第八話〜上司とメイドの狭間で〜
焼亡した内裏も直ちに再建が行われ、応和元年十一月二十日に村上帝は新造内裏へ還御した。それと同時に五位蔵人としての私の仕事も本格的に始まり、主上の我儘や勅旨などを伝達する事が増えた。
「……これ右少弁がやる事じゃなくない?」
「蔵人はそういうものだと仰っていたのは、確か旦那様だったと思われますが」
「いやそうなんだけどさぁ……」
五位蔵人とは、ただ「位階五位の蔵人」ではなく、そういう名前の令外官である。故に補任を規定する令はないが、文字通り五位が任じられ、家柄や学才も考慮される。定員2〜3人。
「まあ今は私しかいないんですけどね。追加の人プリーズ」
「それだけ陛下が気に入ってらっしゃると考えましょう。考えようによっては、陛下の後ろ盾があるようなものでは?」
「そう割り切れたら楽なんだけど……いや、激務だから楽でもないか」
抑もここまでの私の官暦自体が異例のようなものであるから、今回の越階とかの褒美が悪目立ちしている。こっちとしては針の筵もいいところであるが、勅旨によるものなのでなんとかなっている節もある。そしてそうなった理由は、またもう一つある。
「主様に申し上げます。左大臣様が間もなくお見えになるとの事」
「実頼殿が? 何回来たら気が済むのあの人……」
そう、時の左大臣である藤原実頼その人が理由である。先の内裏火災の折に面と向かって知り合う機会を得、また私が故実に通じていたことから同じく故実家であった実頼に気に入られたのである。41という年齢差(実頼は数えで61歳である)もあり、恐らく私のことを孫のように思っているに違いない。彼の孫、藤原佐理が私の三つ下であるし。
「左大臣様の御到着!」
「あぁもう! 今迎えに参りますから!」
最初に私が入った門は高倉小路に面しているが、実頼はいつもその反対側、東洞院大路の門を使う。そちらの方まで走ってゆけば、半蔀車が停まっているのが見える。実頼の乗用車だ。
その牛車から降りてきたのは、直衣烏帽子姿の老人だ。無論、左大臣藤原実頼その人である。細長く伸びる顎髭が如何にも老人然としている。
「おお、蔵人殿。態々出迎えとは、足労かけるのぅ」
「左大臣様、毎度のことですがもっと前に御連絡下さいよ。あと私の貴重な休みを狙わないで下さい」
「ほっほっほっ、儂を邪険に扱えるのはお主だけじゃろうて。ほれ、こりゃ手土産じゃ」
そう言って実頼が持ってきたのは、和紙で蓋をされた幾つかの壺であった。和紙で蓋をするときは通常書き損じや不要な使用済み用紙を使うものだが、こちらは何れも贅沢に白紙を使っていた。それに何か書いてあるから中身を判別させるものだろうが、左大臣殿の経済力が窺えるというものである。
「ええと……砂糖、胡椒に、こっちは胡麻油ですか。どれも上質な物ですが……?」
「だから手土産じゃと言うておるに。なに、今日こそはお主の『あれ』を食わせて貰おうと思うてな」
「…………確かに、これだけのものを頂いて何も無しは宜しくないですね。全く、悪どいお方だ」
砂糖は屋敷にもあったが、元々は薬としての伝来である。但し、この頃には既に菓子としても認識されている(当然貴重品だが)ので、贈答品としても扱われる。
胡椒の伝来は天平勝宝八歳で、当時は生薬として扱われた。この時代頃から調味料としても用いられるが、ふんだんにあるわけでも無し。
胡麻油も屋敷にあったが、本来ならゴマ粒を絞って採取するものであって、当然高価なものである。だから揚げ物とかが宮廷料理級になってたわけで……
「旦那様、もてなしの用意が……そんな顔されて如何なされましたか?」
「ん、ああ、美月君か。今日は少し予定変更だ、左大臣様に『あれ』を」
「……宜しいのですか? 『あれ』は確か……」
「この家の名誉とかそういった諸々が関わるからね、仕方ない」
*>────<*
実頼を母屋に通して暫く。美月君が、温かい麦茶と共に台盤を携えてきた。実頼の前に台盤を据え、向きを整えて去って行く。彼女も女房所作が身についてきているなぁ。
「左大臣様、お待たせ致しました。こちらが御所望の『あれ』で御座います」
「ほう、これか。……あまり美しい見た目ではないのぅ」
(そりゃ汁粉だからな)
本当なら間食に食べるつもりであった汁粉(漉餡使用)だが、緊急事態なので供した。餅と白玉を入れたシンプルなもので、当然小豆を砂糖で煮ている。小豆は縄文時代からあったし白玉粉も作れないものでは無いが、ほぼ全てを一から作った美月君には頭が上がらない。実際に日本史に出てくるのは寛永年間だが、知識さえあれば作れる品である。
「小豆を砂糖で煮、その汁の中に餅などを入れております。熱いのでお気をつけてお召し上がり下さい」
「なるほどのぅ。……ハフッ、ホフホフッ…………これはなんとも甘い汁よの。粢のような白い玉も中々良いし、餅もあるから腹持ちも良い。流石は『美食殿』の息子よ」
「なんですかその名前!?」
何なんだ美食殿って。平安の貴族料理と言えば見て呉れ一番味二番、美しいなら不味くとも良しの概念だったはずだ。相当不名誉な称号じゃないか!
「なんじゃ、父親から聞いとらんのか。殿上では、それはそれは有名な食道楽者じゃったぞ? 表向きは味なぞ無視していたが、美味い物には抗えんて。その点、彼奴は先を行っておったものよ。あの時はまだ研究しているだけじゃったが、息子の代で完成したとはのぅ……」
なんてことだ。あれだけ調味料が貯蔵されていたからそうだろうと思ってはいたが、まさか他氏の黙認下だったとは。
「うむ、この汁は実に美味かった。また次も土産を持ってくる故、楽しみに待つが良いよ」
「はあ……」
礼儀的なあれで一応見送りはするが、怒られずにほっとしたような、悪いことでもしているような、複雑な感情だ。
「……あの、左大臣様。私の代で料理を完成させた件、何卒他の方には……」
「分かっとる分かっとる。美食を良く思わん奴もおるし、何より儂が独り占めしたいからのぅ。ほっほっほっ」
なんとか料理史の破砕を回避出来た。どうせバレるにしても、せめてこの人だけで抑えておきたいところである。
実頼を見送ったところで、美月君が尋ねてきた。
「……旦那様、一つ伺っても?」
「ん、何かあった? 講義か何かする?」
「そういうことではなく。……旦那様は、歴史を変えたいと思わないのですか? 暫く前、旦那様は『特殊能力は転移モノの定番』とおっしゃっていました」
「確かにそんなことを言った気はする。チート無双とかしてみたかったんだけどなぁ」
「この時代なら、旦那様の知識で思うさま無双出来るはずです。誰が生きて誰が死に、誰が台頭して誰が没落するか分かっているなら、それを利用して超利己的に生きることも出来たはずです。なぜ、旦那様は頑なに歴史への干渉を拒んでいるのですか?」
「…………そうねぇ。そも、私──いや、僕は象牙の塔の人間だ。僕の本分は学問と研究であって、政治と権謀術数じゃない。そんな人間が政治と陰謀渦巻く宮中に放り込まれたとして、うまく立ち回れるはずもない」
「……」
「まして僕は小心者だ、若い時なら好奇心で動けたろうけど今は違う。タイムスリップモノなら歴史改変は定番だろうけど、そんな度胸は持ち合わせが無い。だから、持てる知識を総動員して歴史の傍観者になろうと足掻いている。怯懦な人間なら、間違いなくこうするだろうさ」
「…………」
「答えに満足していようがいまいが、これが僕の考えだ。さあ、仕事に戻った戻った」
──時代という大きな流れの中で、未来から流れ着いた人間の出来ることは限られているだろう。世に流布するタイムスリップモノは歴史への干渉を是とするが、私はそれを行える主人公を心から尊敬する。私にそれだけの度胸なく、私にそれだけの理由もなくば。
美「で、本音はどうなんですか?」
義「自分の好きな時代なのに、自分から壊すわけないじゃないか。君は推しの世界観を弄るのかい?」
美「何の話ですか」