第40話 大学復帰
朝の空気は少しだけ湿っていて、夏の気配を纏いながら私の頬を撫でた。
窓の外には、青く澄んだ空。蝉の声が、遠くでかすかに響いている。
私はその音を聞きながら、そっとページをめくる。手元には大学の参考書――あの頃から、ほとんど開くことができなかった本たち。
でも今は違う。
もう一度、学びたい。戻りたいと思っている。
「……大学、行きたいな」
呟いたその言葉は、自分でも驚くほど自然だった。
いつからか。彼と過ごす毎日は穏やかで、優しくて。逃げたいと思っていた“世界”は、少しずつ私の中で色を変えていた。
けれど、それでも足りなかった。
ただ守られるだけじゃ、私は変われない。
そう思っていた。
その日の夕方。
キッチンで隼人さんが料理をしている。その姿も見慣れてきてしまった自分に、少し笑ってしまう。
「隼人さん」
背中越しに声をかけると、彼は手を止め、優しく振り返った。
「はい。星羅さん、どうかしましたか?」
私は、胸の前でぎゅっと指を組んで、一度だけ深く息を吸った。
「……大学に、戻りたいんです」
瞳が、一瞬だけ揺れた。
「……大学、ですか」
「はい」
小さく頷くと、彼はゆっくりと火を止め、鍋から手を離した。
「……今のままじゃ、だめですか?」
「だめじゃないです。でも、これじゃ――私、隼人さんの隣に、立てない気がして」
彼の目が、ふと鋭くなった。
「……隣?」
「隼人さんは、会社の社長で、すごい人で。ファンもいっぱいいて……。そんな人の隣に、ただ“守られてるだけの女の子”じゃ、ダメだって思ったんです」
目を伏せると、心臓が早鐘のように鳴っていた。
「ちゃんと、話せるようになりたい。あなたの世界のことも、仕事のことも、夢も、悩みも、全部。分かりたいんです」
私の声は、震えていたかもしれない。
けれど、それが本心だった。
隼人さんのことが好きだから。もっと知りたい、隣にいたい。だから、今の私じゃだめなんだ。
隼人さんはしばらく無言だった。
静かな時間だけが流れる。
やがて、低く、静かな声が返ってきた。
「……星羅さん」
「はい」
「危険なんですよ」
「え?」
「あなたを狙ってる人たちは、まだ消えていません。外に出ること自体、リスクがあります。大学に通うなんて、余計に――」
「でも、私は……朝日ちゃんとも、話したいことがあるし、ちゃんと、自分のことを見つめ直したいんです」
彼の言葉を遮って、私は必死に訴える。
「いつまでもこのままじゃ、ダメだって思うんです。そして何より、私が、隼人さんの隣に立ちたい」
その言葉に、隼人さんはふと目を伏せ、息を吐いた。
「……そうですか」
それは、拒否でもなく、賛成でもなかった。
「星羅さん」
「……はい」
「俺の隣に立ちたいと思ってくれたこと、嬉しかったです。本当に」
目が合う。
その瞳は、どこまでも優しくて、そして――少しだけ寂しそうだった。
「でもね、俺は……守りたいんです、あなたを」
「……」
「過保護かもしれない。でも、それくらいのことをしたって、全然足りないって思ってる」
彼はそっと近づいて、私の手をとった。
「それでも行くというなら、条件があります」
「条件……?」
「俺に、星羅さんの手料理を作ってください」
「……そんなことでいいんですか?」
私は、迷わず頷いた。
その空気が、ほんの少しだけ、未来を感じさせた気がした。
□
そして数日後。
私は、久しぶりに大学のキャンパスを踏んでいた。
まだ夏休み期間中だけど、図書館や一部の講義室は開いていて、そこに通う学生もちらほらいる。
その中に――懐かしい声がした。
「……星羅ちゃん?」
振り返ると、そこに朝日ちゃんが立っていた。
「やっぱり……! 星羅ちゃんだ!!」
駆け寄ってきた彼女は、変わらぬ笑顔を向けてくれた。
「うそ……星羅ちゃん、ほんとに戻ってきたんだね。大丈夫だった?ずっと連絡とれなかったから……心配してたんだよ」
私は思わず、涙がこぼれそうになった。
だけど、笑って答える。
「うん。……私、大丈夫だった。」
朝日ちゃんは、ぎゅっと私の手を握った。
「会えて嬉しいよ」
「私も」
それだけで、あの時間の痛みが少しだけ癒えた気がした。
今なら話せる。
まだ全部は話せないけど、少しずつ――私の言葉で、私の意思で。
□
その日の帰り、キャンパスの外で待っていた黒い車の中。
運転席の隼人さんが、私に小さく笑いかけた。
「……どうでした?」
「……なんか、懐かしかったです。あの場所の空気も、人の声も」
「怖くは?」
「少しだけ。でも、ちゃんと大丈夫でした」
「……そっか」
彼の声は、どこか安堵に満ちていた。
それが、嬉しかった。
「隼人さん」
「はい?」
「ありがとうございます。私の思い、聞いてくれて」
隼人さんはふっと息を吐き、ゆっくりと答えた。
「……俺の隣に立ちたいって、そう思ってもらえること自体、幸せなことですから」
その声に、胸があたたかくなった。
私は窓の外に目を向ける。
夏の夕焼けが、街を静かに染めていた。
今日からまた、新しい一歩。
隼人さんと一緒に歩む道を、私自身の足で歩いていくために――。




