雪太郎(ゾンビ)
〈裸樹が寒き事なら任せろと 涙次〉
【ⅰ】
永田です。『季刊 新思潮』(前回參照)の新人・四条克梓は私が*「死人」だと聞いてびつくりしてゐる。彼は死人が現世で動くのは須らくゾンビだと云ふ誤つた認識を持つてゐた。ところで、皆さんの中でのゾンビつてどんな物なんだらうか。映画や皆さんの大好きなwebコミック、或ひはゲームの傳へるゾンビは虛像である。咬まれると感染する半分腐つた躰の妖魔- と云ふのは、人口に膾炙してゐるけれども、所詮謬りのイメージだ。
* 當該シリーズ第2話參照。
【ⅱ】
本當のゾンビと云ふのは、ヴードゥー教の司祭、若しくは呪術師が使役する蘇りの死体である。と云つても、それは祕藥で豫め假死狀態にされた者を呪術で呼び醒ますだけなので、あの映画の生ける腐乱死體のやうでは、全くない。ヴードゥー教の故郷はハイチである。ハイチ共和國と云つたら現今治安の惡さで惡名を轟かせてゐるが、本來黑人宗教であるヴードゥー教とそれは同根のものかなあ、と私は思つてゐる。白人中心社會の圧政に對抗する手段- ヴードゥー教は、西アフリカの宗教が基督教とミックスされ生まれた、云つてみれば基督教異端の一つである。こゝ迄は、余談ながら私の知識の開陳。これぐらゐの事はAIに訊かずともすらすら云へるのが、小説家と云ふものである。
【ⅲ】
で、私がゾンビの件で思ひ出すのは、* 笹雨雪太郎なのである。** 贋謝遷姫の旦那・孟悟仁は雪太郎共々、カンテラ・じろさんに退治られたが、「現地調逹式神」として孟に利用された雪太郎は、死した後も「ゾンビとしてなら使へる」と仄めかされたものだ。雪太郎は、テオの「擬似母」(テオは實の母を知らない)、「をばさん」こと砂田御由希の實子である。今更元日の話もなからうが、***「をばさん」から來た年賀狀には、テオ様、雪太郎がご迷惑をお掛けしてをりませんでせうか- と書かれてゐた。これぞ本當の「親ごゝろ」である。
* 當該シリーズ第5話參照。
** 當該シリーズ第7話參照。
*** 當該シリーズ第12話參照。
※※※※
〈鍋物のあく掬ふやうにざつとだが若者言葉排除す我が詩 平手みき〉
【ⅳ】
で、雪太郎が何故こんなに執拗に、實母である「をばさん」に心配を掛け續けるのか? とテオは自分に問うてみた。それはきつと、親を持つ(或ひは親を知る)者特有の「甘え」だらう。テオにはさうとしか云へなかつた。ご存知の通り、テオの脳味噌は特別製である。それは同じ味噌でも、「こいつあ本仕込みだ!」と肥えた舌には分かる、髙級な味噌だ。そんな脳裏に浮かぶ雪太郎像は案外陳腐で、常に甘えん坊で我が儘な一人息子像を演じてゐる。
【ⅴ】
だがゾンビに眞のゾンビと大衆受けする誤解含みのゾンビとがあるやうに、雪太郎の實像もさう簡單に摑まへる事の出來るものではなかつた。雪太郎が所謂「子ども食堂」に、年間幾らかは知らぬが、相当額を寄付してゐる事は、テオには到底理解出來ぬ行為であつたらう。罪滅ぼし、と云ふは容易い。然し雪太郎が【魔】である事を考へ併せると、それが尊ぶべき行ひなのは確かだつた。この話にオチはない。散々余談で振り回した挙句それでは申し譯ないが、噓偽りのない雪太郎は、オチを私に付けさせる程面白みのある男ではないのだ。
【ⅵ】
してみると、「をばさん」の抱く心配とは何か。「子ども食堂」の一件だけで、後は何事も崩れ去つた殘骸だけが遺る。テオ、それを知つた時(「PCテオ」-テオの愛機- で調べたのだ)の驚きと云つたらなかつた。同時に、何かにつけステロタイプな思考の枠に縛られない、本當の知性と云ふものを思つた、とか云ふ話は、退屈に過ぎるだらうか。
【ⅶ】
テオにはテオの、雪太郎には雪太郎の、世界把握の仕方がある、と云ふ事を、當面のオチの替はりに、私・永田はさせて貰ふ。何もかもが面白い話では有り得ない、と云ふのが、今の私の置かれた立ち場である。格好を付ける積もりでは、決してない。だが前回云つた通り、貴方が全てがチヤンバラで片付くと信じてゐるなら、この世界などチョロ過ぎる、と云ふものだ。今日も雪太郎は蘇生の機會を窺つて幽冥界を彷徨つてゐる。だがリンボオが非-存在の吹き溜まりだとすれば、人間界は存在のそれなのだ。お仕舞ひ。
※※※※
〈寒月よ珈琲夜に飲む不覺 涙次〉
PS: 雪太郎がカネの有難みを知る、數尠ない【魔】である事は、云ふ迄もない。彼には人間界で世間に「揉まれた」經驗を持つ、「オールド・ウェイヴ【魔】」としての蓄積があつた。テオは、一ぺん雪太郎と、サシで話す機會があればなあ、と思つた。それもこれも、「をばさん」の倖せを鑑みればこその事である。




