俺様>>恋のキューピットとして暗躍する
アンネマリーがテオの態度に怒り心頭で部屋から出て行くのを、廊下の隅で見張っていたクリスは、少しばかりタイミングを見計らって、再びテオのいる客室を訪れた。
「テオ様、先ほどは失礼しました。…あの、良かったらこれ、作ってみたのですけれど、少しお召し上がりになって下さい」
「作った…とは、お嬢さん、貴方がですか?」
「ええ、お恥ずかしながら」
炊事洗濯掃除、それから力仕事まで。あらゆる雑用をこなしていたクリスは、高位貴族の娘であるにもかかわらず、一人で出来る事が多かった。料理だってそれなりの腕である。
「どうぞ。…あっ、すみません」
皿を手渡した時に、クリスは態とらしく手を引っ込めた。そして荒れた手を隠し、焦ったように顔を俯けた。
「その手は……」
「あ、あの、私、ずっと修道院で過ごしていたので。貴族の娘らしくないですよね、…えへへ、お恥ずかしい」
落ち着いて考えればわかる事だった。テオの容姿は女性が放っておかないだろうし、どことなく迫られるのに辟易している様子なのだから。
結婚という目的に囚われて、クリスは己の行動を顧みて恥じた。
「お料理をしていたら、少し冷静になれました。私、テオ様と知り合えて、舞い上がっていたみたいです。男性に親切にされたの、生まれて初めてだったから……」
少なくとも、父親からも兄からも、そして婚約者からもクリスは優しい言葉をもらった事などなかった。女性として扱ってもらった事もなかったのだ。
そんなふうだから、親戚の男性陣もまたクリスに対して腫れ物でも扱う様に距離を置かれていたわけで。
「私、あまり家族から好かれていなくて。それでもきっと、私が頑張って自慢の娘になれば、きっと好きになってくれるって、そう思っていたんです。でも、ダメですね。血のつながった家族にすら嫌われているんですもの。私みたいなの、好きになってくれる方なんていないんだわ」
ごめんなさいとテオに頭を下げて、クリスは部屋から去ろうとした。これ以上此処にいては、また余計なことを言ってしまいそうだったからだ。
しかしそんなクリスの手を、大きな男の手が掴んだ。
振り返れば、テオが少し戸惑った顔をして、クリスを引き留めたのだ。自分の行動が信じられないようなそんな顔に、クリスは苦笑する。
やっぱりこの人は、優しいのだわと、そう思った。
「貴方は綺麗で、優しいお嬢さんだ」
「お世辞などいりませんよ、テオ様。大丈夫ですから、どうか離してくださりませんか」
「……お世辞なんかじゃありません」
真摯な眼差しに、クリスは頬を染めた。そうして顔を俯け、己の夢を口にした。
「侯爵家の生まれですけれど、私には愛情というものが注がれませんでした。侯爵令嬢としても、扱われていません。だからでしょうか、……どんなに貧乏でも、暖かな家庭を作りたいと思っているんです。ふふ、夢見がちな馬鹿な女の戯言ですね」
「戯言なんて言わないで下さいよ。……お嬢さん、いやクリスさん。俺も、恥ずかしながらそんな家庭を持ちたいと、ずっと、思っていたんですから」
「……テオさま」
いつの間にか、両手を包み込むように握られていて、クリスは恥ずかしそうに顔を俯けた。そして。
完全勝利。
口元を歪め、心の中でクリスは拳を突き上げたのだった。これぞ押してダメなら同情させて押し通せ作戦である。
発案はアンネマリーで、最初に聞いた時は半信半疑であったけれども、今ではアンネマリーは大天才だわとクリスは有頂天だった。
「良いですこと、クリス! ああいった輩は、可哀想なものに同情するんですわ! 押してダメなら引いてみろ作戦では、結婚に至るまで10年コースが待ち受けてるのでしてよ。俺なんかが幸せになっていいのか考えて、そこら辺で婦女子を引っ掛けて、恋のライバルが増えに増えて、モダモダモダと…! そんな未来を望んでないのならば、同情から絡めとって言質とるのですわぁぁ!!!」
クリスティーネ・フリージンガーには、とっても可愛らしい夢があった。それは色んな人に祝福されて結婚式を挙げる事である。
幼い頃に親類の結婚式に参加した時、花嫁も花婿もとても幸せそうで、クリスは私もああなりたいなと思ったのだ。
何せ妹が生まれた時から、思い切り母から冷遇されていたのだ。幸せそうな人間を見て、自分もそうなりたいと思うのは、ごく当たり前の事であった。
そんなクリスには、兄の友人である伯爵子息の婚約者が居た。名前はディルクといって、最初からクリスに対して小馬鹿にしたような態度をとっていた。
今思い出すと腹立たしいが、当時のクリスは、婚約者として不出来な自分が悪いのだと思っていたので、そんな態度をされてもなお、ディルクを愛そうとしていた。
だって幸せな結婚式には、愛し愛される二人が必要だったのだもの。
けれども、どんなに尽くしてもディルクはクリスを認めなかったし、一緒に出歩くのが恥ずかしい不細工だと言い、兄と友人でなかったら婚約の話は受けなかったとまで言われた。
あまりもな態度に、クリスは両親に何度か相談した事もあった。けれども言われたのは、全てクリスが悪いといって、もっと婚約者に尽くせというもの。
クリスは成人前の貴族令嬢であった為、とても狭い世界で過ごしていた。だから両親の言葉は絶対で、ひたすらに己を責め続け、ディルクに謝る日々を過ごしていたのだ。
そして婚約して一年。兄とディルクが、王立アカデミーへと入学する時に婚約は解消された。貴族の娘としての振舞いが全く出来ておらず、婚約者に迷惑を掛けたからというものだった。
一体何故と衝撃から立ち直れないクリスに、両親はメルボブン修道院行きを決め、フリージンガー侯爵家の恥さらしめと罵り、家に帰ってくるなとまで言われたのだ。
あの時はとても悲しかった。悲しくて苦しくて、それでもクリスは何も言えなかった。いつも黙ってやり過ごしていたから、どんな言葉を紡げば良いのかすら、クリスには分からなかったのだ。
そうして何年も経って、クリスがアンネマリーとミアの姉妹に出会ってから。
メルボブン修道院を出て、勝手に実家に帰ってから、クリスはアンネマリーが言っていた事を思い出し、調べてみたのだ。
フリージンガー家の財政状況を。
侯爵家で広大な領地を所有しているし、領地経営や事業はフリージンガー家の親類が行っている。侯爵家はそれらを取り纏める立場であったから、それこそ莫大な財産がある筈なのだ。
なのに侯爵家の長女たるクリスの婚約者は、伯爵子息とはいえ何の役にも立ちそうにない家柄だった。
侯爵令嬢ともなれば、多少の不出来さも目を瞑ってもらえるであろう身分だというのに、どうしてディルクはあそこまでクリスに対して強気に出れたのだろうか。
そんな疑問はすぐに、妹のカリーナの言動で判明した。
カリーナが言っていた通り、アミルカル皇太子の婚約者になる為に、父が暗躍していたのだ。
アミルカル皇太子には王家が望む婚約話があり、それを推したい派閥と、反対したい派閥とで分かれていたのだ。つまりは、フリージンガー侯爵家は反対派閥の筆頭で、莫大な財産をばら撒きまくっていたのである。
内情を調べて、両親のお金の使い方を知ってしまうと、そりゃあ侯爵家なのにお金がなくなるわと思わざるを得ない。
侯爵家長女であるクリスが、それなりの家へ嫁いだ場合の持参金など、出したくないと思える程に、父はお金をばら撒いていた。
もう馬鹿だとしか思えない。
クリスが婚約を解消した時、慰謝料として幾許かの金額をディルクの家に渡していた。しかしそれは、クリスが実際に結婚する場合に掛かる金額を遥かに下回っていた。
さらに言うなれば、王立アカデミーへと入学すれば、どこの誰が婚約しているかなんて話は知れ渡るだろう。だからその前に、クリスは婚約解消されたのだ。
最初からクリスをメルボブン修道院へと送り込みたかったが、体面があるからそれをしなかったようだ。ディルクはその為だけに用意された婚約者でしかなかった。
つまり、クリスが夢みた結婚式を挙げるという事は、出来やしないという事である。
全てを知って理解したクリスは、本当に何でこんな人たちのために、自分はあそこまで我慢していたのだろうと思った。
メルボブン修道院でも、もう我慢するのは止めると決意したが、侯爵家に戻ってから更に決意を固くした。
だからこそ、一目惚れしたテオバルトに、自分から結婚を迫るような行動を取っているのである。
侯爵令嬢ともなれば、本来なら親が結婚まで話を付けるものだし、ましてや女の方からアプローチするだなんてあり得ない。
だがそんな事を言っている場合ではないのだ。
フリージンガー侯爵家に栄光の未来なんて来やしない。待っているのは破滅だけ。でもその未来に巻き込まれるのは、真っ平だった。だからクリスは、好きな相手と結ばれて、早々に縁を切る事にしたのだ。
兄や妹に対して薄情ではと言われても、いままでの仕打ちを考えると、助ける気も起きなかったのだ。
我慢して耐えた先に、私が愛される未来なんてなかったのだから。
だからクリスは、同情を引いて絡め取ることに、なんの罪悪感も抱いていない。同情でも、クリスに対して優しくしてくるテオバルトを、逃す気はない。
だってだって、顔が良いんですもの。好みだったんですもの。前の婚約者より、格上過ぎたんですもの。
もしこの先、テオに捨てられる未来があったとしてもだ。何もせず、我慢したままでは知り得なかった、無骨な男性の手の温かさを、忘れる事はないだろう。