中尉殿
鈴木が去った後、俺にとって一番の強敵は田中正八だった。大正八年生まれだから正八。認知症が変な方向に特化した九十過ぎの爺さんだ。日本刀を振り回しているところを取り押さえられて措置入院した。
「田中さん。お体の調子はどうですか?」
「若造、恐れ多くもわしは士官だぞ。誰に口を聞いているんだ」
田中は元陸軍中尉だった。
「失礼しました、中尉殿」
「うむ。以降気をつけよ」
田中は厄介だった。自分が陸軍中尉のままで、まだ戦争が続いていると思い込んでいる。少しでも機嫌を損ねると大声でどなり散らし、周りを恫喝した。
「中尉殿」
「何だ」
「何か、用事はありますでしょうか」
「ない」
そのような無意味なやり取りが続いた。MSWが担当する主要業務に、退院援助、社会復帰援助がある。田中に対してどうやって援助を行うか。俺はさっぱり分からなかった。
「入江さん。どうすればいいですかね? 田中正八」
マキちゃんは考えるように少し虚空を見つめて、おもむろに口を開いた。
「話を聞いてあげることしか、できないと思います」
マキちゃん……。
俺は毎日三回、田中の病室を訪ねた。彼はいつも、ベッドに正座していた。
「中尉殿」
「何だ」
「中尉殿は、どんな任務をおわれているんですか?」
「そんなことは言えん。軍事機密だ。房総半島から敵が上陸してくることなど言えん」
「敵が、上陸するんですか?」
「何、貴様、今何と言った! どこで聞いた! 貴様スパイか!」