第65話 安心
私は講義を終えて、図書館に寄った帰りだった。参考書とノートを抱え、校舎の渡り廊下を歩く。
そのとき――背後から甲高い声が響いた。
「ねえ、篠原さん」
振り返ると、鮮やかなワンピースを揺らしながら歩いてくる女子の姿があった。北村。自称社長令嬢を名乗り、つい先日も隼人さんにしつこく声をかけていた人だ。今日も取り巻きを二人従えていて、その足取りはまるで舞台に立つ女優のように堂々としている。
「……こんにちは」
私は落ち着いた声で挨拶をした。けれど、彼女の目は鋭い。
「偶然ね。早乙女さんは一緒じゃないの?」
「今日は別行動です」
正直に答えると、彼女の唇が小さく歪んだ。勝ち誇ったようなその表情に、胸の奥が少しざわつく。
「ふぅん。あの人って、本当にあなたみたいな子に興味があるのかしら? 私にはとてもそうは思えないのよね」
取り巻きたちが小さく笑う。その声音は、表面的には楽しげなのに、棘を含んでいる。
「……それは、あなたの自由な解釈です」
私は短く返し、歩みを進めようとした。けれど北村さんは前に回り込み、私の行く手を塞ぐ。
「まあ、そんなに睨まないで。ちょっとした“忠告”よ」
そう言って彼女はわざとらしくバッグを揺らし、中からハンカチを取り出した。白地にブランドのロゴが刺繍されているそれを、わざと私の腕にぶつけるようにして落とした。
「あら、ごめんなさい。拾ってくれる?」
取り巻きがくすくすと笑う。些細なこと。ほんの小さな嫌がらせ。けれど、わざとであることは明らかだった。
私はしゃがみ込み、落ちたハンカチを拾い上げて手渡した。
「どうぞ」
短く言うと、北村は満足げに微笑んだ。
「ありがとう。あなた、案外素直ね」
背筋を伸ばし、私にわざとぶつかる。参考書が手から落ちた。
そしてそのまま立ち去っていく。取り巻きが小声で「つまんない」と囁くのが耳に残った。
――深呼吸。胸の奥に小さな棘が残ったようで、心がざわついている。たいしたことじゃない。だけど、わざわざ人を傷つけようとする態度に、どうしても胸が苦しくなる。
(大丈夫。私は……大丈夫)
自分に言い聞かせながら、重い足を引きずるようにマンションへ戻った。
◇
鍵を回すと、部屋の中から柔らかな灯りが漏れていた。リビングに入ると、そこに隼人さんの姿があった。ジャケットを脱いでシャツの袖をまくり、キッチンに立っている。
「おかえりなさい、星羅さん」
穏やかな声。その瞬間、胸に張り詰めていたものが解け、足が自然に彼の方へ向かっていた。
「……隼人さん」
気づけば、手を伸ばして抱きついていた。彼の胸に顔を埋め、腕に力を込める。隼人さんは驚いた様子もなく、すぐに片腕で私を抱き寄せた。
「どうしましたか?」
低く落ち着いた声が頭上から降ってくる。その声だけで、涙がにじみそうになる。
「……少し、疲れただけです」
正直に全部を話す気にはなれなかった。けれど、彼の温もりに触れているだけで心が落ち着いていく。
隼人さんの手が、背中をゆっくりと撫でる。
「……大丈夫ですよ。俺に任せてください」
その一言に、胸の奥がじんと熱くなる。私は顔を上げ、彼を見つめた。穏やかな眼差し。私の不安をすべて受け止めてくれるような光。
「……隼人さんがいるから、何でもできるような強い気持ちでいられるんです」
口からこぼれた本音に、自分でも驚いた。けれど、それが紛れもない真実だった。
隼人さんはわずかに目を細め、唇の端を柔らかく上げる。
「その言葉を聞けて嬉しいです。なら、これからもずうっと隣にいて、力になります」
真っ直ぐな宣言。胸が高鳴り、頬が熱を帯びる。
「……ありがとうございます」
小さく囁くと、彼は私をもう一度しっかりと抱き寄せた。その腕の力強さに、心が安らいでいく。
◇
夜。ソファに並んで座り、隼人さんが用意してくれた温かなスープを口にする。優しい味が、心にも染み渡る。
昼間のざわつきは、もう遠い記憶のように感じられた。
――隼人さんがいる。だから、私は大丈夫。
そう思えることが、今の私にとって何よりの力だった。




