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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

花嫁の形代女王

作者: 竪川杼緯

 この地では、女児が産まれると、母親はきたるべき日に備えてヴェールを編み始める。

 家紋を編みこみ、娘の名前を意味する模様を編みこみながら、母親は娘の幸せを願う。

 そうやって編まれていった花嫁のヴェールは、やがて娘が嫁ぐ日に、その頭上を飾るのだ。


   ◇ ◇ ◇


 がさがさと草木に騒々しい音をたてさせていた存在が、大きな泉のすぐそばにある崖の上に姿を現した。

 若い娘だ。

 道なき道を進んできたことを証明するように、彼女は髪やドレスに幾つもの枝葉をつけていた。

形代かたしろの女王様……」

 肩で息をし、青ざめた顔にふさわしい疲れきった表情を浮かべていた彼女は、目的の存在を目にするや、安心したように相好を崩した。

 娘はふらふらになりながらも最後まで踏破した。そして辿り着いた瞬間、安堵のあまりその場にへたり込む。

 そうまでして娘が訪れた先には、一体の石像があった。

 等身大と思われる、若い娘の像だ。

 けれど『女王』という呼び名に反して、その像はドレスを纏っておらず、それどころか男装していた。もっとも、よく似合ってはいたが。

 その『女王』は女性の割には長身で、服装の関係もあって、手足も健康的にすらりとのびていることが見て取れる。

 惜しむべき唯一は、顔だった。わずかに目を伏せている以外は限りなく無表情に近い顔は、造作が整っている分、冷たい印象が強い。だから像全体のイメージも冷たく感じるかといえば、実はそうでもない。

 理由は『女王』の両腕にある。

 気負うことなく、二本の足で立っている『女王』は、両腕をゆったりと広げているのだ。

 開かれた『女王』の胸元に飛び込めば、やさしく抱きしめてくれるだろうと、疑いなく信じられるその二本のかいな

 そんな『女王』の頭に、ようやく呼吸を整えることができた娘は、大事に抱えていた花嫁のヴェールをうやうやしく掛けた。

 娘自身は、顔も含めて体中傷だらけで、身に纏っているドレスも薄汚れている上にあちこち破れている。にもかかわらず、そのヴェールだけは綺麗な白さとすばらしい模様をわずかなりとも欠かすことなく保っていた。娘にとって、そのヴェールがどれほど大切なものなのか。それだけで十分理解できる。

 娘は跪くと、『女王』を見上げた。そうすると不思議なことに『女王』の伏せた瞳と視線が絡み合った。

 娘は祈りの形に手を組む。彼女にとってすがることのできる存在は、もう『女王』しかいなかった。

「形代の女王様。私は、どうしてもあの男に嫁ぎたくはないのです。それに、私が嫁いでも嫁がなくても、あの男は私の家族にひどい仕打ちをするでしょう。私には女王様におすがりするしか方法がないのです。だからお願いです、女王様。私の命を代償に、花嫁の形代を――私の家族の未来を救ってください!」

 もう一度、お願いしますと頭を下げた彼女は、手の形と心の中で祈りを続けながらゆっくりと立ち上がり、崖っぷちに歩み寄る。そうして躊躇することなく崖下がいかへと身をとうじた。


 崖の下にある泉が大きな水音を立て、やがて静寂が戻ったころ。形代の女王の像に異変が起きた。

 最初は錯覚と思えるほどの微細なブレを見せていた像は、やがてはっきりと輪郭をにじませた。掛けられたヴェールがふわりとなびき、そして、像が二体に分かれた。

 否。分かれたのではない。像の中から抜け出して来たかのような現れ方をした女性は生身だった。そして『女王』と瓜二つだった。この女性がモデルだと言えば、疑うものは皆無だろう。事実、『女王』の像は、この女性を模したものだった。

 像に掛けられていたヴェールをその頭上に受け継いだ女性は、ヴェールの下で、伏せていた目をゆっくりと開いていった。

 おもむろに身をひるがえした女性は、娘が身を投げた場所へと足を運ぶ。

 崖っぷちに立った女性は無表情に崖下がけしたを見下ろし、あらわになった灰色の瞳に泉を映した。

「あなたの願いは、このレーヌ・ドゥラサンドルが引き受けた」

 発する声すら平坦で、一見何の感慨も覚えていないようにみえる。

 けれども、そうではないというように、レーヌの肩にとまっていた小鳥が、彼女をなぐさめるように可愛らしく歌った。


   ◇ ◇ ◇


 テリトワール・ドゥ・ラ・フルール。『花の領域』と呼ばれるこの地は、名前のとおりに花の勢力が強く、いたるところが花に埋め尽くされている。

 そのため、生花せいかそのものもさることながら、多種多様な加工品――特に香水や化粧品といった女性向けの商品は人気が高く、近隣の領地で飛ぶように売れている。中には数年先まで予約で埋まってしまって、一般の流通に乗せられない品さえあるくらいだった。

 そんなテリトワール・ドゥ・ラ・フルールでは、本日盛大な結婚式が執り行われていた。なにしろ領主バティスト・ドゥ・サドと、この領地一番の資産家であるルブラン家の長女――アルベルティーヌとの結婚だ。領民総出で盛大にやらざるを得ない。

 もっとも、盛大だからといって、明るく楽しく祝福に溢れたものかと問われれば、ほとんどの者が違うと答えるだろう。この結婚式はそういった類のものだった。

 ありがちな政略結婚ならば、双方にそれなりの利益があるものだが、今回の場合は領主自身にしかない。結婚という名の形式のもとにおこなわれる一種の略奪行為だということを、口にはしなくとも誰もが知っていた。

 領主バティスト・ドゥ・サドは、今年五十路を迎えた、でっぷりとした体形の男だ。しかも離婚歴が十二回あり、アルベルティーヌとの結婚が十三回目だったりする。

 アルベルティーヌが領主に目をつけられたのは、早春の祭りで歌声を披露したときだ。

 十六歳になり、ようやくおおやけのステージに立ってソロで歌うことが許される立場になれたことを、アルベルティーヌが心から喜べたのは、歌い終わってステージから降りたところまでだった。

 家名と同じ『ルブラン』をブランド名に掲げて売り出した化粧品シリーズが爆発的な人気を得、ルブラン家は領主を務めるドゥ・サド家を凌ぐほどの資産を得た。それを快く思っていなかったバティストにとって、アルベルティーヌはルブラン家の資産を穏便に取り込むための絶好の窓口足りえたのだ。

 もしルブラン家がこの結婚を受け入れていなければ、バティストは罪を捏造していただろう。そうして一家は投獄され、家財一切は没収後バティストの個人資産にされていたに違いない。領主バティストとはそういう男だ。

 そんな男に嫁ぐことになった花嫁に、形なりとも祝福を贈らなくてはならない領民の心境は複雑だった。

 とはいえ、それも当事者である花嫁のものと比べれば、ずいぶんと軽かっただろう。

 お披露目のための花車に座す花嫁は、終始俯いたままで動こうとはしない。

 本来であれば、実際の表情はヴェールで見えなくとも、幸せいっぱいな笑みを浮かべているであろうと安易に想像できるほどに、嬉しそうに手を振りながら、降りかけられる祝福の花をその身に受けているものである。

 事情を知らぬ幼子たちも、その異様な雰囲気を感じ取ってか、幾分戸惑いながら、それでも母親に促されるままに、花嫁に向かって花をかけていた。

 そんな花嫁を乗せた花車は、教会へは向かわずにドゥ・サド家へと直行した。バティストにとって、用がなくなればこれまでどおりに離婚して放り出すだけの花嫁と、形だけの誓いを交わすなど、無意味でしかなかったからだ。

 花車のパレードをおこなうことで、領民への通知は果たした。それ以上の手間をバティストは望まなかった。


 ドゥ・サド家へと到着したアルベルティーヌは、ウエディングドレスを身に纏い、ヴェールすら頭に被ったままの状態で、初夜を迎えるための寝室へと通された。

 彼女を案内した召使が退出すると、アルベルティーヌは小さなため息をひとつこぼし、窓辺に向かってゆっくりと歩き始めた。

 高台に建てられたドゥ・サド家の屋敷。

 バルコニーに出ればもっと見晴らしがいいだろうと、窓に手をかけたところで、部屋の扉が外から開かれた。

「戻ったぞ、アルベルティーヌ。私がお前の夫のバティストだ。さあ、歌え、アルベルティーヌ! お前の歌声で夫である私の疲れを癒すのだ!」

 部屋に入ってくるなり、バティストは大声でそう命令した。

 自身も花婿と呼ばれるこの結婚の当事者であるにもかかわらず、パレードを放棄して、己の仕事に赴いたバティスト。そして初顔合わせとなった今このとき、花嫁に対して詫びも労いもまったくなく、ただ己の要求だけを口にすると、独りソファーに腰掛けた。名乗っただけましだと言うものもいるかもしれない。けれど花嫁に対し、これはあまりにも非情な仕打ちだろう。

 無言でたたずむアルベルティーヌに、バティストはさらに声高に命じた。

「どうした、アルベルティーヌ。夫である私の命令が聞けぬのか? 逆らえばお前だけでなく、お前の家族も痛い目を見るのだぞ!」

 アルベルティーヌはおもむろに窓を開け放つと、その行動をいぶかるバティストへと向き直った。

 ようやく己の方を向いたアルベルティーヌに気をよくしたバティストは、ワインを手にして口を潤す。

「さあ、歌うのだ、アルベルティーヌ!」

 ワイングラスを高々と掲げ、バティストが命ずる。だが。

「歌えぬな」

 抑揚のない静かな声が、命令を拒否する言葉を返した。

「……なんだと? もう一度言ってみなさい」

 聞き間違いと思ったのか。はたまた身の程を知らぬ小娘を諭すための方便なのか。バティストは一瞬だけ片眉を持ち上げると、もう一度と促した。

「歌えぬ、と言ったのだ」

 もちろん、返された言葉は同じだった。

 バティストは勢いよく立ち上がると、持っていたワイングラスをアルベルティーヌに向かって投げつけた。当然悲鳴を上げるものと思っていたバティストの予想に反し、アルベルティーヌは危なげなくけ、ワイングラスはバルコニーの手すりにあたって砕け散った。

「きさまッ!」

 激怒のあまり、顔を紅潮させて拳を震わせるバティストを前にして、やがてアルベルティーヌはくつくつとのどを鳴らし始めた。

「まだ気づかないのか。おろかな男だな」

「どういうことだ!」

「アルベルティーヌはお前の花嫁なのだろう? その花嫁が本物かどうかすらわからないのだから、救いようがない」

 もっとも、お前のようなものを救う義理は、私にははなからないけれど。

 そう言って、女が一歩、バティストに近づく。

 いまだに左手に持たれていたブーケから、女は白い花を一本抜き取った。

 そして、また一歩。女はゆっくりとバティストに歩み寄る。

「きさま、何者だ!」

 バティストの誰何すいかなど何処どこ吹く風といった感じで、女は右手に持った白い花を口元まで持ち上げ、ヴェール越しにうやうやしく口付けた。

 そのしぐさが記憶を揺さぶったのか。バティストが驚愕の表情を浮かべて女を見返した。

「お前は、まさか……、死神女王!?」

 自身の叫び声で我に返ったバティストは、即座に身を翻して逃げようとした。

 けれどそれより早く女が動いた。

 バティストの眉間に、女が手にしていた白い花の茎が突き刺さる。

 そのまま仰向けに倒れたバティストの姿を、伏せた灰色の瞳で捉えた女は、抑揚に欠けた声でのろいともとれる言葉をつむいだ。

「もうじき、地獄からお前の迎えがやってくる。お前が娘たちに与えた数々の苦しみ。その何十倍もの苦痛を、そこで存分に味わうがいい」

 すでにバティストの人としての生は終えている。

 けれど、バティストの魂を見ることができる女の瞳には、楔の役目を果たす白い花を突き刺され、逃れることができずにもがく様子が鮮明に映されていた。

 そのうち、バティストは白い花を抜こうと悪あがきまで始めた。

 女は薄く笑った。

「お前にはその花は抜けぬ。その花は楔。その花は地獄の使者への目印。――見るがいい。お前の命を吸って、色が変わっていっているだろう。その花が真紅に染まりきったとき、地獄の門が開く」

 ほら、こんな風に。

 女の言葉に導かれたように、何もない空間に突如一本の黒い線が縦に走った。

 やがて黒い線は徐々に太くなり、姿の見えない門が開かれたことを知る。

 門の向こうに広がるのは闇の世界。そこに大柄な二体の鬼が立っていた。

 二体の鬼と女は、軽く会釈しあう。その後は、鬼がバティストの魂を捕まえて、早々に地獄へと戻っていった。


 音もなく、姿のない地獄の門が閉じる。すると女がかずいていたヴェールが、突然青白い炎に包まれて燃え始めた。

 そんな異様な現象をその身で体験していながら、けれどまったく熱さを感じる様子も驚く様子もなく、女はゆったりとした足取りでバルコニーへと出た。

 やがて燃え尽きたヴェールは灰となり、吹く風に乗って空へと舞い上がった。

 女には炎の影響はまったくなかった。まさにヴェールのみが燃えたようだ。

「このヴェールはアルベルティーヌのもの。いつまでも私の頭上を飾らせたり、ましてやこの家に欠片なりとも渡すわけにはいかないからね」

 すでに風の一部となりかけている灰になったヴェールを見つめながら、女がつぶやいた。

 そんな女の肩に、一羽の小鳥がとまる。

「レーヌ、お疲れ様」

 灰色の瞳に、さらりとまっすぐに流れる同色の髪。すらりと伸びた手足を持つ、長身の女性。バティストに死神女王と呼ばれたその女の名は、レーヌ・ドゥラサンドル。アルベルティーヌが形代の女王と呼んだ、あの女王像に瓜二つの外見を持つ女性だ。

 そのレーヌに労いの言葉をかけたのは、彼女の肩にとまっている小鳥だった。

 小鳥の名を、プティ・プリュムという。

 プティとレーヌの付き合いは長い。だからレーヌが今何を見て何を思っているのかが、プティにはなんとなくわかる。

「気に病んじゃだめだよ。レーヌはただの神の使い――使者でしかないんだからさ」

 レーヌは微苦笑した。

「そうだな。だが、あの男が言ったように私が死神だということも、また事実なんだ」

「そんなことないってば!」

 プティの反論に、レーヌは首を小さく左右に振った。

「プティ、私にだってわかってはいるんだ。私は神の使いでしかないということは。だが、こうして役目を務めていくうちに、ふと考えてしまうようになったんだ」

 そういって、レーヌは自身の掌を見つめた。

「今回のように、実際に男の息の根を止めて地獄へと送り出すのは、私のこの手だ。そして、娘たちが己の命と引き換えにした願いを告げるのは形代の女王像――つまり、神ではなく私に願っているわけだ」

 だったら……。

 レーヌは軽く拳を握って、瞑目する。

「私こそが、男と娘、そのどちらにとっても死神だったのだといえるのではないだろうか、と」

 この調子では、今は何を言っても無駄だろうと判断したプティは、ため息をひとつ落とすと、レーヌの肩から飛び立った。

 その直後、新たな存在が、レーヌの背後に現れた。

 驚いて、反射的に振り返ったレーヌの視線の先には、全身黒ずくめの男が一人立っていた。

 男が言うには、地獄の門が開かれていたので、興味が沸いて訪ねてみたということだった。そうしてレーヌの発言を耳にするに至ったのだという。

 男はレーヌに向かって微笑した。

「君は死神などではないよ」

 そして、こういう表現も変だけど、と言って自分の胸に手を当てた。

「私が『本物の死神』なんだ。その私が断言するのだから、お嬢さんは死神ではない。だから安心しなさい」

 レーヌは自称死神をほうけたように見つめた。

「おや、言葉だけでは信じられない?」

 だったらと、男は何の気負いもなく左腕を持ち上げた。肩の高さにある掌の上に、徐々に闇が集まり渦を巻き始める。やがて闇が深く濃くったところで、男は何かを掴むような仕草をした。すると凝った闇は、息を呑むレーヌの目の前で、一振りの大鎌へと姿を変えた。

「これで私が真実死神なのだということをわかってもらえただろう?」

 男は口元だけでニィと笑った。

 その笑みに、レーヌは肌が粟立つのを感じた。そして背を伝った冷や汗によって思考力を取り戻したレーヌは、慌てて膝をついた。

「失礼しました。わたくしは女神『フォンテーヌ』の使いを仰せつかっております、レーヌ・ドゥラサンドルと申します。死神様への此度の振る舞い、叶いますればご寛恕願いたく存じます」

 跪拝きはいするレーヌに、死神は苦笑してから空いている右手を差し出した。

「ほら、そんなことをしなくとも構わないから、立ちなさい。私は怒ってもいないし、不快にもなっていないのだから、気にする必要はない」

 普段どおりにしていればいいと言われ、レーヌは素直に差し出された手を借りて立ち上がった。それがかえって死神に好印象を与えたようだ。男は穏やかな微笑を浮かべた。

 それから口元に手をやる。

「『灰の女王レーヌ・ドゥ・ラ・サンドル』か――。君のことは、私たちの間では『復活の女王』と呼ばれていてね。一度会ってみたいと思っていたんだ」

 何を噂されているのだろう。

 そう思った直後、レーヌは青ざめた。

「どうした?」

 レーヌはその問いにどう答えていいかわからず、苦し紛れに闇の大鎌を一瞥した。

 死神と出会ったものは皆、大鎌によってその命を狩られてしまう。それが通説だ。だったら、レーヌもこの場で狩られてしまうのだろうか。だが、自分が殺されるかどうかなど、聞けるわけがない。否定されればいいが、肯定されようものなら、どう対処すればいいのだろう。

 レーヌのそんな葛藤を感じ取ったらしく、死神はくすりと笑った。

「使い人である君には、神から命じられた務めがあるだろう。それを完遂するまでは、私が勝手に狩るわけにはいかないから、とりあえずは安心したまえ」

 それから、と言って、死神はレーヌに対して紳士の作法に則った礼をした。

「私の名は、ノワール・エテルネル。次の機会を得ることがあれば、ぜひ我が名をその唇に」

 ノワールはレーヌの手をとって甲に口付けると、唐突に姿を消した。

 レーヌは疲れたように大きく息を吐き出しながら肩を落とした。最後まで突飛な言動で彼女を振り回し、挙句の果てはこんな退場の仕方。

 再度ため息をこぼしたところで、レーヌはバルコニーの端へと移動した。それからおもむろにドレスの裾をたくし上げると、まとめてから片手で持ち、もう片方の手で手摺を掴む。その手を軸にして、レーヌはバルコニーから飛び降りた。

 難なく着地したレーヌは、ドレスの裾を元に戻して身なりを整えると、あたりを見渡してプティの姿を探した。

 瞬間、空気が凍った。

 レーヌの全身が先ほどとは比べものにならないくらいにカタカタと震え、全ての毛穴が開いて汗が吹き出す。

 後方で何が起きたのか。見えなくてもレーヌにはわかった。

 ノワールがあの闇の大鎌を振るったのだ。

 だが、レーヌが振り返らないのは――振り返れないのは、それが理由ではない。

 動けないのだ。

 今はまだ殺さないと言われた。だからさしあたって命の危険はないはず。

 けれど、レーヌは動けなかった。

 本能がしきりに警鐘を鳴らし、彼女の体に鎖を幾重も巻きつけたかのように固定して、動きを封じているのだ。

 さすがに神の名を冠しているだけのことはある、とレーヌは思う。

 死の女王、死神女王などといって人間に恐れられているとはいえ、彼女はもちろん神ではない。あの呼び名も、『レーヌ』という彼女の名が『女王』という意味を持つが故の皮肉であって、実際は女王ですらないのだ。

 だから本物の神を前にすれば、違いは一目瞭然。力の差はこのように歴然としている。

 時間にしてほんの一瞬。あの大鎌を振るにはそれだけでじゅうぶん。

 神である彼は、たったそれだけ力を放つだけで、狩りの対象外であるレーヌさえも恐怖という無形の存在で拘束することができるのだ。

(格の違いとはこういうことか)

 ようやく空間が平常の状態に戻り、それにあわせて肩の力を抜いたレーヌは、何の前触れもなく背後から現れた手が両肩に置かれ、驚きのあまり飛び上がった。

「……っ!」

「動かないで」

 反射的に振り返りかけたレーヌの肩を、その手が押さえつける。

 声と手の持ち主は、死神のノワール・エテルネルだった。

 先ほどのような恐怖は、もう彼からは感じられない。けれどなぜか逆らうことはできず、またその必要性もなかったことから、レーヌは抵抗の意思がないことを示すために、強張った体からゆっくりと力を抜いていった。

「そう。いい子だね」

 楽しそうなノワールの声。実際くすくすと笑う声も小さく聞こえてくる。

「振り向かなかったご褒美をあげようと思ってね。戻ってきたんだよ」

 そんな台詞を聞かされたレーヌは、どういうことかと胸中で首を傾げた。

 それが伝わったのか、ノワールは実はね、と答えながらレーヌの肩に置いていた手を持ち上げ、一方でレーヌの両目を塞ぎ、もう一方は髪を掻き揚げて片耳を露にした。その耳に口唇こうしんを寄せ、直接囁きを吹き込む。

「私の大鎌は、なぜか仕事をしているところを他人に見られることを極端に嫌うんだ。それで、わずかでも目にした者がいれば、私の制止を聞かずに勝手に狩ってしまうんだよ」

 ノワールいわく。神の世界にも位があり、勝手をすれば上位の者からそれなりに制裁が加えられるのだという。それを回避できたお礼ということだった。

「だからね、褒美をあげるよ。――ところで、君の仕事はあと何回残っているのかな?」

「……四百二十三回です」

 レーヌが神から与えられた、花嫁の形代を務めなければならない回数は千回。どうにか折り返しを過ぎたとはいえ、まだそれだけ残っている。

 この残りの回数とは、形代を務める回数であると同時に、命を奪わなくてはならない男の数でもある。

 己が身をおく状況を改めて認識したレーヌは、自嘲するように、傍目にはわからない程度に口角を吊り上げた。

 元は人間だったレーヌにとって、他人の命を奪うことが辛くないわけではない。けれど感情を胸裏に隠すすべを早々に学び、プティ以外には素直になれないレーヌが見せた動きは、ただそれだけだった。

 もっとも、ノワールに対しては筒抜けだったらしい。

 背後から薄く笑ったような気配が伝わった。

 ノワールがその美声で誓約を口にする。

「この先、どうしてもおのが手で奪えない命にであったとき。一度だけなら、私が代わりに狩ってやろう」

「それは……っ」

 レーヌは混乱した。これは彼女の仕事。代わってもらうわけにはいかない神からのめいなのだ。しかも自分に奪えない命など存在するはずがない。否、あってはならないのだ。そう言おうとした声を封じるように、ノワールの人差し指がレーヌの口元に当てられた。

「心配は要らない。一度だけという誓約書があれば、私が狩った命も君にカウントされるようにすることなど造作もない。もちろん私の力を利用するのもしないのも君次第だ。褒美を受け取らなかったからといって逆恨みをするほど、私は狭量ではないからね」

 そう言ってノワールは、レーヌの細い首に自身の唇を触れさせた。ちくりとした痛みをレーヌに伝えてから離れていった場所には、黒色こくしょくの薔薇の刺青が残された。

「これが誓約書だ。私の力が必要になったときは呼ぶがいい。いつでもどこでも参じてやろう」

 そう言いおいて、ノワールは唐突に消え去った。

 レーヌは大きく息を吐き出しながらその場にへたり込む。

「レーヌ、大丈夫?」

 どこかに消えていた小鳥のプティ・プリュムがいつの間にか戻ってきて、レーヌの顔を心配そうに覗き込んでいた。

「どこにいっていた」

「逃げてた」

 プティはあっけらかんとそう答える。鳥獣は危険には敏感なんだよ、が口癖のプティらしい。

 大丈夫、と再度問うてきたプティに対して嘆息をもらしたレーヌだったが、元来まじめな彼女は、しぶしぶながら大丈夫と返した。

 大きく息を吐き出し、レーヌはおもむろに立ち上がる。

「さて、『彼女』を迎えに行くか」

「そうだね。レーヌも疲れているみたいだし、さっさと仕事を済ませて帰ろう」


   ◇ ◇ ◇


 形代の女王の像の後方。切り立った崖の先には大きな泉がある。形代を願い出た女性が、身を投げる泉だ。

 その泉を見下ろせる位置に、レーヌがプティを伴って立っていた。

 レーヌが崖の上から右手を差し出す。すると、その泉から淡く輝く小さな光の玉が浮き上がってきた。

 その光の玉に向かって、レーヌが口を開く。

「あなたの望みどおりに、あの男を地獄へと送った。これであなたのお身内に危害を加えるものはいなくなり、あなたも自由を得た。だからもう未練はないだろう。この手に乗り、行く末を我らに委ねるがいい」

 光の玉は数度明滅を繰り返すと、レーヌの言葉に従い、差し出していた彼女の掌の上に乗った。

 すかさずプティがその小さなくちばしで光の玉をちょんと突く。すると、光の玉は花の種へと姿を変えた。

「これからあなたを『楽園』へと連れて行く。そこで一輪の花として新たな生を送るがいい」

 どのような理由があったとしても、本来であれば、自ら命を絶った者には楽園に居場所はない。

 けれど蕾のまま散らねばならなかった娘たちを不憫に思った女神によって、花へと生まれ変わることで楽園に住まうことを許されたのだ。

『ありがとう』

 花の種となった『彼女』の魂がかすかに囁き、その一言を最後に『彼女』の人としての意識は完全に消滅した。

 レーヌはそっと種を握ると、静かに瞑目する。けれど零れ落ちそうになる弱音を振り払うように即座に目を開け、踵を返して像に向かって歩き始めた。

「プティ、帰るよ」

「うん、帰ろう。早く帰って、種まきをしなきゃね」

 プティはことさら明るく応えて、レーヌの肩にとまった。

 そしてレーヌとプティと花の種は、女王の像に吸い込まれるようにして消えていった。


 誰もいなくなった女王の像と泉の上を一陣の風が吹き抜けていく。

 かすかに残っていた気配すらもその風に散らされ、山川草木さんせんそうもくは戻ってきた自然の静寂にひたった。


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