掴んだ尾からいずる音の欠片。
部屋に戻ると、すぐにパソコンの電源を入れた。早速借りてきたディスクをパソコンの中へ取り込んでいく。ディスクにゲーム名は印刷されているが、内容についての記載はない。パッケージがあれば、その裏面にゲーム内容が載っているはずなのだが。亜沙子の性格から察するに、『外箱など飾りに過ぎない』という考えであろう。
まだ、知り合って日が浅い大地ですら亜沙子の特徴を理解し始めている。
このゲームには、きっと『18』という数字がキラキラと光るシールとなってパッケージの隅に貼られていたことであろう。
(本当に、息抜きのために貸してくれたんじゃないよな?)
亜沙子が、親指を立てて素敵な笑顔を向けているシーンを想像して少しの不安がよぎる。これは、亜沙子に信頼がない、というわけではない。ただ、ただ、『楽しい方へ精神』である彼女を理解しているが故である。
ゲームなんていつからやってなかっただろうか? ダイチは、マウスをクリックだけして進める作業をしながら昔を思い出していた。
木場龍一郎。ダイチにピアノを教えてくれた先生である。ダイチは、心の中では木場のことを『師匠』と呼んでいた。実際に、そう呼んでもよかったのだがあまり冗談が通じるような性格でない木場に、ちょっと試しに呼んでみてその勢いで呼び方を定着させる、なんてことは出来なかった。世間話も過去話もしない、必要なこと以外は話すことはしない。それが木場だった。
子供相手だからと、優しい話し方で接する。そんな、器用な男ではない木場であったがダイチは絶対の信頼を置いていた。自分の感覚で教える木場は、決して教え方がうまいわけでは無い。しかし、ピアノに対する熱意と演奏技術がずば抜けていた。子供だったダイチでも分かる圧倒的な木場の演奏は、一瞬でダイチの心を奪っていった。
慣れない文章を読むことに、本来の目的を忘れかけていたダイチ。そんな、ダイチの手が止まる。
鮮やかなオレンジの光に包まれた画がパソコン画面に広がった。
――よく聞いてよく読みなさい
亜沙子の言葉が甦る。
昼と夜の境目、光を惜しむように世界が闇に溶け合っていく、夕暮れ。夕日に伸びる影に、切なさも優しさも音楽がすべてを繋ぎとめている。
ダイチは、亜沙子の真意を少しづつ理解し始めた。言葉だけでは、伝えることが難しい“音”を教える為のアドバイスは、ダイチが必要としていることを的確に見抜いていた。亜沙子に、計り知れぬものを感じた瞬間であった。
朝、柔らかな光が降り注ぎすべてを優しく包み込むような音。昼、日常の一コマが水面に写しだされているようなふわりとした音。夜、黒く塗られたキャンバスにポツリ、ポツリと淡い光が浮かび上がり、虫のさざめきが暗闇に色を付けいてる。人も、虫も、星も、ささやくように夜の海を泳ぐ静かに流れる音。人によって姿を変える夜には、朝に繋がる涼やかな風が等しく吹いている。
クラシック以外の音楽に、こんなに触れたのはいつ以来だろうか……。浮かんだ疑問は、まどろむ意識と一緒にどこかへ吸い込まれて消えていった。ダイチは、音に包まれたまま眠りに落ちていた。
――上手く、足が動かせないような状態でいた。いや、特に動かす必要はない。感覚的に、そのことを理解しながら目の前の情景を見つめていた。
夕暮れ時、夕陽に向かって歩く二人。坂道を登る二つの影が伸びている。
(これは……そうか、アカリの思い描いた世界。あの歌詞の情景だ)
坂を上る二人は、何かを話しているがこの距離では聞こえない。もう少し、近づけないかな? その軽い願いはすぐに叶った。そりゃそうだよな、自分の夢の中なんだし。ダイチは、これが夢だということを理解していた。それは、この世界は自分のものではなく“アカリの世界”であるということを即座に認識したからである。
二人に、近づくことはできたが近づいたところでただの話声でしかなかった。話の内容を想像する力が自分にはなかったようだ。話の内容は、自分には特に関係はないとあきらめまた距離を置いた。
(必要なのは、この情景に合う音。メロディがほしいんだ)
あって無いように等しい、この世界の時間がそろそろ終わろうとしている。そう、感じた。まだ、何も見つけられていない。ダイチは、焦りだし周りを見回したがこれ以上景色の変化は起きなかった。背中のあたりから、何かに引っ張られるような感覚が起き始めオレンジの世界が少しづつ遠ざかっていく。
(待ってくれ! まだ、音が、メロディがみつかっていないんだ!)
――アーティストには、時にメロディが天から降ってくる。そんな、都市伝説みたいな奇跡が自分の身に起きる、なんてこと滅多にあることではない。
とうとう、黒が最後のオレンジの光を飲み込み、自分と暗闇との境界線もなにもかもが無くなった。
そろそろ、目が覚めるのだろう。しかし、全く収穫がなかった訳ではない。あの世界が見れただけでもよかった。何もない闇の中でダイチはそう思った。
不意に、そよ風が吹いた。と、感じた。感覚など、あるはずもないのに感じたその風には確かな“音”があった。音が見えるはずも、触れるはずもないのに、ダイチは手を伸ばし闇の中で“音”を掴んだ。
体の痛みで目が覚める。パソコン画面には、夕暮れのシーンが広がっており途中で止まっている文章の末尾のカーソルが点滅している。スピーカーからは同じ音楽がリピートしていた。
ダイチは、うつろに画面を見ながら夢で見た情景を思い出していた。右手を、強く握っていることに気づき力を緩めようとして、ハッとする。とっさに左手で右手を押さえた。危うく、大事なものを手放すところだったと胸をなで下ろす。
防音室の鍵は次の日も使うつもりであったので自分が持ったままである。目覚めたダイチは、移動を開始する。
夢で見た情景と右手に掴んだ音の欠片が消えないうちに。
ピアノの譜面台には、アカリの手書きで書かれた歌詞が置きっ放しであった。アカリがこの事実を知ったら「私の大切な作品だぞ、もっと丁重に扱え!」と怒られそうだ。アカリの大事な作品を丁重に移動させ、白紙の譜面を隣に並べた。
掴んだ音の欠片を開放して、指をゆっくり鍵盤の上へ滑らしていく。ダイチが、掴んだものはほんの一部だがそれで十分だった。一歩、踏み出したらあとは自分が止まらないで走ればいい、だけなのだから。今度は、放した欠片を鍵盤で掴み譜面へと記していく。
朝から、ダイチが防音室にいることに気づいた亜沙子は、そっと防音室の出入口へと近づいた。目的は、朝からダイチの困り顔を見て満たされる為だ。しかし、ガラス越しにダイチの表情を見るだけでとどまった。
(おっ、いい表情してるね~。お姉さん、その表情が見れただけで満足だよ♪)
亜沙子は、ダイチが一歩前進できたことに喜んだ。例え、それが亜沙子のアドバイスによるものではなかったとしても、それならそれでもいい。見返りが欲しかったわけではない。自分が、見ることができなかったその先、亜沙子が届かなかった場所にたどり着く足ががりになってくれたのなら……と。
今は、そっとしておいたほうがいいかな。亜沙子は気づかれないように退散することにした。
(しばらくは、声掛けない方がいいね。だけど、お昼には一度呼ばないと大地くん絶ッ対! 没頭しちゃうよね)
お昼には、大地君に渡したアレの感想聞かないとね! 考えるだけで、楽しくなった亜沙子はおもわず失笑した。