第59話 撃ち抜かれ(隼人視点)
大学に通うようになってから、もう何度こういう場面に遭遇しただろう。
背後から駆け寄ってきて、突然腕にしがみつかれる。甘ったるい声で名前を呼ばれる。何度も耳にした台詞――「ずっと好きでした」「一度だけでもいいから食事を」……。
だけど。
そのすべてが、俺にとってはただの雑音だった。
俺の腕に触れてきたその手も、押しつけられる体温も、何一つ響かない。心臓が跳ねることも、視線を奪われることも、微塵もない。
俺が欲しいのは一人だけだからだ。
「……離せ」
できるだけ感情を込めずに告げる。掴まれた手を軽く振り払うと、相手は驚いたように目を見開いた。拒絶されたことが信じられない、そんな顔。
「でも、私――」
続けようとする声を無視し、俺は歩き出す。
すぐ隣にいる星羅さんの手を、当然のように取って。
その瞬間、胸の奥に静かに熱がこみあげてくる。周囲がどんな視線を向けてきても、どうでもいい。俺が欲しいのは、星羅さんだけ。
他の何も必要ない。
――そうだ。俺は本当にどうでもいいんだ。
どれだけ告白されても、どれだけ体を寄せられても、心は一切揺れない。星羅さんじゃなければ、意味がない。
俺は彼女に触れることしか望んでいない。彼女の声を、笑顔を、仕草を、全部俺だけのものにしたい。それ以外は、存在する価値すらない。
時々思う。俺は異常なのかもしれない、と。
けれど、もう構わなかった。
――狂気じみていようが、独占欲にまみれていようが、星羅さんだけは俺を受け止めてくれる。だから大丈夫。
□
数日後の夜。
星羅さんが俺の部屋に来て、講義のノートを広げていた。静かな時間。エアコンの風がふわりと髪を揺らし、ペン先が紙をなぞる音が心地いい。
そんなときだった。
「……あれ?」
星羅さんが首を傾げながら立ち上がり、洗濯しておいた衣類の山から一枚のシャツを取り上げた。
それは俺が普段着ている大きめのシャツ。白地に細いストライプの入った、ゆったりしたサイズ感のものだ。
星羅さんがぱたぱたと隣の部屋に駆け込む。
やがて、星羅さんはためらいがちにこちらを見た。…俺の服を着てくれてる。星羅さんにとっては大きめだからか、裾も太ももまで覆って、まるでワンピースみたいだった。
そして、俺の視界が一瞬で奪われた。
――可愛い。
呼吸が止まりそうになる。胸が痛いほど高鳴って、視線を逸らせなくなる。
彼シャツ。
言葉にすれば単純だけれど、実際に目にすると破壊力が強すぎた。無防備に俺のシャツを身にまとっている彼女の姿が、あまりに反則的で。
「……すごく、可愛いです」
気づけば、言葉が漏れていた。
星羅さんがはっとして顔を上げる。その瞳が大きく揺れて、頬がみるみる赤く染まる。
「えっ、え……ちがっ……これは、その、ちょっと羽織っただけで……」
「いいえ」
思わず立ち上がって、彼女の肩をそっと掴んだ。
「そのままでいてほしいです」
「……え?」
「部屋着は、それにしてください。俺のシャツを着ている星羅さんが……可愛すぎて、もう目を離せません」
言いながら、自分の声が震えているのが分かった。
彼女は戸惑ったように瞬きを繰り返し、俺を真っ直ぐに見上げてくる。その視線が、驚きと困惑と、少しの喜びを混ぜ合わせて揺れていた。
――ああ、この表情を独占できるのは、俺だけだ。
そう思った瞬間、心の底からぞくぞくと熱が沸き上がった。
「……隼人さん、そんな目で見ないでください」
「無理です」
はっきりと答える。
「俺の目は、星羅さんしか映さないんです」
言葉に合わせるように、彼女の腰へと手を回す。布越しに伝わる体温が、甘い痺れになって全身を包み込む。
彼女は驚いたように肩を震わせた。けれど逃げなかった。
そのことが嬉しくて、さらに強く抱きしめる。
「……本当に、可愛い」
「や、やめてください……そんなに見つめないで」
「無理です」
同じ言葉を繰り返す。
無理なんだ。本当に。
彼女が俺のシャツを着て、俺を見上げてくれている。その姿が嬉しくて、愛おしくて、どうしようもない。
俺はゆっくりと彼女の頬に指先を添え、その瞳を覗き込んだ。
「俺だけに、それを見せてください。他の誰にも、絶対に」
彼女は息を詰めて、何も言えずにいる。
その沈黙さえも、俺には甘美だった。
――俺は、やっぱり異常だ。
でも、それでいい。
星羅さんがこのまま、俺の隣にいてくれるなら。
□
彼女は結局、俺のシャツを部屋着にしてくれた。恥ずかしそうに裾を揺らしながら、ソファに座る姿。
その光景を、俺は一生忘れないだろう。
「……ありがとうございます。似合ってるって言ってもらえて、嬉しいです」
小さな声でそう呟いた星羅に、俺は思わず笑みを零した。
「嬉しいのは、俺の方です」
彼女の頬に触れながら、囁く。
「俺のシャツを着て、俺の隣にいる。こんな幸せ、他にない」
星羅は驚いたまま、まっすぐに俺を見つめていた。
その視線ごと、俺は抱きしめて離さなかった。
――もう二度と、誰にも渡さない。
心に、改めて強く刻み込む。
彼女が俺にとってすべてだ。
他の誰かの想いも、視線も、言葉も、全部無意味。
俺には、星羅さんがいる。
それだけで、いい。




