第58話 答え
昼下がりのキャンパスは、やわらかな風が吹いていて、初夏の気配を感じさせた。
その日も私は隼人さんと一緒に講義を受けて、並んで校舎を出てきた。廊下を歩くだけで注目を浴びるのは、もう当たり前になりつつあった。けれど、まだ心臓が慣れない。ざわめきや囁き声が耳に入るたび、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
「今日、午後はスイーツ食べに行きませんか?」
「はい……一緒に」
隼人さんは何事もなかったように笑う。その自然さに胸が温かくなるのと同時に――ふいに背後から聞こえてきた甲高い声に、私は足を止めた。
「早乙女くん!」
振り向くと、二人の女子学生が駆け寄ってくるところだった。どちらも明らかに化粧も服装も気合いが入っていて、目立つ。
一人が息を弾ませながら隼人さんの前に立ちふさがった。
「少しだけ……話せますか?どうしても伝えたいことがあって」
そう言うなり、彼女は一歩踏み出し、隼人さんの腕に自分の手を重ねた。
「え……」
私は思わず息を呑んだ。彼女はさらに距離を詰め、胸をぐっと押しつけるようにしながら、上目づかいで見上げている。
「ずっと好きだったんです。今日こそ伝えようと思って……」
笑顔を作っているけれど、その目は真剣で、欲望に揺れていた。
頭が真っ白になった。
――こんなふうに、堂々と……?
体が固まり、声も出ない。ただ見ているしかできなかった。胸の奥に、冷たいものが広がっていく。
だけど隼人さんは――。
「……無理」
低く淡々とした声でそう言うと、彼女の手を軽く振りほどいた。まるで小さな埃でも払うように。
次の瞬間には、私の手を取り、何事もなかったように歩き出していた。
「隼人さん……」
「行きましょう、星羅さん」
彼の横顔は微動だにしない。
振り返ると、残された女子の顔が驚きと屈辱に歪んでいた。けれど彼は一瞥もくれなかった。まるで存在していないかのように。
私は歩きながら、胸が痛いほど締めつけられるのを感じていた。悲しさ、安堵、混乱――全部がぐちゃぐちゃになって。
「……怖い顔してますね」
ふいに隼人さんが笑った。けれどその声は冷たく、鋭かった。
「俺は、誰にも触れさせるつもりはありません。星羅さんだけです」
その言葉に、全身が熱くなる。嬉しいのに、泣きたくなった。
――私は、こんなにも独占されている。
□
数日後。
今日は朝日ちゃんと一緒に昼休みを過ごしていた。彼女は私と違って飾らない雰囲気で、誰とでも気さくに話せる。けれど、時折こちらをじっと見つめる目は鋭い。
「最近、早乙女くんとよく一緒にいるね!」
「……うん」
「羨ましいっていうか、すごいなあって思う」
彼女の声は明るいけれど、その奥に何かを探るような響きがあった。私は苦笑して誤魔化す。
そんなときだった。
「あれ、早乙女くんじゃない?」
朝日ちゃんが指さす方を見ると、少し離れた場所に隼人さんが立っていた。二人の女子学生が彼を囲むように話しかけている。
遠目にも分かる、緊張と必死さ。片方の子は赤い顔で、何かを訴えるように言葉を重ねていた。
「……また、告白……?」
小さな声が漏れる。胸がざわめいて、呼吸が浅くなった。
隼人さんは静かに話を聞いているように見えた。けれど決して笑ってはいなかった。その無表情さが逆に怖い。
そして――。
片方の子が突然、泣き出した。肩を震わせ、顔を両手で覆いながら、その場にしゃがみ込む。
「……っ」
喉の奥が詰まり、言葉にならなかった。胸が痛い。苦しい。
私は一歩、そちらに踏み出しそうになった。けれど、その腕を朝日ちゃんが掴んだ。
「星羅ちゃん」
低い声。振り向くと、彼女の目が真っ直ぐに私を射抜いていた。
「大丈夫。早乙女くんは、星羅ちゃんしか見てないよ」
「……でも……」
「分かるもん。あの視線、あの態度。全部、星羅ちゃんにだけ向いてる」
真剣すぎる声に、体が固まる。
あれ、でも……どこを見ているんだろう。視線が斜め上だ。
朝日ちゃんは私の腕を掴んだまま、さらに強く言った。
「安心して。星羅ちゃんは愛されてる。誰にも割り込めないくらい、重く」
その言葉が、胸に深く刺さった。
――重く。
まるで、隼人さんの独占欲そのものを代弁しているようで。
私は視線を戻す。泣いている子を背にして、隼人さんは淡々と立ち去ろうとしていた。誰にも触れさせず、誰の感情にも揺れず。ただ、私の方角へと歩き出していた。
その姿を見た瞬間、涙がにじんだ。
「……隼人さん」
心の中で呼んだ声は、誰にも届かない。けれど、彼は振り返らなくても分かっているような気がした。
――私だけを、見ている。
その日の夜、私は隼人さんの胸に顔を埋めていた。
彼は静かに髪を撫でながら言う。
「俺には星羅さんがいれば大丈夫。誰よりも、ずっと愛しています」
冷たい声なのに、その腕は優しく強く、私を抱きしめていた。
「だって、俺が欲しいのは星羅さんだけだから」
その囁きが、全身に染み渡る。
胸の奥の不安が、溶けていく。彼に抱きしめられている限り、私は確かに「選ばれている」のだ。
「……ありがとうございます。私、信じます」
「ふふ。信じなくても、逃がしませんけど」
笑いながら、彼はさらに抱き締めた。
その強さに、苦しいのに、心地よくて――もう何も考えられなかった。




