第52話 甘い囁き
時計の針が九時を指した頃、私はリビングでそわそわと座っていた。飲み会なら十一時くらいまでかかるだろうと聞いていたから、まだ帰ってこないだろうと分かっていたのに――玄関のドアの音がして、胸が跳ねた。
「……隼人さん?」
立ち上がるより早く、黒い影がリビングの扉を押し開ける。彼は帰ってきていた。時間はまだ九時を少し過ぎたばかり。思わず瞬きを繰り返す私に、隼人さんは何の迷いもなく近づいてきて、両腕で抱き締めてきた。
「……っ」
息が詰まるほど強く、けれど乱暴ではない。ただ一瞬で私を自分の胸に押し込める。耳元で低く囁かれる声が震えを誘った。
「……愛してる」
心臓が大きな音を立てて跳ねる。夜の静けさに、その鼓動さえ彼に聞こえてしまいそうで怖いのに、どうしても離れられない。
「……どうして、こんなに早く?」
やっと絞り出した声に、隼人は私の髪を撫で、頬をかすめるように唇を寄せてきた。ほのかにアルコールの匂いがする。でも顔は赤くなく、目も澄んでいる。酔っているのか、分からない。だから余計に怖い。けれどその怖さの奥に、甘く痺れる安心感が潜んでいる。
「……だって、早く星羅さんに会いたかったんです」
耳に落ちたその言葉に、胸が熱くなる。彼が嘘を言っているようには思えない。けれど、本当にそうだとしたら――どうしようもなく幸せで、同時に逃げ場をなくしていくようで。
隼人さんはそのまましばらく離してくれず、やっとゆっくり腕を解くと「少し着替えてきます」とだけ言って寝室に向かった。私は玄関に残された彼のコートを片づけ、胸を押さえて深呼吸する。鼓動がまだ速い。
そして数分ほど後。部屋着に着替えた隼人さんが戻ってくると、当然のように私の腕を取ってソファへと腰を下ろした。驚く暇もなく、彼は私をその膝の上に抱き寄せる。片手をしっかりと私の腰に回し、もう片方の手で私の手を絡めた。
「隼人さん……?」
呼びかけても、彼は何も言わずに首元に頬を寄せてくる。指先が絡み合い、彼の手の熱が直に伝わってくる。視線を向ければ、執着の色を宿した笑みがそこにあった。優しいのに、底知れない独占欲を隠そうともしない微笑み。
「……ずっと、俺に囚われていてください」
囁きが耳の奥を震わせる。腰を押さえる手が、私を離すつもりがないことを主張していた。抗う気持ちもあるのに、それ以上に心が揺れる。怖いのに、嬉しい。自由を失っているのに、なぜか解放されていくようでもあった。
「……隼人さん……」
呼ぶしかできない。声が震えているのに、彼は微笑を崩さない。さらに指先を強く絡めてきて、低く甘い声で囁いた。
「逃がしませんから。一生」
目が合った。深い黒の瞳に飲み込まれていく。酔っているように見えなくても、どこか普段より言葉が強い。それが酒のせいか、もともとの彼の心か、私には分からなかった。でも、どちらでもよかった。彼が本気で言っていることだけは、痛いほど伝わってきたから。
胸の奥が、切なさと幸福感でいっぱいになる。私は彼の肩に顔を埋め、そっと囁き返した。
「……私は。ずっと隼人さんのものです」
彼の腕が、さらに強く私を抱き締めた。腰に回された手の力が、逃げ道を塞ぐように確かだった。それでも、怖さよりも温かさに包まれている。自由を差し出してしまっても構わないと思えるほど、私は彼を愛してしまっている――。
その夜、彼の膝の上で囚われ続けながら、私は胸の奥で「幸せ」という感情を感じていた。




