嬢様とミアお嬢様が売り払いました」
「なぜだ!!!???」
本当に何で。
「クリスお嬢様夫婦が領地へ向かわれる日取りが急ぎだったので、ともかく急いで現金を用意すべきという話になったのです。それで奥様が、不用品を売ってしまいましょうと言われ、最終的に家財道具の殆どが売り払われました」
「は、母上が揃えた一流の調度品だったんだぞ。それを不用品などと……」
公爵は嘆いているが、夫人は「お義母さまの顔がチラついて本当に目障りだったのよ」と清々しい笑顔を浮かべていたのだが、秘書官は最後の優しさを持ってそのことは言わないでおいた。
「物がないのはわかったが、他の人間はどうした」
「テオバルト様とクリスお嬢様の与えられた領地に向かって、御出立いたしました」
「アンネマリー達はわかるが、フェリクスもか」
「はい、奥様も一緒です。ちょうど与えられた領地のお隣が、奥様のご実家だとの事で、ついでに田舎の親戚に会いに行く事になさったようです」
そんな偶然あるのかと、公爵は目を剥いた。だがまあそういう事もあるかと無理やり呑み込んで、そして新たなる疑問を秘書官に投げつけた。
「なぜ我が公爵家の人間すべてが、ついていくんだ?」
「アンネマリーお嬢様が、私について来たい者は来ても宜しくってよと仰りまして。それなら行こうかなっていう使用人が続出しました」
「嘘だろう!!?? アレだぞ!!!???」
「何を言いたいかなんとなくわかりますが、アンネマリーお嬢様は使用人に人気ですよ。毎日の高笑いを聞くのが日課であり、庭師などはそれで腰痛が治ったと言っています」
「そんな馬鹿な!?」
「正直言いますと、使用人からすれば公爵でも伯爵でも、自分より身分が上という括りでしかなく、給金も変わらないのなら少しでも好意的な方についていくかと思います」
「そんな馬鹿な!!!???」
それではと秘書官は頭を下げると、どこかへ行ってしまった。
残された公爵は、ただただ立ち尽くすだけであったのだった。