俺様>>つまりは惚気てるだけである
「とにかく落ち着くのでしてよ! てやっ」
アンネマリーが掛け声と共に、クリスの首へ手刀を入れた。ペチンとまったくもって迫力のない音がして、叩かれた方のクリスよりも叩いた方のアンネマリーが痛いと涙ぐんでいる。
「うええっ、痛い…」
「アンネマリーお嬢さん、そういうのはある程度の筋力と体術の嗜みが必要ですよ」
「前は出来たんですわぁ」
前とはと疑問が浮かんだが、テオはそれ以上は追求しなかった。アンネマリーの一撃により、クリスがやや正気に戻ったからだ。
「私としたことが、恥ずかしい。えへへ、私と結婚するとお得ですよ。実家は兄が継ぎますけど、私にも受け継ぐべき財産はありますから、まず金銭的に不自由はさせません。侯爵家なので親類縁者がそりゃあもう大量にいるので、フリージンガーが一人増えたところで問題なしです」
問題にしろと、テオは思った。
「偽装結婚からの真実の愛って素敵ですよね、テオ様! 最終的に真の夫婦になればそれで良いですから。ほら、恋の始まりはちょっとした偶然からっていうじゃありませんか?」
こんな偶然あってたまるか、すべてゴリ押しではないかとテオは思った。深くため息を吐くと、テオはクリスに言った。
「クリスお嬢さん、そうは言いますがね。俺は貴族の家で養育されましたが、今現在は街中の借家暮らしですよ。使用人なんざいません。そんな暮らしをしている俺が…」
「街中!? なんて素晴らしい立地に住まわれて……! 私、街中なら雨風凌げればそれで良いんです、ええ、街中にさえいれれば!!」
クリスは感激したかと思えば、まるで歴戦の猛者のような荒んだ空気を纏って、己の覚悟を口にした。いや街中に住んでいるだけでこれって、どういう事だろうかと思ってしまう。
「ああもう、間怠っこしいですわー。テオは結婚したくないって事ですの?」
「いやその、結婚というのはもっと慎重にやるべきでは?」
どうやっても乗り気ではないテオに、クリスは薄く笑って言った。
「わかりました、テオ様。これ以上無理強いしても仕方のない事ですもの。ただどうか、少しは私のことを真剣に考えて頂けると、嬉しいのですが。私、貴方と本当に結婚をしたいと思っているんです」
「……お嬢さん」
そうしてクリスは、少し失礼しますねと言って部屋を出ていく。テオはそれを見送るだけしか出来ない。
「お前、それで良いんですの?」
「いや、しかしですね、お嬢さん。物事には時間が必要で」
「それは明日になればどうにかなる物なのですの?」
「そういうわけじゃ……」
言い淀むテオに、アンネマリーは顔を盛大に顰めた。生来の性格上、アンネマリーは全て勢いで生きている。なのでこうして煮え切らない態度を取られると、イラッとしてしまうのだ。
「お前、明日が当たり前に来ると思っているのですの? 朝起きてまだ、クリスがいると思っているのかしらですわ。お前は明日の朝も、自分が生きているとでも?」
今日と同じ明日が来る事などあり得ないのに、どうしてそれが分からないのだろうか。
「あと言っておきますけど、乙女心はコロッと変わるのでしてよ。一時間後には、恋情が殺意に変わる可能性もあるのですわ!」
「いやお嬢さん、変わり過ぎでしょ。何をすればそうなるんです?」
「そうですわね、クリスの場合だと、お前が結婚を承諾しない時かしらですわ」
「いままさにじゃないですか」
だからとっとと決めろと言っていると、アンネマリーは心の底から呆れた目でテオを見た。
「……そんな目で見られてもですね、俺にも色々とあるんです。それに勢いで結婚して、大変な事になったらどうすれば良いのやら」
「お前のような考え方をする連中はいつも、終わりの時を考えて尻込みするのですわね」
後悔したくない、失敗したくない、傷付きたくない、つまりはそういう事なのだろう。けれどもだ。生きている間、後悔しない事なんてあるのだろうか。失敗しない事なんてあるのだろうか。傷付かない事など、決してあり得ないのに。
だからこそ、この時がずっと続けば良いと思える程の瞬間を迎える事が出来たのならば、それはとても幸せで素晴らしい事だとアンネマリーは思っている。
そう例えば、セバスチャンが異世界転移してきてくれた時とか。
その時の事を思い出して、アンネマリーは顔を緩めた。突如としてニヤけた顔になったアンネマリーを、テオは怪訝そうに見つめている。このお嬢さん感情の起伏激し過ぎると思いながら。
「まったく! どうしてこう往生際が悪いのですの!!」
埒が開かないとばかりに、テオの部屋を後にしたアンネマリーは、憤りながら叫んだ。
ちなみにアンネマリーのすぐ近くには、往生際の悪い人間がいるが、恋は盲目というので、今日もその両目を曇らせていた。
「で、殿下、そもそも騎士団長の結婚は必要なんですか?」
「勿論でしてよ! 王家の庶子と結婚したという噂を聞き付けて、アミル殿下は間違いなく私の様子を見にくるのでしてよ。その時に、テオ団長よりも超絶格好良くて物知りで、だ、だい…しゅき…な、ゴホン! セバスチャンが、お、お、おお、夫になってたら、そりゃあもう悔しがるに決まってるのですわ!!」
押せ押せなのに唐突に恥ずかしがらないで欲しい。セバスチャンの心臓は常に限界ギリギリである。落ち着かねばと脳内で魔法学の難解な理論を考えながら、殿下は友達と己に言い聞かせつつ、アンネマリーと会話を続けた。並列思考が得意で良かった。
「慌ててテオ団長を探したところで、フリージンガー侯爵家の一員になっていたら、簡単には手出し出来ません事よ。アミル殿下の面子を潰しまくってやるのですわぁ」
「そんな事で潰せるものなのですか」
「ふふん、アミルカルの性格は、俺様の弟にそっくりなのですわ。私、天才だから見抜いているのでしてよ! ああいう奴は、自分の計画通りに進まないと、頭掻きむしって激怒するんですわ!」
確かにと、セバスチャンは納得した。殿下の弟君も、アンネマリーが不幸に嘆かないから、あんな強硬手段に出たのだし。
「まったく、世の中全てお前の手の平の上ではないというのに。とんだ勘違い野郎ですわね!」
「さすが殿下! 見事な慧眼ですぞ!」
「オホホホ!! オーッホッホッホッ!!!」
やっぱりこれがなくちゃと、アンネマリーは久々の賞賛の言葉に満足したのだった。
ひとしきり笑った後で、アンネマリーはまじまじとセバスチャンを見上げる。元の姿だと視線は同じくらいだった筈だが、アンネマリーの姿になると随分と身長差があるように思えた。そもそもアンネマリーは十五歳であり、セバスチャンは生まれ月の関係で二十歳になったばかりだった筈だ。
こうしてみるとセバスチャンは、立派な大人の男であった。
そうと認識しただけで、アンネマリーの顔は熱を持ち、隣に立っているのが恥ずかしくなってしまう。しかし離れるのも嫌なので、もじもじと、それこそ恋煩いの少女のような振る舞いをしていた。
これは完全に嗜好が本来のアンネマリーよりになっていると思う。本来のアンネマリーは男性、それも格好良いのが好きだったようなので、セバスチャンはまさにそれに一致している。
漆黒の髪と瞳は、大賢者ラグナルスの血筋の証。
王国トライアス創世の歴史に関わる人物であるので、黒髪黒目の容姿はとても人気が高かった。
セバスチャンは見た目だけは良いと言われていたけれどもだ。
そもそもセバスチャンの良さは、見た目だけじゃなくその中身にあるというのに、周りの奴らはまったく解っていない。
穀潰しの無駄飯ぐらいと言われていたが、超絶天才たるアンネマリーが一目置く程の才能が、セバスチャンにはあった。
何せ彼は、夢を現実に変える力があったのだ。魔法でという意味ではない。いやある意味魔法か。
魔法を創造するという事は、既存の魔法学を全て理解し、魔力の動きや魔法陣の意味、事象その他諸々を完璧に制御しなければならない。
だから新たな魔法を作り上げる時は、それこそ魔法学会で取り上げられ、何度も実証実験を繰り返して出来るというのに。
セバスチャンはそれを最も簡単に、一人でやってのけるのだ。
仲間内だけで脳内会話が出来るようになれば、アカデミーの授業中や離れていても楽しいのではという話になった時、セバスチャンは大いに同意した。単なる絵空事を話しただけだったのに、セバスチャンはその魔法を創り上げたのだ。
それ以外にも、ストロベリーちゃんの絵本を常に持ち歩きたいからと、己の影を媒介に収納スペースを作ってみたり、騎士団の連中に絡まれないように、周辺の無機物に擬態する魔法を創ってみたりと、色々である。
本当に凄いと思うのと同時に、それらの魔法は全て、軍事利用が可能である事にアンネマリーは気付いていた。
多分間違いなく、セバスチャンがそれらの魔法を創造した事が知られたら、厳重に閉じ込められ研究をさせ続けられるだろう。
セバスチャンはセバスチャンらしく、薄暗い部屋で好き勝手に生きているのが一番であるし、アンネマリーの質問に色々と答えてもらう時間がなくなるのは嫌だったのだ。
人間不信で繊細でどうしようもないセバスチャンだが、自己犠牲の精神は持っている。アンネマリーや友人達の命が脅かされると言われたら、間違いなく軟禁され研究する道を選ぶだろう。
だから。そう、だからだなのだ。
「さっきからどうしたんです、殿下。お腹でも空きましたか?」
今迄の事に思いを馳せていると、セバスチャンが見当外れの事を言ってくる。一瞬ムッとしたものの、何か食べ物をと己の影に手を伸ばしていた。トライアスにいた頃は、そこからお菓子などが出て来たが、残念ながら魔法のないこの世界では何も起きない。
「あっ、しまった。なにか、何か食べ物は…、なんて事だ手持ちがないですぞ。メイドに言って何か持って来てもらうべきか、しかし話しかける難易度高過ぎですが、ここは殿下の為になんとか……」
焦るセバスチャンを見て、アンネマリーはどうだこんなにも良い男なのだと、一人胸を張ったのだった。