時空消失のりこさん 3
1章. 晴天のランナー来訪
その日は、雲一つない見事な秋晴れだった。
天気が良い日の空気というのは、それだけで人を少しだけ活動的にさせるものらしい。
主婦ののりこさんは、お気に入りのエプロンの紐をきゅっと結び、竹ほうきを手に取って玄関先へと出ていた。
カサ、カサ、と小気味よい音を立てて、コンクリートの床に溜まったわずかな砂埃や、生垣から落ちた小さな葉っぱを掃き集める。
そよ風が頬を撫で、どこか遠くで鳥の鳴く声が聞こえる、実に平和でのどかな午前中だった。
その平穏を破るように、遠くから奇妙な地響きが近づいてきた。
「ドス、ドス、ドス、ドス、ドス……」
まるで大型の哺乳類が舗装道路を全力疾走しているかのような、重々しくも必死な足音である。
のりこさんがほうきを止めて顔を上げると、生垣の向こう側から、見覚えのある頭頂部が上下に激しく揺れながら近づいてくるのが見えた。
「はーっ! ひーっ! ふぅーっ! はーっ!」
現れたのは、白いランニングシャツに紺色の短パンという、まるで昭和のわんぱく小学生のような格好をした男だった。
しかし、その中身は小学生どころか、立派に成人した大人の男である。
名をナオキという。のりこさんの夫であるヒロシの、実の弟だった。
ナオキは、お世辞にもスマートとは言えない小太りな体をこれでもかと激しく揺らし、全身から滝のような汗を噴き出しながら、のりこさんの家の前で急ブレーキをかけた。
あまりの急停止っぷりに、彼の履いていたスニーカーの底が「キュッ」と悲鳴をあげる。
「はーっ、はーっ……義、義姉さん、ちわっす……」
ナオキは膝に両手を突き、今にも胃袋から何かが飛び出しそうなほど激しく肩を上下させていた。
ランニングシャツは完全に汗で色が変わっており、肌にピタリと張り付いている。
「あらナオキくん、お疲れ様。まだダイエット続けてるの?」
のりこさんは、まるで庭の草木に水をやるかのような気軽さで声をかけた。
「はい……もう三日目です。炭水化物を抜いて、毎日一万歩走るって決めたんですけど……ぶっちゃけ、もう限界近いっす……。目の前がちょっとチカチカして、道路の白線が冷やし中華の麺に見えてきました……」
ナオキの「三日目」という言葉に、のりこさんは内心で(ああ、やっぱりね)と思った。
ナオキのダイエット作戦はこれが初めてではない。
先月は「バナナしか食べないダイエット」を二日で断念し、先々月は「履くだけで痩せるインソール」を初日に紛失している。
今回のランニングも、家を出てからまだ五百メートルも走っていないことは、彼の家からの距離を計算すれば火を見るより明らかだった。
「それは危ないわね。少し涼んでいったら? ヒロシさんは釣りで夜まで帰らないし」
「えっ、ヒロシ兄さん、釣りですか? ……じゃあ、お言葉に甘えて、ちょっとだけ涼ませてください……。兄さんがいないなら、説教もされなくて済みますし」
ナオキは、砂漠でオアシスを見つけた旅人のような目でのりこさんを見つめ、フラフラとした足取りで玄関をくぐり、リビングルームへと滑り込んでいった。
リビングのエアコンは、のりこさんによって快適な温度に設定されていた。
ナオキはソファに泥のように崩れ落ち、文明の利器である冷気のありがたみを全身で享受した。
「生き返る……。やっぱりクーラーは人類最高の文明っすね。義姉さん、ついでに何か冷たい炭酸水とか、なければコーラとか、最悪、アイスとかないっすか? 走った後の糖分はゼロキロカロリーってネットに書いてあったんで」
「そんな都合の良いネット情報に騙されちゃダメよ。今、温かいコーヒーでもいれるわね。代謝が上がってダイエットに良いから」
のりこさんが苦笑しながら台所へと向かう。
ナオキはソファに深く背を預け、天井をぼんやりと見つめていた。
お腹が「ぐう」と切ない音を立てる。
彼の頭の中は今、冷やし中華の甘酸っぱいタレと、山盛りの唐揚げの幻影で埋め尽くされていた。
まさにその時である。
リビングの隅にある、古びた押し入れのふすま。
そのわずか数センチメートルほどの隙間から、何かが「カサリ」と音を立てて顔を出した。
ナオキは無意識に視線をそちらへ向けた。
そこには、一匹のネズミがいた。
つぶらな黒い瞳、ピクピクと動く長いひげ。
ここまでは、古い一軒家ならたまに見かける普通のネズミだった。
しかし、そのネズミの行動は常軌を逸していた。
ネズミはナオキと完全に目が合うと、押し入れの隙間からトコトコと大胆にリビングのフローリングへと走って出てきたのである。
のりこさんがいる台所からは絶対に見えない死角を完璧に把握しているかのような動きだった。
そして、後ろ足だけで器用に立ち上がったネズミは、ナオキをじっと見つめながら、前足で自分の小さなお尻を「ペンペン」と叩くような仕草を見せたのだ。
さらに、片方の前足を頭上に掲げ、指をクイックイッと動かして(ほら、デブ、ここまでおいで。捕まえられるもんなら捕まえてみな)とでも言わんばかりの、あまりにも露骨で知性すら感じさせる不敵な煽りポーズを繰り出した。
「……お前までバカにすんのか、コラ」
ダイエットの空腹と、走った直後の疲労、そして何より自分という存在がネズミごときに下に見られているという事実に、ナオキの精神的防壁は一瞬で崩壊した。
彼の脳内で、何かが「ブチン」と明確な音を立てて切れた。
ナオキはガラステーブルの上に置かれていた、ヒロシが読み終えたばかりの雑誌『週刊文瞬』をひったくるように掴むと、猛烈な勢いでそれを筒状に丸めた。
両手でそれを固く握りしめ、獲物を狙う肉食獣――というよりは、配給を止められた狂暴な野生動物の目でネズミを睨みつける。
「待てコラァ!」
ナオキがソファから飛び出した。
ネズミは「キキッ!」と人間の笑い声にそっくりな鳴き声を残すと、カサカサカサと素早い動きでフローリングを駆け抜け、再び押し入れの隙間へと逃げ込んだ。
「逃がすかよ! 今日はお前の命日だ!」
頭に完全に血がのぼったナオキは、押し入れの前まで突進すると、左右のふすまを「ガシャーン!」と勢いよく力任せに開け放った。
押し入れの下段。布団の隙間に、そいつは鎮座していた。
夫のヒロシがどこぞの怪しいフリーマーケットから「信じられない掘り出し物を見つけた。これで我が家の清掃効率は5倍レベルに到達する」と鼻息を荒くして買ってきた掃除機である。
パステル調の淡いミントグリーンと、どこかノスタルジックなピンクのホース。
一見すると可愛らしいレトロな掃除機に見えるが、その本体には、長年の苛烈な時空移動を物語るかのような塗装の剥がれや、無数のひっかき傷が深く刻まれており、妙な凄みを放っている。
何より異様なのは、完全に透明なクリスタルのように澄んだダストカップの内部だった。
そこにはゴミなどひとかけらも入っておらず、まるで手のひらサイズの宇宙そのものを閉じ込めたかのように、紫と青の美しい星雲がキラキラとした星屑を伴って、静かに渦巻いていた。
もちろん、本体にはこれでもかと「危険」「DO NOT TOUCH」「時空注意」という鮮やかな黄色の警告ステッカーがベタベタと貼られている。
普段ならそのあまりの不気味さに触りもしない代物だが、今のナオキは我を忘れている。
押し入れの奥の暗がりに潜み、暗闇の中からまたしてもひげをピクピクと動かしてナオキを小馬鹿にしているネズミの姿が、彼の理性を完全に吹き飛ばした。
「これで吸い込んでやる!」
ナオキは掃除機本体から伸びるピンクの電源プラグを乱暴に引っ張り出すと、近くのコンセントに勢いよく突き刺した。
外見に似合わぬ重厚な操作感のスイッチを、親指で狂ったように押し込んだ。
「ギガガガガガガガガガガ!!!」
次の瞬間、およそ一般家庭の家電からは鳴り響いてはならないレベルの、まるでジェット機のエンジンが至近距離で始動したかのような凄まじい爆音がリビング中に響き渡った。
床が激しく振動し、ガラステーブルの上のコーヒーカップがカタカタと震える。
ナオキはそんな音など気にも留めず、淡いピンクのノズルを両手でしっかりとホールドし、押し入れの奥のネズミに向けて容赦なく突き出した。
「消え失せろ、このドブネズミがぁ!」
ズババババッ!
ノズルの先端がネズミを捉えた。
何かが高速で管を通り抜けていく確かな手応えが、ナオキの両手に伝わる。
ネズミは確かに掃除機の中――あの星雲が渦巻くダストカップの中へと一瞬で吸い込まれた。
「ハハッ! 勝った!」
ナオキが歓喜の声をあげた、まさにその刹那だった。
掃除機の作動音が「ギュウウウウウウイイイイイン!」とさらに一段、高い周波数の音へと変化した。
それと同時に、ノズルの先端から発生する吸引力が、物理法則を無視した未知の領域へと跳ね上がった。
「え? ……うお、うわ、うわあああああああ!?」
ナオキの叫び声は、掃除機の轟音にかき消された。
ノズルを握っていたナオキの両手が、手首が、腕が、見る見るうちにピンクの細い管の中へと引きずり込まれていく。
いや、それだけではない。
彼の100キロ近い巨体そのものが、まるで底なしのブラックホールに引きずり込まれるかのように、ズボボボボボッ、ズズズズッ、と凄まじい力で掃除機のノズルの中へ吸い込まれていくのだ。
ナオキは必死に床を蹴って抵抗しようとしたが、その短パンの裾が、あるいは足が、最後に丸めた『週刊文春』を握りしめた右手が、あっという間に細いプラスチックの管の奥へと完全に消え去ってしまった。
リビングには、再び静寂が戻った。
――と言いたいところだが、パステルグリーンの掃除機だけは、ダストカップの中の宇宙をよりいっそう激しく回転させながら、どこか誇らしげに輝き、そこに居座り続けていた。
2章. 袋とじの謎
台所で「なんだか凄い音がしたわねえ」と首を傾げながら、お盆に2人分のコーヒーを乗せてのりこさんがリビングに戻ってきた。
「はい、お待たせナオキく……」
のりこさんの言葉が途中で止まる。
ソファには誰もいなかった。
あるのは、さっきまでナオキが座っていた部分の、まだほんのりと温かい座面の凹みだけだ。
床には主を失った汗だくのスニーカーが、不自然にぽつんと二つ転がっている。
窓は全て閉まっており、鍵もかかったままだ。
のりこさんはお盆をガラステーブルに置くと、腕を組んでリビングを見回した。
「おかしいわね。靴を置いていくなんて、泥棒にしても間が抜けているし……」
ふと、開け放たれた押し入れの前に視線を移す。
そこには、これ見よがしに明滅しているパステルカラーの掃除機が佇んでいた。
ダストカップの中の星雲が、いつもより激しく、どこか満ち足りたように輝いている。
のりこさんの脳裏に、強烈な予感が走った。
というより、パズルのピースが完璧に噛み合ったような感覚だった。
「……またやったわね、あのバカ掃除機」
のりこさんは、この掃除機が持つ本物の「危険性」を誰よりもよく知っていた。
なぜなら、先々月、この掃除機を使ったのりこさん自身が、リビングを掃除中にノズルに触れた瞬間「10年後の未来」へとタイムスリップさせられ、丸一日帰ってこられなくなるという大惨事を経験していたからだ。
さらに先月には、真っ白に洗い上げたばかりのヒロシさんのワイシャツに大量の糞を引っ掛けたカラス軍団にのりこさんの怒りが大爆発。
この掃除機をベランダへ引っ張り出して起動したところ、カラスたちが一羽残らず吸引され、そのまま「白亜紀」の夜空へと強制送還されていた。
そんな超時空トラブルメーカーである。
今回、夫の弟という「身内の人間」を吸い込んだことに対しても、のりこさんはパニックになるどころか、「ああ、ついにナオキくんまで被害者ね」という冷徹な納得感しかなかった。
「確か、ヒロシさんが何かあった時のための書類を隠していたはずだけど……」
のりこさんは記憶の糸を呼び覚ます。
そういえば以前、ヒロシが「この掃除機はちょっと気難しいから、機嫌を損ねた時のための裏マニュアルがあるんだ」と、ニヤニヤしながら話していた。
のりこさんはヒロシの書斎へと向かった。
釣りのタックルボックスや、古い車の雑誌が乱雑に積み上げられた本棚をひっくり返し、デスクの「開かずの引き出し」と言われている鍵付きのスペースへ向かう。
鍵のありかは知っている。植木鉢の底だ。
引き出しを開けると、一番奥から、黒いマジックペンで『禁書』とデカデカと書かれた冊子が見つかった。
これこそが、あの掃除機の取扱説明書だった。
リビングに戻り、ソファに腰掛けてのりこさんはページをめくった。
冊子の構成は、前半こそ極めて一般的な家電製品の体裁を保っていた。
最初のページには『1. 掃除機各部の説明』として、ミントグリーンの本体やピンクのホース、そして『星雲内蔵型超時空ダストカップ』といった各パーツの名称が細かく図解されている。
次のページには『2. お掃除の仕方』があり、「フローリングでの進め方」「絨毯でのダスト吸引時の注意点」などが親切に書かれていた。
その次には『3. ダストカップの清鎖(清掃)』の項目があり、「内部の星雲が安定している時に、優しく粒子を払い落としてください」と、少し雲行きが怪しいメンテナンス方法が記載されていた。
そして――冊子の最後のページ。
そこが、厳重な【袋とじ】になっていた。
袋とじの上部には、赤黒い文字でこう印刷されている。
『4. 異常事態発生時(緊急時のみ開封してください)』
さらにその下には、太い筆文字で警告文が躍っていた。
『警告:これより先は、時空の歪みを制御する究極のメンテナンスコードである。強い覚悟なき者は開けるべからず。開ける際は、ハサミ等で綺麗に開封すること。手で破ると破滅を招く』
「……本当に、ヒロシさんの買ってくるものは面倒臭い仕様ばかりね」
のりこさんはやれやれと首を振り、台所から使い慣れたキッチンバサミを持ってきた。
刃先を袋とじの隙間に慎重に滑り込ませ、チョキ……チョキ……と綺麗に切り開いていく。
もし手で破いて「破滅」を招き、ナオキくんが消滅でもしたら、義母への言い訳が立たない。
主婦のハサミさばきは正確そのものだった。
左右に開かれた袋とじの内部には、光るインクでさらに驚愕の条件が記されていた。
『注意:ゴミ、ほこり以外を吸引された場合、対象物は現代科学では証明不可能な異次元の空間へとトランスポートされます。万が一、ゴミ、ほこり以外を吸い込んだ場合は、以下の特殊手順を踏むことで強制排出が可能です』
『排出手順:① まず、本体裏面にある【強】ボタン、その下にある隠された【リセット】スイッチ、そして正面の【コード巻き取り】ボタンの三つを使用します。これらを【トントントン(短く3回)・ツーツーツー(長く3回)】という、SOSのモールス信号のリズムで正確に押し込んでください。成功すれば、本体が排出スタンバイモードに移行します』
「トントントン、ツーツーツーね。簡単だわ」
のりこさんはソファから立ち上がり、押し入れの前で自慢げに星雲を輝かせている掃除機へと歩み寄った。
傷だらけのパステルグリーンのボディに指をかけ、裏面の隠しボタンを指示通りのリズムで押し込む。
トントントン、ツーツーツー。
ピピピッ。
小気味よい電子音が響き、ダストカップの紫色の光が一度強く明滅した。
液晶画面には、緑色のドット文字で【排出モード:ゴミを求む】という無機質なメッセージが浮かび上がる。
のりこさんは、袋とじのさらに下部に書かれた最終指示に目を走らせた。
『② 排出モード起動後、本体のダストカップを家中のゴミによって【満杯(限界容量)】にしてください。本機が「これ以上何も吸い込めない」という極限状態に達した瞬間、内部 of 安全装置が作動し、時空の歪みを押し戻す【強制逆回転】が発動します。さすれば、内部の異次元から、吸い込まれた対象が現実世界へと力強く排出されるでしょう。注意:一粒のチリも残さぬ覚悟で掃除すること。中途半端な吸引量では、対象は永遠に異次元の住人となります。さあ、狂ったように掃除しなさい』
「狂ったように、ねぇ……」
のりこさんはキッチンバサミを置くと、ピンクのホースの先にある、傷だらけの平たいノズルを両手でしっかりと握りしめた。
「いいわよ。受けて立つわ。ナオキくん、今出してあげるからね」
のりこさんのスイッチが入った。
彼女の目からハイライトが消え、さながら「掃除の鬼」へと変貌を遂げる。
主婦としてのプライド、工程の完璧さ、そして家中の汚れを根絶やしにする絶好の機会。
二つの大義名分を得たのりこさんは、掃除機の主電源を再び入れ、リビングの床へと滑らせた。
「ギガガガガガガ!!!」
家中に鳴り響く爆音。しかし、のりこさんの心は凪のように静かだった。
まずはリビングのテレビ台の裏である。
普段は重くて動かせない、配線が複雑に絡まった暗黒地帯。
のりこさんはテレビ台を片手で強引に引き剥がし、そこに数年間蓄積されていた、もはや新種のフェルト生地のようになっている分厚いグレーの綿ゴミ地帯にノズルを突き刺した。
ズズズズズズズバババババッ!!!
強烈な風切り音とともに、大量のホコリが吸引されていく。
しかし、大容量のダストカップを覗き込むと、吸い込まれた綿ゴミは内部の宇宙空間(星雲)に触れた瞬間、パチパチと紫色の火花を散らして極小のエネルギー粒子へと変換されてしまい、インジケーターはまだ【容量:3%】を示しているに過ぎなかった。
「冗談でしょう? これだけのホコリを吸って、たったの3%?」
のりこさんの闘志に、完全に火がついた。
「我が家のポテンシャルを舐めないで頂戴。家中のゴミをすべて捧げてあげるわ!」
のりこさんは息を荒くしながらリビングを飛び出し、廊下、そして寝室へと突進した。
普段なら腰を痛めるからと絶対に動かさないダブルベッドを、火事場の馬鹿力で「ズガガガガ!」と引きずり回す。
ベッドの下に眠る、未開の地のチリを一切の容赦なく吸い尽くした。
続いて子供部屋。学習机の奥、本棚の裏の隙間。
台所へ移動し、冷蔵庫の側面、換気扇のフィルターに溜まった油混じりの埃。
さらには、和室のタンスの裏にノズルをねじ込み、お下がりのほうきでは届かなかった鴨居の上のチリまで、のりこさんはヘロヘロになりながらも、恐ろしい執念で家中のゴミをハントしていった。
だが、掃除機は冷酷だった。
家中の主要なゴミを全て吸い尽くしても、インジケーターは【42%】。半分にすら届いていない。
「こうなったら……長期戦ね」
のりこさんは額の汗をエプロンで拭い、物置の奥からさらなる「ゴミ」を探しに走るのだった。
3章. ナオキのギャラクシー・ランニング
その頃、パステルグリーンのホースを通り抜け、ダストカップの「宇宙」へとトランスポートされたナオキは、この世の終わり(あるいは宇宙の始まり)のような光景の中にいた。
「ひぃーっ! ひぃーっ! ふぅーっ! なんで、なんで俺がレーザー光線から逃げ回らなきゃいけないんだよ!」
ナオキは、泣きながら走っていた。
彼の目の前に広がっていたのは、実家の押し入れの匂いとは程遠い、焦げ臭い硝煙とオゾンの匂いが立ち込める暗黒のギャラクシーだった。
上空を見上げれば、山のように巨大な宇宙戦艦が何百隻もひしめき合い、青や赤の極太のプラズマビームを行き交わせている。
ここは、謎の宇宙帝国と反乱軍が星系の覇権をかけて戦う、まさに「宇宙戦争」の最前線だった。
ドガガガガガーン!!!
ナオキのわずか数メートル横に、撃沈された戦闘機の残骸が燃え盛りながら墜落した。
激しい衝撃波がナオキの小太りな身体を突き飛ばす。
宇宙空間のはずなのに、なぜか重力があり、息もできるし、爆音も聞こえる。
そんなSF的考証を突っ込んでいる暇は一秒たりともなかった。
なぜなら、彼の背後から、恐ろしい追跡者が迫っていたからだ。
「ピピッ……地球人、捕獲……あるいは、脂肪の塊、排除……」
不気味な合成音声を鳴らしながらナオキを追いかけてくるのは、タコのような多脚触手を持った宇宙人が操縦する、最新鋭の歩行型戦闘メカだった。
メカの先端にある銃口が怪しく発光し、ナオキの白いランニングシャツの背中に赤いロックオンサイトが照射される。
「待って! 誤解です! 俺はただ、ダイエット中の中年男で……!」
ナオキが叫ぶが、宇宙人に言葉が通じるはずもない。
ズババババッ!!!
放たれたレーザー光線が、ナオキの足元の宇宙岩石を爆破する。
「うわああああっ! マジで死ぬ! 死んじゃう!」
ナオキの太ももは、すでに限界を超えて乳酸がパンパンに溜まり、ちぎれそうなほど痛んでいた。
心臓は爆発寸前、口の中は鉄の味がする。
実家のリビングから無意識に持ってきてしまった、丸めた雑誌『週刊文瞬』をリレーのバトンのように握りしめたまま、ナオキの意識は朦朧としていた。
その時、タコ型宇宙人たちの戦術通信ネットワークに、奇妙なデータが飛び交った。
『報告! 前方に、反乱軍の新型ステルス生物兵器を発見! 衣服の防備は極めて薄い(シャツと短パン)が、右手に「未知の高密度質量兵器」を携行している!』
『なんだと? あの右手の白い物体は一体なんだ?』
『解析中……成分は……紙。しかし、高度に圧縮された地球の文字情報が記載されており、その質量は我が帝国の装甲を一撃で粉砕する精神的破壊力を秘めている模様! 兵器名、コード「ブンシュン」!!』
『バカな、伝説のスクープ兵器か! 全員、距離を取れ! 決してあの紙筒を振り下ろさせるな!』
宇宙人たちがナオキの持っている雑誌を「宇宙を揺るがす最終兵器」と誤認し、勝手にパニックに陥っていた。
しかし、そんな通信を知る由もないナオキは、ただただ背後からのプレッシャーに怯え、涙を流していた。
(だめだ……もう走れない。俺の、三日坊主のダイエットは、この見知らぬ銀河のゴミとなって終わるんだ。ヒロシ兄さん、義姉さん、さようなら……)
ナオキの膝がガクリと折れ、宇宙の荒野に倒れ込みそうになった、その時である。
極限状態の脳内で、実家の母親の、やたらと声の大きいスピーカーのような声がフラッシュバックした。
『ナオキ、あんたはねえ、「ネズミ年」生まれなんだからね! 昔からちょこまか、ちょこまか動き回って、泥臭く生き延びることだけが取り柄なんだから、簡単に諦めるんじゃないよ!』
――そうだ。俺はネズミ年生まれだ。
ナオキの脳内で、何かが閃光のように弾けた。
ネズミ年生まれ。
十二支の先頭を走り、どんな窮地でもしぶとく生き残る、あのすばしっこい生き物の遺伝子が俺には眠っているはずだ。
だったら、この程度のレーザー光線、ちょこまかと逃げ回って生き延びてみせる!
それに、何よりもだ。
先ほど実家の押し入れの前で、俺をあざ笑うかのようにヒゲをピクつかせ、お前までバカにすんのかと言いたくなるほど露骨に煽ってきた、あの生意気なドブネズミ!
あいつをこの『週刊文春』で引っ叩くまでは、こんなタコ型宇宙人の最新メカなんかに捕まって、たまるかァーーー!!!
「ネズミ年を……なめるなァァァアアアアア!!!」
覚醒。
ナオキの肉体から、これまでの人生で一度も使われなかった謎の潜在能力が解放された。
彼の短い足が、まるで古典アニメのキャラクターのように「ぐるぐるの渦巻き」に見えるほどの超高速で回転を始める。
ドバババババババババッ!!!
猛烈な砂煙を上げながら、ナオキの身体がロケットのように加速する。
最新鋭戦闘メカが放つ、追尾型のホーミングレーザー。
それは完璧にナオキを捉えていたはずだった。
しかし、覚醒したナオキは、干支仕込みの「右への急な直角フェイント」「左への予測不能な切り返し」「地面をえぐるような泥臭いヘッドスライディング」を瞬時に繰り出し、すべての光線をわずか数ミリメートルの差で回避していく。
「ピピピッ!? ターゲットの軌道、計算不可……地球人の機動性、既定値を大幅に超過……やはりあの『ブンシュン』の波動による空間歪みか! バグ、バグ……」
タコ型宇宙人の操縦席で、警告灯が乱舞する。
ナオキの「ちょこまかとした動き」が、宇宙帝国の最新テクノロジーを完全に凌駕していた。
「走れ! 走るんだ俺! 燃えろ脂肪! 待ってろよドブネズミィィィ!!!」
ナオキは、天敵への凄まじい対抗心と干支の誇りだけを燃料にして、広大な宇宙の戦場を、何十キロも、何百キロも、ひたすら爆走し続けるのだった。
4章. 限界突破の逆回転と、驚異の異物排出
現実世界では、のりこさんが最終段階に入っていた。
「はぁ……はぁ……もう、この家には、一粒の塵すら残っていないわ……!」
のりこさんの大掃除は、もはや近所迷惑の域に達していた。
家中のゴミを吸い尽くしたのち、彼女は物置の奥からヒロシが昔集めていた謎の古新聞の山を引っ張り出して細かく千切り、それを吸わせた。
さらに、ベランダに溜まった泥すな、庭のプランターの古い土、しまいには窓からノズルを突き出し、近所の公園から飛んできた落ち葉まで、強引に吸引していった。
のりこさんの髪はボサボサに乱れ、エプロンは土埃で真っ黒。
主婦の限界を超えたその時、掃除機のデジタルインジケーターが、ついに【99%】から【100%】へと切り替わった。
クリスタルのダストカップ全体が、禍々しいほどの真っ赤な光に染まる。
【満杯(FULL):強制逆回転による異物排出シーケンスを起動します】
「……やっと、終わったわね」
のりこさんがノズルを床に放り投げ、数歩後ろに下がった。
「ギュイイイイイイイイイイイイイイイイン!!!!」
パステルグリーンの本体が、これまでの爆音を遥かに凌駕する、地鳴りのような轟音を立てて激しくガタガタと跳ね回った。
傷だらけのボディから摩擦熱で白い煙が立ち上る。
袋とじに書かれていた「強制逆回転」による、強力な異物排出の始まりだ。
ノズルの先端から、猛烈な突風が室内に向かって吹き荒れた。
次の瞬間、「スポン!」と小気味よい音がして、まずあの生意気なネズミが前方のフローリングに排出された。
ネズミは床の上に綺麗に着地すると、「ここはどこだ?」と言わんばかりに目を白黒させている。
しかし、本番はここからだった。
「ブオォォォォォォォン!!!」
大砲が炸裂したかのような大音響とともに、ピンクのノズルから、ものすごい質量を持った物体が前方へと凄まじい勢いで射出(排出)された。
ドサァッ!!!
リビング中央の絨毯の上に、盛大に転がった男が一人。
「う、うお……ここは……実家のリビング……!?」
男は床に四つん這いになりながら、荒い息を吐いていた。
のりこさんは、我が目を疑った。
驚きのあまり、手に持っていたキッチンバサミを床に落としてしまうほどだった。
「え……あなた、本当に、ナオキくん……?」
そこにいたのは、さっきまで玄関先で小太りな体を揺らし、「冷やし中華の麺が……」などと情けない声を上げていた、あのふくよかな義弟では、断じてなかった。
過酷な掃除機内部の宇宙空間において、レーザー光線から生き延びるために、何十キロ、何百キロという距離を死に物狂いで全力疾走させられた結果。
彼の身体からは、長年蓄積されてきた余分な脂肪という脂肪が完全に、項目別に、そして完璧に削ぎ落とされていたのだ。
引き締まった二の腕、うっすらと割れた腹筋、浮き出た鎖骨、モデルのようにシャープに尖った顎のライン。
そこには、見事なまでに【100キロから90キロへ、綺麗に10キロほど激痩せした】、やたらとスタイリッシュなナオキが床に倒れていた。
あまりの激変ぶりに、履いていた紺色の短パンのウエストがガバガバになっており、今にもずり落ちそうだった。
「……ハッ!」
ナオキがガバッと起き上がり、自分の引き締まったお腹に触れた。
「俺……生き延びたんだ。あの宇宙戦争から……。っていうか、身体がめちゃくちゃ軽い! 走れる、今の俺ならどこまでも走れるぞ!」
彼が歓喜の声を上げた、まさにその瞬間だった。
すぐ近くの床で、同じく吐き出されていた例のネズミが、身震いをしてナオキの方を向いた。
宇宙の死闘を生き抜いたナオキの全身から放たれる、ただならぬ修羅の覇気。
ネズミはそれを見た瞬間、本能的な恐怖を察知したのか、短い悲鳴を上げて、大慌てで玄関のほうへとトコトコトコと猛スピードで逃げ出した。
「あいつ……! 待てぇーーー!! まだ勝負はついてねえぞ!!」
ナオキの中で、ネズミ年生まれとしての闘争本能が、完全に沸点を越えて大爆発した。
ナオキは、宇宙戦争を共に生き抜いた唯一の戦友であり、宇宙人から『ブンシュン』と恐れられた、ボロボロのクシャクシャに丸まった雑誌を右手に強く握りしめた。
ベースが細くなったおかげで、かつての小太りな彼からは想像もつかない、オリンピック短距離選手も驚くほどの爆発的な加速と、軽い身のこなしで、逃げるネズミの背中を追いかけてリビングを飛び出した。
「義姉さん、いろいろあったけど、俺、走る楽しさに目覚めました! また今度遊びにきま~す!!」
ガバガバの短パンを左手で必死に押さえながら、やたらと爽やかなイケメンボイスと、一陣の風、そしてわずかな汗の匂いだけを残して、スタイリッシュなナオキは夕日の差し込む外の世界へと猛スピードで走り去っていった。
その速度は、午前中に彼が走ってきた時の優に数倍の速さだった。
パタン、と小気味よい音を立てて玄関のドアが閉まり、リビングには本当の静寂が訪れた。
嵐のような、あまりにも不条理でコミカルな騒動が去り、のりこさんは一人、ぽつんとリビングの真ん中に佇んでいた。
彼女は、数秒間、ナオキが去っていった扉を見つめていたが、やがて小さく首を振った。
「まあ……あそこまで元気なら、何も問題ないわね。お義母さんの言う通り、本当にすばしっこい子だわ」
ナオキくんの心配や、あの異常な激痩せぶりの科学的なメカニズムについては、彼女の中で「本人が満足そうだし、ダイエットも成功したみたいだからよし」として、一瞬で脳の引き出しの最奥へと片付けられた。
それよりも、である。
のりこさんは、ゆっくりと周囲を見回した。
彼女のヘロヘロになりながらの執念の大掃除によって、テレビの裏から、ベッドの下、冷蔵庫の隙間、果ては鴨居の上にいたるまで、一分の隙もなくピカピカに、完璧に掃除し尽くされた自宅内部がそこにあった。
西に傾き始めた美しい夕日の光が窓から差し込み、チリ一つないフローリングの床に反射して、まるで高級ホテルのロビーのように眩しく輝いている。
「……うん。本当に、綺麗になったわ」
のりこさんは深く満足そうに頷くと、ガラステーブルの上に置かれていた、淹れたてだったがこの大騒動ですっかり冷めきってしまったコーヒーのカップを持ち上げ――。
何事もなかったかのように、フローリングの輝きを眺めながら、美味しそうにすするのだった。




