妹の頼みを聞くにあたって・6
全身が雨に打たれたみたいだ。
濡れた感触と体中を叩く触感。少々の不安と緊張でぬめりも帯びている。
暗闇だけを見据えていた視界は、ゆっくりと、されど徐々に光を捕らえ始める。
しかし、暗い。心が。感情が。
まるで凝縮した悪意がドロドロと内に流れ込んで来る様だ。
理性はまだ許容範囲の端に手をかけ何とか踏むとどまっているものの、心の無理に身体が悲鳴を上げる。壊れる寸前。
終わった舞台にいつまでも居残ってんじゃねぇよ。
こっちは痛みに耐えて頑張った主役様だぞ? 喚いてないで花を持たせろ。すくんでないで素早く退場しろ。
――――邪魔だよ、痛み。
鼻をひくつかせる。
ただそれだけでも行動に支障があるらしく、鈍器で殴られた様な痛みが襲ってくる。何とも不愉快。
だが、それらと引き換えに嗅覚は鋭く働く。
草と土、それに埃の匂いが混じり、それらを覆う程の強烈な餌の匂い。
視界は光を写し込んではいるが、未だ世界はぼやけたままだ。
それでも、匂いを頼りに一歩を踏み出す。
骨が軋む。鈍痛に苛まれる。歯をくいしばった口の中の水分量が圧倒的に足りない気がする。
死ぬほど痛い。
死ぬほど寒い。
死ぬほど暗い。
三段重ねの罰ゲームを受けつつも、数歩あるくと餌の匂いが強くなった。餌が何か言っている様だが、生憎と耳は絶不調だ。
餌の前まで来ると、ゴソゴソ、なんて音はしなくて、ヌチャとした腕の感触を味わいつつ、懐に抱えた温かな物体を取り出し、餌に向けて差し出す。
『モ……ブラ……ま』
先程よりは音が拾えたが、やはり何を言っているのかは分からない。
あぁ、腹減った。
強烈な餌の匂いのせいか意識が飛びそうになる。
しかし、我慢が足りず腑甲斐無い胃袋と心に、お洒落に着飾った脳が待ったをかけてくる。
幸せを乗せた餌の素晴しい香り、それなのに、いま目の前にある餌は餌では無いらしい。
寝違えた頭よりもずっと重い頭を捻り、もう1つの餌の香りに顔を向ける。
餌の香りに悪臭が馴染む。
アレなら良いみたいだ。
歓喜ともつかない、ゴポゴポと濁った音を奏でながら喉を鳴らし、ゆっくりと食卓へと向かう為、踵を返す。
『兄さ……!』
背後から、声をかけられる。
あぁ……居たのかスノーディア。
「ハナエ……テ、オ。セイギョ……ムツカ……イイ」
水分が足りないせいか喉の具合も悪そうだ。喋る度にゴポゴポと胃の中から泡が湧いて、言葉が途切れがちになる。
水も欲しいが水への執着よりも、先に飯だ。
苦しい。こんなにキツい空腹を感じたのは初めてだ。
再び、餌へと向けて動き始める。
遅い。一向に進まない。進んでいる気がしない。そのくせ、身体が上下に揺れる度にやってくる痛みだけは、雷の如く全身を突き抜ける。
御機嫌ナナメな胃袋が、キリキリと身体の内から鞭打って早くしろよと栄養摂取を急かしてくる。
傷付いた内臓からは血反吐と胃液の変わりに、口からヌラリと黒光りした粘土の様な物が飛び出して、ぼちゃぼちゃと地面に零れ落ちる。
ただでさえ遅い歩行速度で遠回りなどする気はさらさらなく、落ちた粘土を踏むつけて進む。
粘土は足の裏だか腰だか線引きの良く分からない下半身に貼り付いて、そのまま混ざって、混ざった分だけ身体を肥え太らせた。吐き出した分だけ痩せたので、結局体積は変わってなさそうだ。
『何と無様な』
侮蔑を含んだティアマットの声。
それと同時に身体を襲った衝撃と、バラバラになる感覚。四肢の弾けた痛みはない。いや、感覚が麻痺して判ってないだけかもしれない。なんせこの身体になってからずっと激痛に身を焦がしている。
地べたに転がった頭が自身の身体へと視線を向ける。
まだ少しボヤけて見える視界には、もはや五体満足などという体は成していない醜悪な黒い肉片が映っていた。
骨が無いのか縦横無尽。血も無いのか泰然自若。されど見た目は満身創痍。
飛び散った肉片が寄り集ろうと地べたを這う。汚い音を立てながら。
『理性だけならばいざ知らず、器すらも奪われし我が王よ。もはや貴様を王などとは呼べん。せめてもの手向けだ。一思いに殺して差し上げる』
こちらがモタモタと肉片から肉体へと戻ろうと這いずる間、そう告げたティアマットの身体が大きく膨れ上がっていくのを濁った眼の端が捉えた。
そうして現れた巨大な黒色の竜。
空の殺戮者・ティアマット。
その咆哮は空を割り、その牙は山を砕いたという。
そんな伝説の怪物が醜悪な黒を討ち滅ぼさんと力を脈動させ始める。
手を抜いていてもこっちはバラバラだ。怪物の本気をまともに受けたならば塵すら残らないかもしれない。流石にそれは死んでしまいそうだ。
とは言え、未だ再生途中のこの身体に身を守るすべなど無いに等しい。仮にバラバラになる前であったとしても、この鈍重な肉体に何が出来るとも思えないが……。
まぁ、やれる事はやった。
長年探し続けた物をようやく見付けた。
ティアマットという驚異が消えた訳でもないが、あとはスノーディアが上手くやるだろう。スノーディアの事、666番目の事、レイアとの約束を果たせただけで充分に満足――――
『喜べよ、兄さん。あの頑張りは無駄じゃなかったみたいだよ?』
スノーディアの声が背後から届いた。
まだ居たのか。
さっさと逃げ出せば良いものを……。
『グッ……。何だ!? 力が入らん。抑え込まれていく!?』
『嬉しいだろ?ティアマット。――――特別製だぜ?』
そんなやり取りを交わす両者の表情は対極的だ。
薄く笑った悪者顔で微笑するスノーディアと、忌ま忌ましそうに睨むティアマット。
ゴポッと喉が鳴った。
終わらない。どうやら終わらないらしい。俺も、物語も、まだ続く様だ。
『流石はスノーディアちゃん。下拵えは完璧だぜ? 料理スキルで女子力もアップだ。ほら、行きなよ兄さん。美味しい所を全部持っていってくれたまえ。―――――文字通りね』
スノーディアの言葉に背中を押される様に、ティアマットを目指す。相も変わらず鈍間に、されど確実に距離を縮めていく。
『スノーディアぁ……!』
憎き仇の名を呼ぶ様に苦しそうなティアマットが唸る。
苦しいのは首元のチョーカーが締まっているからだろうか? 目に見える程に食い込んでいる。オマケに淡く光っている。聖霊力と同じ輝きの様に見える。
おそらく、聖霊力を付与されたチョーカーがティアマットを弱体化させているのだろう。
哀れ、憐れ、ティアマットが苦しそうにもがいている。
一体誰があんな酷い事を……。
俺ではない。俺は触れただけだ。
あんな酷い事を俺はしてない。
――――するのはこれからだ……。
ティアマットの身体に触れる。本日二度目のスキンシップ。動機は不純。されど、エロティックな展開も無いし、これっぽっちだって嬉しくない。
人型と竜型、二種コンプリート。やっぱり嬉しくない。
触れた部分から、黒い竜を包み込む様に醜悪な肉が拡がっていく。
その様は、肉の上に押し寄せる波の様。
ただし、打ち寄せるばかりで引く事のない波。
波は俺の手の先を中心に波紋の様に拡がり、ティアマットの全てを包み込む。ティアマットだったものを塗り潰していく。
何か言っていた様だが、ティアマットの最後の遠吠えは誰の耳にも届かなかった。
ティアマットを綺麗に平らげ、グネグネと波打つ塊が徐々に小さくなり始めた頃、一時の満腹感と急激な眠気が同時に押し寄せてきた。
抗い難い眠気。
そうして、幸せの味を味わいながら、俺は意識を手放した。