第64話 正論
私は講義を終え、参考書を抱えて教室を出たところだった。廊下の窓からは、風に揺れる木々の影が映り込んでいる。歩みを進めるだけで心が落ち着くような、穏やかな午後だった。
けれど、その静けさを乱す声が背後から響いた。
「ねえ、ちょっと篠原さん」
振り返ると、三人ほどの女子が立っていた。華やかな服装に身を包み、明らかに「群れ」の雰囲気を纏っている。その視線には、好奇心と敵意が入り混じっていた。
「……何か、御用ですか?」
私はできるだけ柔らかい声で応じた。だが、彼女たちは笑みを浮かべながらも、目は笑っていなかった。
「この前の広場でのこと、見てたんだよね。あの、社長令嬢である北村さんを無視して、早乙女さんとだけ話してたやつ」
「……あぁ」
社長令嬢は北村というらしい。
胸の奥が一瞬ざわつく。けれど私は表情を変えずに彼女を見つめた。
「正直、どういう関係なのか気になってたんだけど……やっぱり“恋人”っていうの、本気なの?」
その問いには、挑発めいた響きがあった。周囲を取り巻く学生たちがこちらにちらりと視線を寄越すのが分かる。空気がわずかに緊張した。
「ええ。本気です」
私ははっきりと答えた。
取り巻きの一人が鼻で笑った。
「信じられないよ。だって、早乙女さんみたいな完璧な人が、どうしてあなたなんかを?」
“あなたなんか”――その言葉は鋭い刃のように突き刺さる。けれど、私は怯まなかった。深く息を吸って、落ち着いた声を紡ぐ。
「どうしてか……それは、私にも分かりません。でも」
私は一歩踏み出して、彼女たちの目を真っ直ぐに見つめた。
「彼が誰を選ぶかは、彼自身の自由です。誰が値するかなんて、他人が決められることではありません」
静かに、けれど強い響きを持たせて言葉を置く。取り巻きの顔がわずかに引きつった。
「……でも、見合わないでしょ」
別の一人が悔し紛れに言い返す。私は小さく首を振った。
「見合うかどうかなんて、外から見て判断できるものじゃありません。私たちが一緒にいる時間の中で、互いにどう感じているか――それがすべてです」
返す声は、自分でも驚くほど穏やかで落ち着いていた。かつてなら震えていたかもしれない。けれど今は、胸の中に確かな自信があった。
沈黙が落ちる。取り巻きたちは互いに視線を交わし、言葉を探すように口を開いたが、結局何も返せなかった。やがて、苛立ちを隠せない様子で吐き捨てる。
「……ふん、言わせておけば」
彼女たちは踵を返し、ヒールの音を響かせながら去っていった。残されたのは私一人。廊下に再び静けさが戻る。
胸の奥に残る鼓動を感じながら、私はゆっくりと息を吐いた。
(……言えた。ちゃんと、自分の言葉で)
そのとき――背後から落ち着いた声がした。
「立派でしたね」
振り返ると、そこには隼人さんがいた。いつものように静かに立ち、私を見つめている。
「……隼人さん、聞いていたんですか?」
「はい。少し離れたところから。」
彼の目には、淡い光が宿っていた。誇らしげな、それでいて優しい眼差し。私は顔が熱くなるのを感じた。
「……正直、怖かったです。でも、ちゃんと伝えたいと思って」
「十分に伝わっていましたよ」
隼人さんは穏やかに言い、私の手を取った。その手はいつも通り落ち着いていて、包み込むように温かい。
「星羅さんが自信を持ってくれるのは、私にとっても何より嬉しいことです」
その声に、胸の奥がじんと温かくなる。
「……ありがとうございます。隼人さんがそばにいてくれるから、強くなれました」
そう告げると、彼は少し目を細めて微笑んだ。そして周囲に誰もいないことを確かめるように視線を巡らせ、そっと私を抱き寄せた。
広い胸に頬を寄せると、緊張がほどけていく。彼のシャツ越しに伝わる体温が、心の奥まで染み込むようだった。
「これからも、何があっても私が隣にいます」
その言葉は宣言のようで、同時に誓いのようだった。
「……はい」
私は静かに頷いた。外の世界がどう見ようと関係ない。この人がいてくれる。それだけで、私はどこまでも前を向ける。




