第49話 幼い頃のアルベルト視点
俺は、あの頃まだ十にも満たなかった。
礼儀や規律を叩き込まれていた。
感情を表に出すことは弱さだと教えられ、笑うことは無駄だとすら思っていた。
だからだろう。俺の世界は、ただ淡々とした色をしていた。
何もかもが馬鹿馬鹿しかった。
食事も勉強も訓練も、全部「こなすこと」。
目に映る景色はあっても、心を揺らすものはなかった。
けれど――彼女と出会った日、そんな世界に不意に色が差し込んだ。
初めて主家の庭園に足を踏み入れたのは、春のやわらかな風が吹いていた日だった。
俺は大人たちに連れられ、「これから仕えることになるお嬢様」に挨拶をした。
淡い金髪を陽に透かしながら、彼女――セレスティア様は笑っていた。
まだ小さな少女だったはずなのに、その笑顔は不思議とまぶしく、俺を射抜いた。
「これからよろしくね」
彼女の声は、幼いながらも澄んでいて、俺は思わず頭を下げることしかできなかった。
返事をする声も、ぎこちなかったと思う。
俺の中では、「仕える相手」という認識しかなかった。
そして、興味を持つことはなかった。
それなのに。
日を追うごとに、彼女は俺に声をかけてきた。
「アルって呼んでいい!?」
「ねえ、アル」
「今日はどんな本を読んでるの?」
「一緒に遊ばない?」
最初は戸惑った。従者と主は、そんなふうに並んで話すものじゃない。
俺は何度も答えを飲み込み、ただ短く「はい」「いいえ」と返した。
けれど、彼女は気にしなかった。
むしろ楽しそうに笑い、俺の袖を引っ張って庭園へと連れ出す。
その小さな手の温かさが、妙に強く残った。
握り返すことはできなかったが、拒むこともできなかった。
ある日、庭園で彼女が花を摘んでいた。
色とりどりの小さな花々が咲き誇る中で、彼女は楽しそうにしゃがみ込み、ひとつを摘み取る。
「はい、これあげる」
俺の前に差し出されたのは、小さな白い花だった。
細い指先に挟まれた花は、揺れるたびに甘い香りを放った。
受け取るべきか迷った。
従者が主から花をもらうなんて、規律に反するのではないか、と。
だが、彼女はにこにこと笑って待っていた。
拒めるはずがなかった。
「……ありがとうございます」
小さくそう言って花を受け取った瞬間、胸の奥に熱が走った。
何をどう感じているのか、そのときはまだ分からなかった。
ただ、彼女の笑顔を見て「悪くない」と思った。
その感情に戸惑った。
俺が「興味を持つ」などあってはいけないはずなのに。
それからも、彼女はよく俺に話しかけた。
「今日も失敗した…どうして完璧になれないんだろう」
たまに弱さを見せてくれることもあった。
ほとんどは、俺がその場面に鉢合わせただけだったが。
「アル、ずっと一緒にいてね!」
何のためらいもなく呼ばれたその響きが、妙に心地よかった。
従者として扱われるのではなく、ただ「一人の人間」として見てもらえた気がしたからだ。
その日から、俺は少しずつ変わっていった。
彼女にだけ笑顔を向け、彼女の言葉を待つ自分がいた。
声をかけられると、心が静かに波立つのを感じるようになった。
たとえ、俺が悩んでいたとしても。
「アル。大丈夫。絶対、大丈夫だから。だって、私の従者だもの!」
彼女の瞳はきらきらと輝き、俺の手をぐいと引いた。
掌の感触が伝わってくる。
「……俺は」
ただ楽しそうに笑い、隣を歩く。
胸の奥が、熱くなる。
それが何なのかはまだ知らない。
けれど、決して嫌ではなかった。
やがて季節が巡っても、彼女の無邪気さは変わらなかった。
花を摘んでは俺に差し出し、名前を呼んでは笑う。
その一つひとつが、俺の中に蓄積していった。
気づけば、彼女の笑顔を見るたびに胸が高鳴るようになっていた。
守りたい、という感情も芽生え始めた。
従者としてではなく、もっと個人的な衝動として。
俺は幼いながらに、それを必死に押し殺した。
「仕える以上の気持ち」を持つことなど許されない、と自分に言い聞かせながら。
だが、心は正直だった。
彼女が微笑むたびに、俺の世界は少しずつ色を取り戻していった。
灰色だった景色が、淡い色彩に満ちていく。
あの頃の俺は、まだ「愛」という言葉を知らなかった。
けれど――それが芽生えの瞬間だったのだと思う。
彼女に近づく無礼な輩は密かに排除し、危険を知らせずに解決した。
もっとも、王太子と婚約することになったときは衝撃を受けたが、彼女の優秀さに耐えられない馬鹿だった。
振り返れば、あの花を受け取った日から、俺の心はもう彼女に縛られていた。
主従の枠を超えて。
幼いながらも、彼女だけを大切にしたいと願っていた。
無表情で、笑うことのなかった少年が。
ひとりの少女の笑顔に、心を奪われていた。
そしてその想いは、年月を経ても消えることはなく。
今もなお――俺の胸の奥で燃え続けている。




