悪魔のお供をするにあたって・6
大きな大きな城を隅から隅まで歩き回り、最後に辿り着いたのは城の出入り口であった。
ここはこの城で一番怖い場所である事を知っている。
なので、行きたくないと云う意思表示代りにスノーディアの手を後ろに力いっぱい引っ張った。声を出すとヤツらに気付かれそうだから……。
『行きたくないのかい? 僕も最近、嫌な思い出を作ったばかりだから行きたくはないさ。あろう事か自分の主君がニオイ付きの液体にまみれてひっくり返っているんだからね。僕ともあろう者が驚愕の光景に思わず我が目を疑った位だぜ?』
スノーディアが何の事を言っているのかは分からないけれど、そんな大きな声を出したら気付かれてしまう、と内心ドキドキして不安でしょうがなかった。
「違う。大きいのがいる」出来るだけ声を小さくして告げる。
『大きいの? 君、大きいのもしたのかい? って訳ではないか。ケルベロスの事を言ってるんだね。確かに大きいねアレは。 ――――ふぅ、僕とした事がちょっとビビったぜ? 新たなトラウマが生まれるのかと思ったよ』
そんな意味の分からない事を言いながら、スノーディアがズルズルと僕を引き摺って進む。
このままでは二人共食べられる。
そんな事を思う僕は必死で足を踏ん張った。涙目で。
そうして、踏ん張ったかいがあったのかスノーディアの歩みが止まる。
『そんなに嫌かい?』
スノーディアの問い掛けに、折れそうな位うんうんと首を振った。
『しょうがないなぁ。 ――――サービスだぜ?』
言ってスノーディアが僕を抱き上げた。
そのまま引き返すかと思いきや、先に進み始めるスノーディア。
違う、そうじゃない。話が違う。
『犬が怖いなら目を瞑れば良いのさ』
先へと進み始めた事に軽く混乱してしまい、行く事自体を拒否していた筈であったにも関わらず、愉快そうにそう言われた途端にそんな思いも何処へやら。反射的に、堅く堅く、目を瞑った。
強く強く、スノーディアに抱きついて。
『やれやれ、母性ってヤツは危険だぜ』
そんな呟きを口にしながらもスノーディアは脚を止める事なく進んでいるようだ。
目を瞑っているので良く分からないけど。
しばらくはスノーディアの歩く音だけが届いた。
その次に、届いたのは『着いたよ。甘えん坊のモンブラン様』というスノーディアの声。
言われて目を開けると、視界いっぱいの青と白が目に飛び込んで来た。
青空はそのまま、だけど雲は下という不思議な光景に目を奪われる。
この間も見たけれど、あの時は不安でいっぱいだったので景色を楽しむ余裕などはなかった。
加えて、風に乗って鼻をくすぐるスノーディアのニオイが何処と無く懐かしくて、しばらく瞬きもそこそこに、広がる空を眺め続けた。
「綺麗だね」僕がそう言うと、スノーディアが少しだけ笑った。
『ここはね。雲の下は咎人のせいで酷いものさ。今は特にね』
「そうなの?」
『そうなのさ』
言ったスノーディアが、突然僕を持ったまま腕を伸ばした。
そして、
『確かめておいでよ』
手を離した。
離された瞬間は、全てかスローモーションに見えた。
ゆっくり落ちていく体。
そんな僕をいつもと変わらない表情で眺めるスノーディア。
スノーディアの遠く、後ろ、あの大きな怪物の姿も見えた。
景色は変わり、体の周りに白いモヤがかかり始め、あっと言う間に視界いっぱいに拡がる。雲だ。
そのまま雲に包まれながら落ちる。
雲の中にいるせいか落ちている実感が少し薄くなった。
やがて雲を抜ける。
雨が降っていた。そのせいか少し薄暗い。
どの位落ちたのか分からない。
風が強くて目もロクに空けられないし、呼吸もしづらい。
しかし、尚も落ち続ける。
そうやって雨とおいかけっこでもする様に落ちていくと、雨粒の中、眼下に霞んだ何かが移り始めた。
霞んだソレは徐々に大きく色合いも増していく。近付いているのだろう。地面に。死に。きっと潰れたアプーみたいになるんだろうな……。
地面がハッキリと見え始めた所で、唐突に落下の速度が緩やかになった。
なったと思ったら止まった。
頭を下にして宙ぶらりん。
目だけ動かして、何かが掴む感触のある脚へと目をやると、髪を振り乱し何とも言えない凄い顔をしたスノーディアがいた。
僕を落とした帳本人ではあるのだけれど、そんな事も忘れてスノーディアにしがみついた。逆さまで。丁度僕の頭の位置にスノーディアのお腹があった。
『雨に濡れてるとは言え、――――この体勢でそれはキツイぜモンブラン様?』
わんわんと響く自分の泣き声でハッキリと聞こえなかったけれど、多分、スノーディアがそんな事を呟いた。
☆
『許しておくれよ。まさか空の飛び方も忘れているとは思ってもみなかったよ』
スノーディアが僕を抱き締めながら城へと向けて飛ぶ最中、そう言って僕の頭を撫でた。もう逆さまではない。
ゆっくりと飛んでいるが、先程の落下のせいで目を開けるのが怖くて仕方無かった。
だから、確かめておいでよ、なんてスノーディアの言葉を実行するのは到底無理。
そんな暇があるならスノーディアにしがみつく事に力を注いでいたい。もう落とされたくない。
前は平気だった。今より前。お母さんやみんながいた頃。
普通に、当たり前に空が飛べたから。
だから、空が飛べない事がこんなにも怖い事とは思ってなかった。
『つかぬことを聞くが、飛べないモンブラン様』
空が飛べた頃に思いを馳せていると、ゆっくりとした口調でスノーディアが言う。
『禍は扱えるのかい?』
「……禍って何?」
目を瞑り、スノーディアの胸元に顔を埋めたまま尋ねる。
『……駄目そうだな』
返って来たのはそんな言葉だった。
そんなやり取りをしながら、空飛ぶ城へと戻ってきた。着いたと同時に降ろされる。ちょっとだけ ―――いや、とっても名残惜しかった。
地面に降ろされた後、下を見る。雲を見る。
短いけれど、長く長く感じた空の旅。二度と行きたくないと思った。
『ふぅ、やれやれ。飛んでとんだ大冒険だったぜ』
そう言ってスノーディアが笑う。
笑えないけど、大冒険には違いないと思った。
『けど、収穫もあったね。正直、呼吸をするにはどうしたら良いか、なんてレベルの難題過ぎてどうしたものか見当もつかないけれど』
「ごめんなさい」
何だか責められている様な気がして、スノーディアに愛想を尽かされる気がして、謝った。
『別にモンブラン様のせいではないさ。気にする必要もない。けどまぁ、謙虚な気持ちは大事な事だね。我が主君に必要かどうかはさておき……』
そこで何かを思ったのか、或いは気付いたのか。スノーディアは口元に手をあてるいつもの格好で、何かを考え込み始めた。
しばらく、静寂が流れる。
スノーディアの顔を下から眺めながら待った。
今ここは晴れている。雲の上なので当然だけども。
しかし、雲の上だからこそ寒い。
落っこちた際、雲の下で雨に濡れたせいか余計に寒い。
風がビュッと通る度に、ブルリと震えた。
『おっと、風邪を引くね。灰人が風邪を引くなんて聞いた事もないが、君は引きそうだね』
そう言ってスノーディアがまた僕を抱き上げてくれた。
触れるスノーディアが温かくって、少し寒くなくなった。
たまには寒いのも悪くないと思った。
それから、僕を胸に抱いたままスノーディアが城へと歩き始める。
そして、僕は大冒険のせいか、はたまた寒さとスノーディアの温かさのせいか、忘れていた。
怪物の存在を。
最初は何だか分からかった。何かがフンフンと鳴る音とハーハーと鳴る音。
流れる風とは違う少し変なニオイのする風が僕の頬を撫でた。
スノーディアだとは思わなかった。スノーディアはこんなに臭くない。花畑にいる様なとても良いニオイだから。
だから、僕は正体を探るべく、スノーディアの肩に乗せていた頭を後ろに向けた。
気付いた時には怪物の鼻が目の前にあった。
全身が石みたいに固まった。
怪物は今まで二体だと思っていたけど、それはどうやら間違いで怪物は体が一つしかなかった。代りに頭は三つあった。
『やぁ、ケルベロス。門番ご苦労だね』
スノーディアがそんな事を言った気がするがよく覚えていない。
僕はまたまた気を失ったらしいから……。