名前と想いを詞に込めて。
アカリに一任しておきながら気にならない訳はなく、そわそわと週末までの時間を過ごす。
その気持ちを感じ取ったようにピアノが反応する。チビッ子先生といえども音大の教員だ、ピアノ以上に敏感な感覚の持ち主は音の変化を感じ、痛いところを攻撃してくる。しかし、その小さい体では迫力はない。学生たちの間では『子供が背伸びしているみたい』で可愛いと評判であるが、本人にその噂が伝わっているかどうかは定かではない。
体格の差を埋めるように細かく素早い動きで鍵盤の上を滑るその手は小さい。そもそもプロ向きではなかったと語った彼女。飄々としていたがその言葉が100%ではないことが背けた視線が物語っていた。
「知ってる? 子供の頃、神童やら天才やら言われて話題になった人達が後に何人が大成してると思う?」
「子役で有名になって、大人になってもテレビに出られている芸能人の数より少ないんだよ! ほとんどがこの業界を離れて生きている。私は、立つ位置こそ変わったけどまだピアノと共に歩けることができてラッキーだと思っている」
彼女は、自分の話しに熱がこもり過ぎていることに気づき気恥ずかしそうに皆の視線から背を向けた。
「まぁ、その、なんというか今がピアノと……ううん、音楽と真っ直ぐに向き合える。向き合って語り合える大切な時期だと思うの。だから、ちゃんと将来のことも考えてほしい」
生徒達の、気が抜けていたことをたしなめようとして話しだした彼女の過去、経験。そんな話の流れから今の話になった。いつもの彼女からは想像できない大人びた雰囲気に飲まれる生徒達。静まり返る教室にバツの悪さを感じたのか、彼女は急にいつも調子で話しだした。
「ありがとう! 神様! 私の友人に学長の娘をあてがってくれて!」
笑いが起き、教室内は瞬時に和やかな雰囲気を取り戻した。
現在の学長は学生時代の彼女の友人であり、そのおかげで現在の職に就けたのである。彼女も学長もこの清城の卒業生であった。
彼女の言う『ラッキー』とは良い縁に恵まれたこと。音大生である今が、この業界の人と出会えることが一番多いといっても過言ではない。これから先も音楽と関わって生きたいなら、その繋がりも重要だと皆に伝えたかったのだ。
「桜ちゃんはラッキーだって言ってたけど、桜ちゃんって教えるのうまいし人当たりいいし、学長はそういう所を見抜いて誘ったんだと思うの。大地くんはどう思う?」
ピアノ科の先生で自分達を担当している葛城桜子。名前と見た目の可愛さから、皆に親しみを込めて『桜ちゃん』と呼ばれている。この呼び方は公認で、本人は大いに喜んでいる。
廊下を歩きながら先ほどの熱弁に思いを馳せる同期の小山美雪。ゆるいウェーブのかかった髪が、美雪の興奮状態を表すように揺れている。授業初日から、意気消沈していた自分に声を掛けてくれたのが彼女である。その日から何かと行動を共にする仲となった、大学でできた初めての友達というヤツだ。
「いい先生だとは思うよ。ただ、俺への当たりがキツい気がするんだけど」
美雪は「愛されてる証拠だよ」と笑った。あれを愛情表現だと思えるのは、あくまで外から見てるからだろう。的確に自分の痛い所を突かれるのは、自分の身を削られる思いだ。
「小山さんは、皆の演奏を聞いて劣等感とか感じたりしないの?」
桜子に指摘されたことだけではなく、全体的に皆の演奏を聞いて自分より上ではないかと感じた。昔、味わったことのある苦い感覚。あの日の情景が一瞬フラッシュバックして頭をかすめていく。
「……」
返答はがない。美雪は急に立ち止まり、こちらをまっすぐ見つめて一歩、自分との距離を詰めた。
「そろそろ、もう一歩踏み込んで来てくれてもいいんじゃないかな?」
美雪との距離が近いことと、会話の意図がつかめず動揺していると「仕方ないな」と聞こえてきそうな軽いため息をつき、視線を逸らした。
「私は、大地くんのこと名前で呼んでいます。ですので、私のことも対等な友人として呼んでいただきたいのです」
言葉尻と共に再び目線を合わす美雪。
つまりは名前で呼び合いたいと、それが対等な友人関係だということだろう。同性であるならそれでも抵抗は感じないが、異性に対しては配慮が必要と思い美雪のことを苗字で呼んでいた。思い返せば、自己紹介し合った時から自分のことを名前で呼んでいてくれた美雪は苗字で呼び返した自分に対して微妙な反応をしていた。
美雪はこの時から対等に呼び合いたいと考えていたのだ。
「美雪さん」
美雪はうーんと唸り、まだ硬いもう一度。と促してくる。
「美雪さん」
今度は少しトーンを上げて名前を呼んでみた。これも好感触とはいかず、納得はしなかったものの「今回は妥協しましょう」と一度視線を合わせ一歩退く。そして約束の握手を求めた。
「これからは、名前で呼ばれなかった場合私はスルーしていくのでそのつもりで」
ふわりと微笑を浮かべた美雪は、自分の手を取り固く約束を結んだ。
意志の強い真っ直ぐとした瞳は、以前に見たアカリの瞳と同じ光が見えた。
そういえば、アカリのことを名前で呼ぶのは意外に自然と受け入れたな。バンドメンバーだからかしこまるのはナシ。そう言われたことも一つだと思うが、彼女が年下であり『兄妹』セットで見ているからかとても近い存在に感じているのかもしれない。メンバーという繋がりが家族のように。
「私だって――」
急に話題が元に戻り、一瞬戸惑う。そういえば、話の途中だったな。
「自分の方が劣っているって感じてるよ。特に、大地くんとは大分差がある気がする」
そんなことはない。むしろ、差を感じたのこちらの方だ。その証拠にクラスでダメ出しされるのは自分だけである。
「桜ちゃんが、大地くんに『足りない』って言ったのはさ10段階評価だとしたら『1』だからそういったんじゃないよ、大地くんは『9』だから『足りない』って言ったんだと思うよ」
私なんか6くらいだよ。美雪なりの自己評価は厳しい採点だ。
ここは音楽大学であって、スクールではない。この学校に通えている時点で0スタートの人間はいない。それぞれ経験を積み、さらにその上を目指した者たちが集まっている。自分より上手い人がいるのが普通で、誰もが他の者の演奏を聞いて自身の評価を下げてしまうのは仕方ないことなのかもしれない。そのいい例が自分である。
「大地くんは自分を過小評価しすぎだよ」
「美雪さんこそ過小評価してると思うよ」
お互い真面目な顔で掛け合った言葉に耐え切れず吹き出してしまった。
「おーい、二人共。お楽しみ中のところ悪いが、遅れっぞー」
話に夢中になり時間を忘れていた。同じクラスの中野に呼ばれて時計を見ると、次の授業まで残り3分もないことに気づき二人は慌てて移動を再開した。
週末になり、アカリに朝から呼び出される。はやる気持ちが歩く速度を上げていく。
楽しみで待ち遠しかったなどと思われたくないので、息を整えてから呼び出しベルのボタンを押した。
玄関を入ると、頭を下げて待っている香佳。
「お待ちしておりました。いつもの部屋へどうぞ」
ゆるりと頭を上げると、鋭い眼光で客人を射る。初対面から、敵視されている自分であるからある程度は仕方ないと思っている。しかし、他の客にも同じ対応をするのであろうか? 少ない情報ではあるが、自分が知る限りではアカリ以外の人間には厳しい香佳である。この家の住人であるアキラですらアカリと同じ待遇ではない。
「どうか、なさいましたか?」
どうも何も、そんなに睨まれていたら誰だって萎縮するんですけど……などとは言わせない圧迫感を華麗にかわす。
「いえ、なんでもないです」
そう、華麗に……かわしたのだ。
防音室の重い扉を開くと、落ち着かない様子の少女が同じ場所を往復している。その胸には1枚の紙が大事そうに抱かれている。アカリは、こちらに気づくとサンタクロースを見つけた子供のように瞳を輝かす。
「待ってましたよ、ダイチ!」
抱きしめていた紙を、勢いよくこちらに突き出した。少ししわの寄ったその紙には、大きく『命名』の文字と筆記体で英語が書かれていた。
アカリが、決めたバンド名であろう筆記体の文字を読み解いている途中で紙は裏返しにされ手渡された。
「次は、ダイチの番ですからね♪」
「はい?」
紙の裏には、文章が書いてある。これは……『歌詞』か。
「私が詞を書いて、ダイチが曲を作る。これぞ! バンドマンだね!」
そんないい顔しても、こんな理屈は納得できる内容ではない。そもそも、聞いてない。
「待て、曲は皆で作るんじゃないのか?」
「大本のメロディは、ダイチが作ってください。あとは全員で相談ってことで」
アカリの為のバンド、決定権はすべてアカリにある。そして、自分に拒否権は無いに等しい。
「ダイチが、どーーーしても! 出来ないって時は皆でやりましょう」
そんな言われ方をされて、燃えないはずがない。しかも年下の引きこもり女子高生なんぞに泣きつくことなどできない。と、いう感じにうまく乗せられた気がする。
改めて、手渡された紙を見る。
(この歌詞で曲を作れ、か。自分にできるのだろうか?)
詞には思いか込めらている。アカリの想いが。
歌詞の中に名前を見つける。
Luna,distance
バンド名と同じその言葉をそっと指でなぞる。アカリの心の一部に触れた気がした。