【Prelude de noir】 2
私には、何かが足りない。
天使に生まれた誰もが持っているはずの、何かが決定的に足りないのだ。
だから、私には私が分からない。
何が好き、何がしたい、それが嫌い、それがしたくない。
そんな思いが、何一つ存在しない。
私が私たるための何かが、決定的に欠けている。
だから私は『私』を演じた。
誰もが求める、完璧な天使。
優しくて穏やかで、全ての問いに正答を返す完全無欠の天使とやらを。
罪禍の塔のすぐそばには、大きな方舟が一隻浮いている。それに魂を乗せて悪魔のもとへ運ぶのだ。
そのあたりを目指して私が下りていくと、一人の天使が羽ペンと長いリストをもって何かをしていた。私の気配に気づいたのか顔を上げ、薄紫の瞳が私をとらえる。
やっぱり、違う。
その天使は私に微笑み、一礼した。私も笑みを浮かべて礼を返す。
「お待ちしていました。私はこの塔と魂の管理人です」
「はじめまして。〈案内人〉に任命されました」
互いに握手を交わし、管理人は私を方舟の近くへと誘った。
「〈案内人〉のお仕事はお聞きしましたか」
「大まかには、一応」
〈案内人〉といっても、この方舟をひいて人間界にある引き渡し場所で悪魔に魂を方舟ごと引き渡すだけ。
方舟は悪魔が魂を地獄に降ろし終えれば戻ってくるのだそうだ。
引き渡しは毎晩零時。基本的に夜は仕事のない天使の中で、夜にしか仕事をしない珍しい役職でもある。
「それだけ知っておいてもらえれば、あとは大体大丈夫でしょう」
注意するべきは、魂の脱走。とはいっても、これは方舟に結界が張り巡らされているから問題はない。
もう一点は、魂に騙されないこと。同情して少しでも結界を解いたりすれば、魂はたちまち解放されてしまうという。そんなことになれば、失態どころでは済まされない。
「それと、もう一点」
「ほかに、何か?」
魂を逃がしてしまうことより、もっと重要。そんな言い方の管理人に私は首をかしげる。
そんな私に、管理人は厳しい声で言った。
「唯一悪魔に接触するあなただからこそ、言っておきます」
――悪魔と天使が結ばれることは、決してありえません――
「……どういう意味なんだろう」
零時、三十分前。
方舟の準備を待っていた私は、昼間の管理人の言葉を思い返していた。
結ばれるも何も、天使はそもそも恋なんてしない。
天使は、輪廻の中から選ばれた魂なのだから。
魂は全て、輪廻という運命の中を回り続けている。
人間界へと生まれ落ち、人として生き、そして死に。
ほとんどの人は天界の裁きを通過して、再び転生する。
その流れの中から無作為に選ばれた魂が天使として、この天界に生まれるのだ。
恋とは、輪廻の中で〝出会うべき者〟が惹かれ合う現象の事で、その輪廻から外れた天使にその現象が起きるということはない。
ならば、あの言葉の意味は何なのか?
「準備が整いました」
「……えぇ、今行くわ」
「それじゃあ、行ってきます」
「はい、お気をつけて」
方舟につながるロープを持ち、私は翼を広げる。
夜空を飛ぶのは、始めてだ。
眼下に広がる人々の明かりを見下ろし、私は天界の外へはばたいた。
花の香りを纏う、温かな風が私の頬を撫でて通り過ぎていく。
夜の空は月と星の明かりに照らされて、思ったよりも明るかった。
『天使様! どうかご慈悲を!』
『地獄へは、地獄へだけは……!』
風の音に交じって聞こえる、懺悔の声には聞こえないフリ。
もう決まってしまったことなんだから、しょうがないでしょう。
「あれ、かな……」
人々の明かりがともっている大陸から離れた、小さな小さな島。
月光に照らされ、かすかに見えた結界の光に私はそこが目的地だと確信する。
人間に見つけられないよう特別な結界が張られた、引き渡し場所である島だ。
海岸と木々にほとんどの場所を埋め尽くされた島の中央辺り。小さな山のようになっている場所の頂上に、人影が見えた。
月光に照らされた、艶やかな黒髪と。
夜風にはためく、黒い服。
その背にたたまれているのは、黒い翼。
こちらを見上げた、その瞳は。
私と同じ、夜空の黒。
私を見た彼の目が、大きく見開かれ。
彼の瞳に映る私が、同じような表情をしているのに気付く。
やっと、会えた。
やっと、見つけた。
私の、大切な人。
私に、欠けていモノ。
理由など、なかった。
理由を求めるのも、馬鹿らしかった。
それほどまでに私たちは、
必然的に、
運命的に、
絶対的な恋に、落ちていた。




