賭け
「おとうちゃん」
今日も葵は俺をそう呼ぶ。俺、まだ三十二なんですけど。そんなに匂う? 加齢臭。
「葵は、優しくされたいんだよね?」
「うん! やってくれるの?」
「いや。俺は葵が嫌いだ。大っ嫌いだ。だからお前を殴る」
右の拳を堅く握って振り上げた。葵が顔を一瞬でこわばらせる。胸が苦しくなって直視できなかった。彼女が父親に暴力を振るわれる時、こういう顔をしたのだろう。ごめん。葵。ごめん。
「やめろ!」
その時、病室のドアが開いて慶太が飛び込んできた。こいつはいつも葵の様子を伺っていた。すぐに中の異変に気付くことは分かっていた。
「なんだ、お前は?」
慶太の胸倉をつかんで睨みつけた。彼の細い身体は軽い。慶太は震えていた。しかし視線を、俺の目から絶対に離さなかった。
(殴れ)
小声で、慶太にだけ聞こえるように言った。
(殴れ。葵を守ってやれ)
慶太が思いっきり振り抜いた拳が、俺の左頬に炸裂した。演技をしようと思っていたがその必要もない。それくらいの衝撃だった。俺は背中から病室の床に叩きつけられた。
このクソガキ。殴ったふりすりゃいいんだよ。本気で殴るやつがあるかボケ。
慶太は通せんぼをするように両手を広げて、隅で小さくなっている葵を守っている。葵は慶太の肩に手を置き、すがりついている。俺はひりひりする左頬を押さえながら、逃げるように葵の病室を飛び出た。
「どうしたんですか?」
喧騒に気付いて駆け付けたマキちゃんに声をかけられた。
「何でも、ないですよ」
本当に痛む左頬を抑えたまま、ごまかすように答えた。