第63話 自称
大学のキャンパスに風が吹き抜ける午後。どこかしっとりとした空気を纏っていた。私はいつものように隼人さんと一緒に、図書館から出て芝生の広場へ向かっていた。手には借りた参考書と、隼人さんが選んでくれた英語論文のコピー。難解だけれど、彼と一緒ならなぜか読み解けそうな気がする。
「ここで少し読みましょうか」
隼人さんが広場のベンチを指さす。柔らかい声に頷いて並んで腰を下ろすと、すぐ近くから聞こえてくる学生たちのざわめきが耳に入った。ちらちらとこちらを見る女子たちの視線も。けれど、もう慣れてしまった。隼人さんは誰に見られても気にせず、淡々としているから。
「星羅さん、この段落の意味は?」
「えっと……こういうことだと思います」
私は指で文章を辿りながら、自分なりの解釈を話す。すると、隼人さんが小さく微笑んで「よく理解できています」と頷いてくれた。その一言だけで胸が温かくなる。
そんな穏やかな空気を裂くように、甲高い声が響いた。
「わあ、偶然!ここで会うなんて」
顔を上げると、派手なワンピースにブランドバッグを抱えた女子が立っていた。見覚えはある。以前絡んできた、いわゆる自称社長令嬢だ。
「早乙女隼人さん、ですよね? あなたのこと、聞いたことあります…!優秀で頼りになるって」
以前とは違い、高い声で話している。彼女は一歩近づき、当然のように私を視界から外した。視線はただ隼人さんだけを追っている。
「今度、私の父の会社のパーティーに来ませんか? 特別に招待してあげますよ!」
その声音は、自信と優越感でいっぱいだった。私は思わず唇を噛む。あからさまに私を無視して、隼人さんにだけ話しかけるなんて。
けれど――隼人さんの反応は冷ややかだった。彼は本から視線を上げることもなく、淡々とページを捲る。
「興味ありません」
短く、それだけを告げた。その声音には、相手に対する関心が一切含まれていない。まるで風をあしらうように。
「えっ……? で、でも……」
「星羅さん、この部分のニュアンスも一緒に確認しておきましょう」
隼人さんは自称令嬢を完全に無視し、隣の私へと自然に身体を向けた。穏やかな目が真っ直ぐに私を見ている。その瞬間、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。
「は、はい……」
戸惑いながら返事をすると、彼は当たり前のように私の持つコピーを指で示す。その距離が近くて、私は心臓の鼓動を抑えきれない。
自称社長令嬢は明らかに面白くなさそうな顔をしていた。プライドを傷つけられたのだろう。だが、隼人さんは一切気づかないふりをして、私とだけ言葉を交わし続けた。
「こ、この私を無視するなんて……!」
彼女は悔しげに足音を響かせて去っていった。残されたのは、私と隼人さんだけ。秋風がふっと頬を撫で、さっきまでの騒がしさが嘘のように静けさが戻る。
「隼人さん……いいんですか? あんな風に」
「問題ありません。俺にとって大事なのは、あなたですから」
その言葉は淡々としているのに、心に真っ直ぐ突き刺さる。私は思わず顔を伏せ、頬が熱を帯びるのを誤魔化そうとした。
「……ありがとうございます」
小さな声でそう返すと、隼人さんは静かに目を細めて笑った。その笑みは、誰に向けたものでもなく、確かに私だけに向けられているものだった。
図書館帰りの静かな午後。私たちの影は並んでベンチに落ち、どこまでも重なって伸びていく。騒がしい誰かが割り込んできても、この時間を乱すことはできない。私と隼人さんだけの空気が、確かにここにあった。




