よくできた妻は、本日をもって辞めさせていただきます!
やっと戦争が終わった……。それと同時に、セシリアと夫の夫婦関係も終わりを迎えた。
昨晩、戦勝の祝賀会が行われ、夫のイザークは、愛人と出席したらしい。
本来であれば、夫の留守を預かる妻への労いを兼ねるパーティーのため、夫婦同伴が必定の場である。
なのに戦を勝利に導いた英雄が、娼館の主人マダム・リリューを伴い会場に姿を現したのだ。驚きの声が上がるなか、妻はどうしたのかと問われ、夫はこう答えたのだそうだ。
「あれは、よくできた妻です。理解してくれていますよ。この勝利はマダムのお陰ですから」
セシリアは知らなかった。帰還したはずの夫は報告のために王宮に留まったまま、まだ会っていないのだから。
夜遅く、その場に居合わせた友人から急ぎの便りが届き、迂闊にも涙がこぼれた。
よくできた妻? 勝利はマダムのお陰? 何よ、それ。
あなたの留守中、心細い気持ちを奮起して家を守り、夫の無事を毎日欠かさず祈っていた妻のことはどうでもいいってわけ?
夫は一つ誤解している。
自分はよくできた妻ではないし、聞き分けは悪い方だ。
ベルンハルト伯爵家のじゃじゃ馬娘。独身時代は兄たちにそう呼ばれていた。
「お待ちください、奥様!」
「ええい、そこをお退きっ」
立ちふさがる老執事のゲルトを怒鳴りつけ、無理やり通り抜ける。
「何かの間違いでございます! 旦那様に限って浮気だなんて。せめてお帰りになるのを待ってから……」
「あんな男、顔を見るのもごめんだわ! 第一、ここから目と鼻の先の王宮に滞在しているっていうのに、一度も連絡をよこさなかったんだから待つだけ無駄でしょ。離婚よ、離婚。わたくしは、実家に帰らせてもらうわ。ゲルト、あなたも非情な主人に見切りをつけるなら今のうちよ」
「奥様~!」
老骨に鞭打ち、なおもゲルトが必死に追いすがってくるが、かまうものか。
セシリアは、力いっぱい玄関の扉を開け、颯爽と馬車に乗り込んだ。
「セシリア様、本当によろしいのですか……?」
ガタゴトと揺れる馬車の中、トランクを持ってついてきた侍女が心配そうにセシリアの端正な顔を覗き込む。
「ええ、もちろんよ! あの男、戦場で頭でも撃たれたんじゃないかしら。娼館のマダムをエスコートして『よくできた妻』ですって? 笑わせないで。こうなったら、お父様とお兄様たちに泣きついてでも、徹底的に争って慰謝料をむしり取ってやるんだから!」
セシリアは腕を組み、怒りを爆発させた。
彼女の実家であるベルンハルト伯爵家は、代々気の荒い騎士を輩出する脳筋家系だ。実家に到着し事の顛末を話すと、案の定、父と三人の兄たちは激怒した。何事かと様子を見に来た母も加わる。
「我が家の可愛いセシリアを侮辱するとは、英雄だろうが、なんだろうが許さん!」
「今すぐイザークの首を刎ねてやる!」
「ええ、ええ、許せませんわ。ほほ、慰謝料などと生ぬるいことは言わずに、遺産としてがっぽりいただいてしまえばいいのですよ」
頼もしい家族に囲まれ、セシリアは堂々と実家に居座ることにしたのだった。
◇◇
一方、その頃。
二人の愛の巣であるクレイグ子爵邸の玄関に、一人の男が飛び込んできた。
汗にまみれた小汚い軍服姿で息を切らせて戻ってきたのは、戦争を終わらせた本人であり、セシリアの夫であるイザークだ。
「セシリア! セシリア、ただいま! 遅くなってすまな――」
愛しい妻を抱きしめようと勢いよく扉を開けたイザークを出迎えたのは、静まり返った屋敷と、ハンカチを握りしめて涙を流しているゲルトだった。
「……旦那様。奥様は実家へ帰られました。離婚だ、と」
「は!? り、りこん……?」
その瞬間、イザークの表情が凍りつく。戦場で数多の敵を恐怖に陥れた冷徹な男が、まるで世界が崩壊したかのように力なく、その場に膝をついた。
「なぜだ……? 俺は一刻も早くセシリアに会いたくて、王宮の書類仕事を七日間も不眠不休で片付けて、走ってきたのに……なぜ……っ!?」
「旦那様が、昨晩の祝賀会にマダム・リリューを連れて出席し、奥様を侮辱したからですよ! 奥様のご友人からの便りで、奥様はその事実をお知りになったのでございます」
「なんだと!? 俺は昨晩、祝賀会になど出ていない。ずっと地下書庫にいたんだ!」
ゲルトの言葉に目を見開く。すべてを察し、凄まじい怒りと焦燥に駆られたイザークは、そのまま回れ右をしてベルンハルト伯爵家へと馬を走らせた。
「セシリアァァッ……! 誤解だ。俺の愛を信じてくれっ!!」
伯爵家の門を強引に通過し、バルコニーの真下で大声を張り上げる。
「うるさいわよ、この浮気男っ。お帰りになって!」
バルコニーから顔を出したセシリアは、夫に向けて容赦なく花瓶の水をぶちまけた。頭から水を被り、ずぶ濡れになりながらも、イザークは必死に訴えかける。
「違うんだっ。俺は昨晩の祝賀会に行っていない! リリューをエスコートしたのはルディ王子だっ。すべてあの男の陰謀なんだ!」
「……え?」
王子の名前が出てきたことで、さすがに無視できなくなったのだろう。セシリアは兄たちを呼んで、渋々イザークを応接室に招き入れた。
濡れ鼠のようになったイザークは、ソファに座ることは許されず立ったまま熱弁を奮う。最愛の妻を連れ戻す唯一無二のチャンスだ。失敗はできない。
「いいかい、セシリア。マダム・リリューは、実はルディ殿下の恋人なんだ」
「王子殿下の?」
「そうだ。彼女は娼館の主という立場を利用して、敵国の客から重要な機密情報を盗み出し、我が国の勝利に貢献してくれた。その功績を称え、殿下は彼女をどうしても祝賀会に呼びたかった。だが、彼は有名な恐妻家だろう?」
セシリアは頷いた。
ルディ王子の妃は、隣国の王女殿下だ。気が強いうえに、稀有な風魔法の使い手。もし自分の夫が美貌のマダムを夜会に呼んだと知れば、物理的に王宮が吹き飛ぶ。
「だから殿下は、自分の保身のために俺を身代わりにしたんだ。『俺とリリューが恋仲だ』という偽の噂を流し、祝賀会への同伴を命令してきたのさ。だが、俺は断固拒否した! 俺の妻はセシリアだけだ。他の女の手を引くなど、死んでも嫌だと突っぱねたよ」
「でも、友人の便りには、あなたがリリューを連れて会場に現れたって……」
「そこが殿下の卑劣なところさ!」
イザークは悔しさのあまりテーブルを叩く。
「俺が拒否したから、殿下は俺を書類仕事中の地下書庫に閉じ込め、外への連絡をすべて遮断したんだ。俺が君に連絡できないようにして、いくら待っても祝賀会にやってこない君の代わりに、リリューをエスコートせざるを得ない状況を無理やり作ろうとした。そして実際の祝賀会には、殿下が変身の魔道具を使って俺の姿に化け、リリューをエスコートして出席したんだ!」
「じゃあ、あの祝賀会での『よくできた妻』っていう発言は……」
「殿下が俺に変身して言った捏造だ! 俺は祝賀会の場にいなかった! 今朝ようやく書類仕事が終わり監禁が解かれて屋敷に戻ったら、君がいなくなっていて……俺は、俺は……」
感極まったイザークは大きな体を縮こまらせ、怜悧な切れ長の瞳からボロリと一雫の涙をこぼす。そして、セシリアの足元にすがり、おいおいと泣き始めた。
「君のいない人生なんて、ただの抜け殻だ……セシリアのためなら、犬の真似でも、なんでもする。お願いだから俺を捨てないでくれぇぇ……」
戦場の死神と恐れられた男が、妻の前で完全に腑抜けになっている。
ソファに並んで座っているセシリアの兄たちは、怒るのも忘れて呆然とその様子を見ていた。
「……つまり。ルディ殿下が自分の浮気を誤魔化すために私達夫婦を引き裂き、わたくしの心と名誉を傷つけたってことね?」
「ああ。俺の不徳の致すところだ……」
「いいえ、あなたのせいじゃないわ。悪いのはあのヘタレ王子よ。ねえ……イザーク。わたくし、やっぱり『よくできた妻』じゃないみたい」
セシリアが口の端を持ち上げ不敵に笑うと、イザークはビクリと肩を揺らす。
「売られた喧嘩は、きっちり買い占めてやり返すのがベルンハルト家のじゃじゃ馬よ。イザーク、明日は王宮に乗り込むわよ!」
◇◇
翌日。
「いや〜、昨日は妻に怪しまれずにリリューを労うことができたし、変身の魔道具様々だな♪」
王宮の執務室にて、上機嫌で書類に目を通していたルディ王子の前に、荒々しく扉が開き、セシリアとイザークが乱入した。
「な、なんだキミ達は!?」
「ルディ殿下。我が妻セシリアを傷つけ、私たち夫婦の絆を引き裂こうとした罪、万死に値します」
イザークの目は、完全に据わっている。戦場の死神――冷徹モード全開だ。
「ひっ、イ、イザーク!? ほ、ほんの冗談じゃないか、ちょっと姿を借りただけなのに――」
「殿下。世の中には、冗談では済まされないことがありますのよ」
セシリアが赤い髪を揺らし一歩前に出たその時、予め連絡しておいた人物が扉を開けて入ってきた。
「……ルディ。ここで一体、なんの話をしているのかしら?」
地を這うような低い声とともに現れたのは、扇子をギチギチと鳴らす、ルディ王子の妃だった。
「せ、世界で一番愛している我が妻よ。なぜここに?」
ルディ王子は、キョロキョロとしきりに視線を泳がせる。そんな夫を、妃は冷ややかな瞳で見下ろした。
「セシリアさんからお手紙をいただいたの。『殿下が我が夫の姿に化けて浮気のカモフラージュに使い、夫婦の危機です』ってね。ねえ、あなた……昨晩の祝賀会、何度も『お腹が痛い』って中座していたわよね?」
「え、あっ……そ、それは本当に、急な腹痛が……」
「いいえ! あなたは中座するたびに陰で魔道具を使い、イザークの姿に変身してマダム・リリューをエスコートしていたわ。そして、マダムが他の客と話し始めたら、また慌てて変身を解いてわたくしの側に戻ってくるという、一人二役を演じていたのよっ」
「ヒッ、な、なぜそれを!?」
「わたくしの風魔法を舐めないで」
妃がギチギチ鳴らしていた扇子をへし折る。急に窓辺のカーテンがバタバタと激しく揺れ、執務机からは王子が上機嫌で処理していた書類が舞い上がった。
「夜会会場の空気の流れで、あなたの不審な動きなんて丸分かりだったわ! このわたくしを騙せると思ったの? 相応の覚悟はできていて?」
「ひ、ひえぇぇぇ! ご、誤解だ、誤解なんだあぁぁ!!」
王子の悲鳴が響き渡るなか、セシリアとイザークは、そっと執務室を退室し扉を閉めた。
直後、背後の扉の向こうから、凄まじい風の轟音と、バキバキッと家具が叩きつけられる音が響いてくる。
「ぎゃあぁぁぁっ! ごめん、ごめんなさいぃぃぃ! もうしませんっっっ!」
重厚な王宮の扉を突き抜けてくる絶叫――。
これでいい。
あのヘタレ王子には、妻のお仕置きが一番の罰になる。マダム・リリューへの報酬も、王子の個人資産から支払われることになるだろう。
王宮からの帰り道、馬車の中でイザークはセシリアの手をぎゅっと握りしめて離さなかった。
「セシリア。本当に不快な思いをさせてすまなかった。これからは何があっても、君の側を離れない。もう戦争になんか行くもんか」
「今回は許してあげるわ。でも、次にマダム・リリューと噂が立ったら、本当に実家に帰るからね?」
「それは絶対にあり得ないよ! 俺の心には君しかいないんだから」
イザークはセシリアの手を愛おしそうに包み込む。そして、妻のほっそりとした身体を引き寄せ、強く抱きしめた。
相変わらず真っすぐで、重すぎる愛だ。けれど……。
やっぱり、この腕の中が一番落ち着く。
「じゃじゃ馬な妻だけど、これからもよろしくね、イザーク」
「ああ。誰よりも愛しい、俺だけのセシリア」
こうして、英雄の夫に溺愛されるじゃじゃ馬妻の結婚生活は、これからも続いていくのであった。




