俺様>>父親が来ちゃった
ランセル伯爵は妻となった女性を深く愛していた。だから妻が死んだ時、ランセル伯爵は己の心に空洞が出来てしまったように思えて、全ての事が煩わしくなってしまった。
伯爵としての義務はあるのは頭では理解している。けれども己の中の悲しみと折り合いが付かず、悲嘆に明け暮れた。そんなランセル伯爵の周囲には、自身の悲しみを理解しようともせず、後妻にと己の血族を推してくる者ばかりが群がって、酷く鬱陶しかった。
そして何より失望したのが、娘のアンネマリーだった。自分と同じ悲しみを持っているであろう筈なのに、母親が死んだというのにアンネマリーは食事をとり、自分にもキチンと食べるようにと言い募った。外に出掛けようと誘い、一緒に寝てほしいと我儘を言う。
娘は母親の死を何とも思っていないのだ。だから笑顔を浮かべて過ごしていられるのだろう。そういうふうに一度捉えてしまうと、娘の行動に嫌悪感しか湧き上がらなくなる。
一方で、そんな筈はないと理性ではきちんと理解していた。だがランセル伯爵の中に渦巻く悲しみが、どうしてもアンネマリーを受け入れられなかった。
だから娘をなるべく視界に入れないようにして過ごし、妻との思い出に浸れるように、金で契約した娼婦を後妻に娶り、群がる鬱陶しい連中を追い払ったのだ。
その結果が、由緒あるランセル伯爵家の街屋敷の倒壊であった。何を言っているのか自分でもわからないし、何があったのかもわからないのだが。
目の前にある事実に、ランセル伯爵はただただ立ち尽くすだけであった。
最初、領地の視察先に血相を変えてやってきたロバートの話を聞いて、働かせ過ぎたのだろうかと彼の頭を心配してしまった。だから少しゆっくり過ごすようにと、領地の屋敷へと送ったのだが、毎日のように戻ってくれと言い募られ、仕方なく予定を早めて王都へと帰還した。
すると本当に、屋敷はなくなっていた。跡形と瓦礫は残っていたが、それだけである。
「あ、あ、アンネマリーは…!? つ、妻はどうした? ミアは!?」
「奥様は別邸を借りてそちらで過ごしております。アンネマリーお嬢様とミアお嬢様は、クライセン公爵家に」
「フェリクス様が受け入れてくれたのか。…良かった、アンネマリーも安心だろう」
「え、ええ。一緒に向かわせたローズとラテによりますと、毎日元気にお過ごしになられているようです。それでですね、旦那様」
アンネマリーは婚約者であるフェリクスに執心していると、ロバートから聞いていた。今更父親面など出来やしないが、それでも娘の身を案じてしまう。だからこそフェリクスが、アンネマリーの支えになってくれればと願ってしまうのだ。
「こちら、婚約解消の書類の確認をして頂きたく」
「誰と誰のだね?」
「アンネマリーお嬢様とフェリクス様のです」
ロバートの言っている言葉がわからず、ランセル伯爵はもう一度訊ねた。
「アンネマリーお嬢様たっての希望で、フェリクス様との婚約を解消したいとの事です。いやすると宣言しておりました。この事はクライセン公爵夫人も了承しておりまして…」
「…は?」
そんな一方的にとランセル伯爵は怒りに顔を歪めたが、ロバートが皇太子殿下からの要望でもありましてと、さらりと言った。
「何故この話に、アミルカル皇太子殿下が出てくるんだ?」
「いえまあその、アンネマリーお嬢様が公爵家の執務室に入り込んだ不審者を捕まえたところ、皇太子殿下だったそうで。なんやかんやあって、婚約解消に手を貸してくれる事になりました」
そのなんやかんやが大事なのではとランセル伯爵は思ったし言ったのだが、ロバートは深く重苦しい息を吐くだけである。
「あの日は、あまりにも色々あり過ぎて、私にはすべてを説明する事が出来ないのです、旦那様」
瓦礫の前でロバートは、徐にパイプを取り出すと、火をつけて吸い始めた。えっ、まって、まって。私は貴族で主人。お前は雇われてる執事で、えっ。なんでパイプをふかしてるんだ、ロバート。
「私もね、長年お仕えしてきましたが、こんな事があるともう、職を辞して故郷に帰ろうかなって思うんですよ。なんかもう、疲れました」
煤けているロバートは、口から煙を吐き出すと、この屋敷を破壊したのはアンネマリーだと言った。
「何を言っているんだ、ロバート。アンネマリーにそんな腕力があるわけないじゃないか」
「いえ、素人リフォームを行おうとしたアンネマリーお嬢様が、ハンマーで柱にヒビを入れた結果、全てが倒壊しました」
「そ、そもそも、何故アンネマリーがそんな事を」
「……そんなこと?」
「そ、そうだ。家の事は夫人に任せているし、アンネマリーにはフェリクス様が居ただろう!? いきなりそんな事をする必要がな…」
「……そんなことですって?」
ロバートから恐ろしい程の怒気が発せられた。主人として立ててくれているが、ランセル伯爵が生まれた時から屋敷に仕えている執事である。幼い頃は何度か本気で怒られた覚えのある相手であった。
「私は! 旦那様に何度も何度も何度も!!!! アンネマリーお嬢様を気にかけるようにと申し上げました!!!!! 新しい奥様とお嬢様の仲が宜しくないとも!!!!!! 同い年の姉妹ともなれば色々と難しいとも!!!!!! 父親からのフォローが大事だと何度も何度も何度もおおおおおお!!!!!! それなのに貴方は、女同士だから一緒に暮らせば仲良くなれるだろうなんて!!!! そんな事があればこの世の中!!!!!! 争いなんぞ起きませんからね!!!!!!!!」
ロバートの怒声にランセル伯爵は姿勢を正して、その通りだなと肯定した。
「ならば今すぐ、どうぞお嬢様達の許へ行って下さい! それから奥様にも謝罪を。いくら金で買ったと言いましても、長年に渡って屋敷を取り仕切って下さっているのですよ。労いの言葉もなく、金を使わせてやっているんだからの態度では、双方拗らせるのは当たり前です。まあこれも旦那様の耳には届かなかったでしょうけどもね。私はもう、六年前から言い続けてますけどねぇぇぇぇ」
手に持っていたパイプがバキッと音を立てて折れたのを見て、ランセル伯爵は大急ぎで現在の妻たるランセル伯爵夫人の許へと向かった。
そこで娘達が修道院に行った事を知り、何故そんな事を勝手にするんだと憤った。そして居ても立っても居られず、メルボブン修道院へと馬車を走らせたのである。
そして長らく待たされた後で、面会室にアンネマリーとミアがやって来た。戒律の厳しい修道院では、面会時間にも制限があるらしい。こんな場所にどうして自ら来たがったんだと、ランセル伯爵は娘達の心情を慮った。
「お父様!」
「アンネマリー!」
ランセル伯爵を見て、アンネマリーは笑顔を浮かべた。こんな不甲斐ない自分を見て、まだ笑顔を浮かべてくれるのかと涙がでそうになったのだが。
「ちょうど良かったですわ! 金を出せでしてよ!!!」
「お義父さまぁ、お願いしますぅ。お義姉さまが中庭をちょっと破壊しちゃってぇ」
「私の所為ではありませんわ!! 森のクマさんと餌付けした奴の責任でしてよ!!! 私は修道院を守った英雄なのですわ、オーッホッホッホッホっホッホッホ!!!!!!!」
はたして、自分の娘は、こんなだっただろうか。ダメだ、最近のアンネマリーが思い出せないと、ランセル伯爵は今更ながらに己の所行に戦慄した。その横でロバートが、呆れたようにため息を吐いている。
「ま、ともかく、金を出せ。なければ持って来い。お前の価値は今の所それくらいだ、わかったか間抜け、なのでしてよ」
娘に凄まれ、ランセル伯爵は竦み上がった。先程までテンション高く笑っていたのに、ランセル伯爵には低く静かな声で言い放ったのだ。
ちなみに新生アンネマリーの中で、嫌いな奴ランキングぶっちぎりが父親であるランセル伯爵である。生前のアンネマリーとは同等レベルだ。
いつまでも自分を可哀想だと憐れんで、ウジウジしている奴が新生アンネマリーは大嫌いなのだ。ウジウジして何が解決するわけでもないのに。
別に悲しむなとは言わない。アンネマリーだって取り巻き達の事を思い出すと、寂しくって涙が出てくる事があるからだ。けれどもそれを、延々と悲しみ続けるのは、アンネマリーとしては呆れる行動だなとしか思えなかった。
だからランセル伯爵も生前のアンネマリーも、新生アンネマリーからの好感度は底辺以下である。
鈍間と呼んでいるフェリクスですら、アンネマリーからしたらまだそれなりの対応をしていたわけだ。
「私の娘があああああ!!!??? どうして、どうしてこんな事に!!!?? ロバート、どうしてちゃんと見ててくれなかったんだ!!!!???」
ランセル伯爵が嘆いている姿を見て、アンネマリーは腕を組んで鼻を鳴らした。
「ふん、後悔しても遅いのですわ、バーカ」
アンネマリーの言葉は、ランセル伯爵と生前のアンネマリー、双方へと掛けたものだ。
辛い事から逃れて楽になりたいと、そう思うのは自由だ。アンネマリーだって好き勝手に生きているのだから、本人の勝手にすれば良い。
だが死んでしまっては、全てが終わりなのだ。自身の持ち合わせる感情全て、何にも残りはしない。
そして死は、突然やってくるのだ。いつかとか次とか、そんな悠長な事を言っている時にはもう、終わっている。
だからこそ今更嘆くランセル伯爵に、アンネマリーは心から軽蔑した。
「娘からの視線が冷たい!!??」
「いやなんでそこで信じられないという顔をするんですか旦那様。当たり前の所行、むしろ口を聞いてもらえてるだけ地面に額を擦り付けて感謝するべきです旦那様。さ、お金だけ出して帰りましょう。いるだけでアンネマリーお嬢様とミアお嬢様の好感度が下がり続けますよ」
あと私も下がり続けておりますと、ロバートが言った。ランセル伯爵は長年仕えてくれている執事を、怯えたように見た。
「先程の言葉、しかと受け止めました旦那様。赤ん坊の頃から見守ってきた情とやらを消滅させるのに、相応しいお言葉です。ふふふ、旦那様への好感度というものは、屋敷の使用人すべて底辺以下に落ちておりますゆえ、ご安心ください。さあ、帰りましょうか」
何一つ安心出来ないと叫ぶランセル伯爵から金品を奪い取ると、ロバートは一礼して馬車に叩き込み、去っていったのだった。