第8話 大学
日本に来て、もう1週間が経った。
そして今日から、大学生活が始まる。
朝は早めに起きて、シャワーを浴びたあと、簡単な朝ごはんを済ませる。
鏡の中の自分は、ぱっと見、日本人と変わらない。
最寄り駅まで歩いて電車に乗り、キャンパスの最寄り駅で降りる。
校舎の前では、同じように新入生らしい学生たちが、ちらほらと集まっていた。
「……ここで、いいのかな」
スマホで届いていた案内メールを確認して、指定の教室へ向かう。
教室に入ると、すでに何人かの学生が席に着いていた。
私はひとまず後ろ寄りの席に腰を下ろす。手に持っていたA4の資料を机の上に広げた。
(……オリエンテーション、か)
進行スケジュール、履修登録の方法、学内システムの使い方。
しばらくすると、前方でマイクの音が入った。
「では、時間になりましたので、新入生オリエンテーションを始めます」
スタッフらしき人が淡々と話し始める。
教室は静かで、キーボードを打つ音や、紙をめくる音だけが聞こえる。
ふと、近くの学生がちらっとこちらを見て、すぐに目をそらした。
大学が始まってまだ数分だというのに、視線を感じるのは何度目だろう。
意識していないふりをしていても、空気の揺れ方でわかってしまう。
「ねえ、あの人……」
「なんか雰囲気が違うよね。モデルっぽい」
聞こえないふりをして、メモを取るふりをする。
自分でも、人目を引きやすいのはわかっている。
背筋を伸ばす癖、目線の運び方、全部が少しだけ上品なのだ。
でも、日本に来てから、意識して言葉も動きも少しずつ変えてきた。
「以上で本日のオリエンテーションは終了です。」
ざわざわと椅子が動き、人の流れが生まれる。
私も席を立ち、講義を受けるべく別の教室に向かった。
現代倫理と哲学的思考。
教室に入った瞬間、どこか空気が違うと感じた。
みんな黙々とプリントを読んだり、参考文献らしき本に目を通している。
(この大学の“普通”は、こういう感じか。)
空いていた列に座ってノートを広げた。
教壇に現れたのは、落ち着いた雰囲気の初老の教授。
穏やかに話し出した第一声から、空気が引き締まった。
「問いとは、答えを持たないからこそ、知の出発点になります。今日はその基礎として、ソクラテスとハンナ・アーレントを取り上げます」
スライドには難解な文言も多い。
だが、それがむしろ心地よかった。
(言ってることが、わかる……)
話の構造が明晰で、筋道が通っている。思考の流れに身を預けると、意味がつながっていく。
教授は板書をしながら話すのではなく、問いかけを重ねながら、受講生に考えさせるタイプだった。
迷わずノートに要点をメモし、思いついた仮説や疑問を小さく書き込んでいく。
(これは……楽しい)
気がつけば、90分があっという間だった。
「それでは、次回は『悪とは何か』という問いから始めましょう」
教授の言葉とともに、教室のざわめきが戻る。
プリントをまとめながら、私は自然と口元がゆるんだ。
(ちゃんとした場所に来た、という感じがする)
周囲の学生たちも優秀で、真剣だった。
何より、話す内容が薄っぺらくない。
こういう授業なら、もっと聞いてみたい。
(この世界でも、私は学び続けていけそう)




