第三十八話〜西寺焼亡〜
永祚二年二月二日。歴史学者としての探究心と同時代人としての野次馬精神を発揮した私は、美月君を引き連れて羅城門(跡地)の近くに来ていた。朱雀大路からたった1本小路を挟んだ場所に置かれていたのは、京内に2つだけ存在する官寺の片方──だった。
だった、と言うのは他でもない。この寺はついさっきまで火の手が上がっていたのである。
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「いやぁ、がっつり燃えたねぇ」
「燃えましたねぇ。この時代の建物って、よく燃えますね」
「そらそうよ、木造だもの。そういう宿命と言っても過言じゃなかろうし、なんだったら燃えてから再建して完成みたいな感じもする」
「身も蓋もない……」
この地に設置されていた官寺は「西寺」と名付けられており、朱雀大路を挟んで対称の位置にある東寺と対を成していた。造立年についての具体的な記録は無いが、平安京造成に伴って置かれたのは確実である。弘仁十四年に守敏なる僧侶に下賜されたと記録されるが、信憑性はやや低いとされる。なお、同時に東寺は空海に下賜されたとも記録される。
説法や説教を行う場である講堂は天長九年に完成し、続く貞観六年には僧綱所──僧尼を管理するために置かれた役所で、職員は僧官と呼ばれる──が薬師寺から移され、名実ともに都の仏教を纏める存在であった。
延喜六年には醍醐寺開祖である聖宝が西寺別当となり、以降は他寺出身者が別当を務めることになる。
「……で、これ再建するんですか?」
「そりゃまあするでしょ。羅城門と違って必要なものだし」
「でも、確か現代には残ってませんよね?」
「いやまあ無いってわけじゃ無いんだけど……」
今目の前にある西寺は確かに遺構しか残っていないが、現代では公園となったこの地の近くに浄土宗の後継寺院がある。余談だが、東寺の方は一時衰退を経ながらも創建当時と同規模の境内を誇っている。当時の建物こそ無いものの、その伽藍配置や建物の規模は全く同じである。
「なぜ東西でそんな違いが? 役所が置かれていた西寺が残るなら分かりますが、なぜ東寺の方が残ったのですか?」
「単純に京の西側が寂れてたからだね。水捌けの悪さが災いして平安後期には人もほとんどいなかったし。それに重ねて、朝廷からの支援が滞ったという意見もある」
東西寺は何れも複数回火災に遭ったが、鎌倉時代初頭にその明暗が分かれることになる。西寺は天福元年の焼亡以降廃寺になったとされるが、東寺は空海ゆかりの寺として当時流行りの弘法大師信仰が集中したのである。後白河法皇の皇女宣陽門院が広大な荘園を寄進したことからも、東寺の繁栄ぶりが伺えよう。
「なんだ、あと300年は生き残るんですね」
「そんな簡単に官寺が廃れて堪るかって話よ。奈良時代のトラウマを受けて、仏教を今度こそ統制しようと思ったら最後までやるしかないもの」
よって京域内の新寺建立を禁じたは良いが、結局京域の外にバカスカ建てられてしまうからこの時代の信心深さは侮れない。
「かく言う我々も私寺持ってるけどね」
「ええ。……あっ、新しいワイン持ってきましたよ。夕飯の時にお飲みになりますか?」
「いいかい美月君、お寺はワインセラーでも酒蔵でもないんだよ」
美「そういえば、なんで多層塔って三重とか五重ばかりで二重とか四重がないのでしょうか?」
義「敢えて言うなら二重塔は多宝塔が近い気もするけど。正確なところは知らんけどねぇ、多分縁起じゃないかしら」
美「縁起ですか」
義「陰陽の二元論で考えた時、偶数って陰数なのよね。奇数なら七重塔とか九重塔が実際にあったけど、六重や八重は縁起的に宜しくない……とか。あとは単純に技術力かと思うけど、九重塔造れるしなぁ……」




