俺様>>マナーのおけいこをする
アンネマリーの朝は、優雅な紅茶の香りから始まる。わけもなく、毎朝同じ時間にパッチリと目を覚ますと、大きく伸びをしてベッドの上で飛び跳ねてから、ベランダに出て高笑いまでがワンセットで始まる。
「今日も一日、私の為に日が昇ってきたぜでございますわ! 下々の者、私に感謝しまくれですのよ!! オーホッホッホッ!!!」
「朝から元気だねぇ、アンネマリーのお嬢様は」
「オホホ!! 庭師のジョン爺も精がでるな! この私が直々に労ってやりますのですわ!!! 私の美しさには負けるけどそれなりに綺麗なお花を、頑張って世話するが良いですわ!! 見てると癒される素敵な庭を作りまくりなさいですのよ!!!」
ベランダの下から庭師の老人が声を掛けると、アンネマリーは高笑いしながら返事をした。その他にも、庭を通る使用人達から声を掛けられては、高笑いと共に一言二言、それ以上に喋っていた。
初日は何事かと驚いていた使用人達も、一週間も経てばアンネマリーお嬢様だし仕方ないと思うようになっており、中にはむしろ声を掛けられるのを楽しみにしている者も出てきた。
なにせアンネマリー、見た目は深窓のご令嬢なのに、口を開けばその言動に驚く事間違いなしな上に、かなり気さくに言葉を返してくれるのだ。しかも使用人の誰が何の仕事をしているのかを把握しており、高慢な物言いながらストレートに誉めた。
それ故にアンネマリーは、公爵家でかなりの人気を集めていたのだ。
「うむ、今日も私の為に働きまくるのですわ!!! オーホッホッホッホッ!!!」
そしてこのアンネマリーの高笑いで起こされるのが、ミアの毎朝の出来事だった。姉妹だからと、隣同士の部屋になってしまったのだ。
これの所為で毎晩なんだか夢見が悪く、魘されていた。隣同士の部屋とかやめてほしいが、公爵家の居候でしかないミアが文句は言えない。何せ帰る屋敷はアンネマリーが物理的に破壊したのだ。
老齢の執事ロバートが泣きながら、義父に知らせに行ってくると馬車に乗って領地に向かったけれど、義父が戻ってきたところで屋敷はどうにもならないし、そもそもその話を信じてもらえるかどうかもわからない。多分ロバートが狂ったと思われるとミアは予測していた。
「お寝坊さんのミア、起きなさい! 朝ご飯の時間ですことよ!!!」
ノックすらなく、バタンと勢いよく扉を開けたアンネマリーに、ミアは朝からうるさいわよと怒鳴った。これもまた、この一週間繰り返される光景で、公爵家の使用人達ですら仲の良い姉妹ねと微笑ましく見ているほどである。
なぜそうなったかと言えば、ローズとラテの二人の所為である。虐められているアンネマリーを可哀想に思い、優しいミアと和解できて良かったと思うくらいに、二人の頭はお花畑であった。そしてそういった花は、どんな場所でも咲き乱れるものである。
二人の視点から語られる、捏造率100%越えの義理の姉妹の物語は、公爵家メイド達の心をぶち抜いたのだった。それに加算されるアンネマリーの好感度により、すでに手遅れな状態へとなってしまったのである。
「今朝の朝食は私の好物ばかりですわ! さすがわかっているな、料理長! 誉めて差し上げて良くってよ!!!」
朝食の席で上機嫌で食べるアンネマリーを、公爵家の料理長はニコニコと見守っていた。アンネマリーの傍らにはローズとラテが付き従い、お茶のおかわりを淹れたり口を拭いたりと、甲斐甲斐しく世話をしている。
まさに屋敷の主人のごとく振る舞っているアンネマリーだが、実際はただの居候である。
食堂には、本来の主人であるクライセン公爵と夫人、そしてフェリクスもちゃんと存在していた。もちろんミアもいる。
食事中も優雅にマナーを忘れずにがモットーであるクライセン公爵夫人は耐え切れず、何度かアンネマリーにブチ切れていた。のだがその都度アンネマリーに言い返され、しかも上から目線で話を聞いてすらもらえず高笑いで終わっていたので、苦々しい思いをしていた。
だがそれも今日までよと、憎しみのこもる眼差しでアンネマリーに視線を送っている。クライセン公爵は微笑みの淑女と呼ばれる妻が、眉間に皺を寄せてガチギレしている顔を見てからというもの、黙って食事を取るだけに済ましている。そしてそんな父ならば息子も息子なので、フェリクスもまた只管空気に徹していた。ミアはそんなフェリクスを見て、どんどんと好感度を下げていた。
「今日はどこに遊びに行こうかしらなのですわ」
「オホン! お待ちなさい、アンネマリー。今日は屋敷にいてちょうだい。貴女とミアに大事なお話があります」
ええっと不満げな声をあげるアンネマリーに、クライセン公爵夫人は顔を盛大に引き攣らせながら言った。
「貴女達は皇太子から直々に、園遊会に招待されたのですよ。ならばそれに見合ったマナーを身に付けなければいけません。今日はマナーのお稽古をするのです。先生もお招きしていますからね」
「そんな詰まらない事したくないですわ。私、公爵家騎士団の馬に乗ってあげるのに忙しくて」
「お黙りぃぃぃ!!!! 大人しくマナーのお稽古なさい!!! そうしないと馬小屋に火を付けて燃やしますからね!!!!!!」
顔を真っ赤にして金切り声で叫ぶ妻を見て、クライセン公爵は静かに目を閉じた。もし息子がアンネマリーと結婚したら、これがずっと続くのかと思いを馳せ、婚約解消した方がいい気がしてきたのだ。
あとこれだけ好き勝手やっているアンネマリーとミアを追い出さないのは、公爵家としての体面と、フェリクスへと引き継がれた押しに弱い性質が公爵夫妻にはあったからである。
「まあそこまで公爵夫人が言うのなら、一回くらいは出てあげても良いですわよ! 私って心が広くてさすがですわぁ!! オホホホホホ」
ボキリと、クライセン公爵夫人が持っていたフォークが折れた。激怒のさらにその先の怒りによって、フォークは犠牲となったのである。
そんなやりとりの後、アンネマリーとミアは庭に用意されたお茶会の席に座っていた。目の前には美味しそうなお菓子が並べられている。
早速食べようとするアンネマリーの手の側を、ピシリと鞭が掠めた。眼鏡を掛けキッチリと髪を結んだマナー教師グリーの仕業である。初老に差し掛かる彼女は、それはもう厳しい事で有名なマナー教師であるが、教え子は高位貴族へと嫁いでいる為、ぜひうちで教えてくれと申し込みが絶えなかった。
クライセン公爵夫人もまた、結婚前にグリーに教えを乞うた一人である。教えは厳しかったが、公爵夫人となった今はとても感謝していた。彼女のおかげで、クライセン公爵夫人は面倒な貴族社会を生き抜いていけるのだから。
園遊会でアンネマリーが皇太子の側に侍るというのは、婚約者がいるにもかかわらずはしたない娘だというレッテルが貼られてしまう。それでフェリクスと婚約解消ともなれば、それこそ嫁ぎ先がなくなるだろう。そしてランセル伯爵家は社交界の良い嗤い者となる。
息子の嫁にと多少は目を掛けた娘なのだ。物凄く気に食わないが、それでも見放すのはクライセン公爵夫人としてのプライドが許せなかった。
「良いですか、良き妻となり夫を支え、社交界で生き抜くにはマナーは必要不可欠です。貴女達を守る鎧でもあるのですよ」
「えぇー、そんなわけないじゃんですのよ」
アンネマリーの言葉に、グリーがキッと睨み付けた。
「なんですかその態度は。キチンと座りなさい。背筋を伸ばして、口元には常に微笑みを浮かべなさい! 感情をそのまま顔に出していては、他人に侮られます」
そんなわけないと、アンネマリーは呆れた。社交界の頂点で好き勝手やり過ぎて皇太子の座から引き摺り下ろされたアンネマリーだが、その事は棚に上げている。だってアンネマリーだから仕方がない。
「そんな事したってお菓子は美味しくならないのに」
「周りから嗤い者になるだけですよ」
「別に笑われたって関係ないし、お菓子ぐらい好きに食べたいのですわ」
グリーは頭を抱え深いため息を吐いた。そしてクライセン公爵夫人と顔を見合わせ、なんとも教えがいのある生徒ですねと言った。
「良いですか、グリー先生の合格が出なければ、園遊会には参加させません。絶対に、何があっても、皇太子がなんと言おうとです!!!!!」
クライセン公爵夫人が強い語気で言い放ち、アンネマリーは不満の声をあげた。一週間ほど共に暮らしたクライセン公爵夫人は、その声色からアンネマリーが強引に参加するであろう事を見抜く。
「当日は鎖で括り付けて倉庫に閉じ込めますからね!!!!!」
「……公爵夫人、貴女ももう一度マナーのお稽古をなさいますか?」
「はっ、失礼しました。グリー先生」
微笑みの仮面を貼り付けたクライセン公爵夫人が、慌てて一礼した。
「コホン、わかりましたね。ではまずは挨拶の仕方からです」
「覚えても面白くないんですのよ、マナーって」
「そう言う事は、覚えてから言いなさい。さあ、おやりなさい」
マナーなど覚えて本当に何が楽しいのか、アンネマリーにはさっぱりわからなかった。それを身に付けても、別に料理の味が変わるわけでもない。親しい人達と笑い合って好き勝手に食べた方が、よっぽど美味しいと感じるのに。
なぜ笑いたくもないのに笑って、よく分からない角度でお辞儀をして、誰も彼もが同じ言葉で挨拶をしなければならないのか、本当にわからなかった。
ただアンネマリーはそんじょそこらの凡人とは違い、とっても賢い皇太子であったので、幼い頃に男女や身分毎に違うマナーを一通り身に付けていた。ただ何年経ってもそれが楽しいと感じなかったので、今の様に好き勝手に振る舞っていたのである。
そうつまり、アンネマリーは異世界送りの刑に処されようとも元皇太子。お馬鹿と言われようとも、最高の教育を施された選ばれし人間である。
「ご機嫌麗しゅうございます」
淑女の微笑みも、完璧なるお辞儀の仕方も、テーブルマナーさえも、やろうと思えば何だって出来る、超絶天才であった。