第39話 二人
朝の光がやわらかく差し込む窓辺に、白いカーテンが揺れている。
午前九時過ぎ。私は身支度を整えて、リビングの鏡の前でそっと髪を整えていた。
ゆるく巻かれたポニーテールに黒いリボンをひとつ。白のパーカーと、ゆるっとした黒のズボン。これは、以前隼人さんが選んでくれた服だ。
数日前、私の家に荷物を取りに行った。隼人さんは社長のはずなのに、忙しくないのだろうかと思った。
足音が近づいてくる。
「準備、できました?」
振り返ると、隼人さんが黒のシャツに青いジャケットという、少し大人びた装いで立っていた。
「すごく、可愛いです。」
思わずうつむくと、頬がかすかに熱くなった。
こんなふうに、彼と外に出かけるのは初めてだ。
逃げたいわけじゃないと、私なりに伝えたかった気持ちが、ほんの少しだけでも伝わった気がして、心の奥が温かい。
「行きましょうか。」
「はい」
□
カフェは、静かな住宅街の一角にある隠れ家のようなお店だった。
白い外壁にグリーンの小さな看板。テラス席のそばに咲いているバラの鉢植えが、控えめだけれど美しくて、まるで絵本の中に迷い込んだようだった。
店内に入ると、やわらかなジャズが流れていて、木のぬくもりを感じるテーブルに案内される。
私たちは向かい合わせに座った。
「……えっと、苺のミルフィーユ、まだありますか?」
おそるおそる聞くと、店員さんは笑顔で頷いた。
「本日分、残りわずかですがございます」
「じゃあ、それを二つ。あと、紅茶をお願いします」
注文を終えた隼人さんが、私に向かって少し微笑む。
「楽しみですね、星羅さん」
「……はい。ずっと食べてみたかったんです」
あの日、何気なく見ていた雑誌に載っていた写真。
外に出るなんて考えられなかった頃の私が、つい口にした憧れ。
まさか、こんなふうに叶う日がくるなんて、思ってもみなかった。
テーブルの上に置かれた紅茶の香りがふわりと広がる。
「……でも、ちょっと緊張してます」
「そうですか?」
「はい。外の空気が、久しぶりすぎて。少し、こそばゆいです」
隼人さんは静かに笑った。
「大丈夫ですよ。俺が一緒ですから」
その言葉に、安心と、ほんの少しの不安が混ざる。
彼の言う「一緒」が、どこまで続くのか、まだ私は知らない。
けれど――今この瞬間は、心地よかった。
□
ほどなくして、苺のミルフィーユが運ばれてきた。
サクサクのパイ生地と、甘酸っぱい苺、そして淡いピンク色のクリーム。
見た目からして、まるで宝石みたいに可愛らしくて、思わず声をあげた。
「……わあ……!」
「綺麗ですね。星羅さんに似合う」
「またそうやって……」
思わず顔をそらすと、隼人さんは静かに笑ったまま、フォークを手に取った。
「冷めないうちに、食べましょう」
「冷める……んですか?これ、冷たいスイーツでは」
「……確かにそうですね」
二人で吹き出す。
こうして笑い合えるなんて、少し前までは考えられなかった。
フォークでパイをそっと切って、ひとくち。
口の中で、サクッと軽やかな音が弾けて、甘さと酸味がとろけるように広がる。
「おいしい……!」
思わず幸せそうな声が出てしまって、私は慌てて口元を押さえる。
けれど、隼人さんは、そんな私を見て嬉しそうに微笑んでいた。
「……星羅さん」
「はい?」
「こんなふうに、また一緒にどこか行きたいって思ってくれたら、教えてくださいね」
「……」
「俺は、星羅さんの気持ちをちゃんと知りたい。信じてもらえるように、少しずつ、行動で示していきますから」
――信じてもらえるように。
それは、私が今朝、心の中で思った言葉と同じだった。
「……楽しいです」
「え?」
「隼人さんといると、どこでも楽しいです」
笑いながら言うと、隼人さんは少しだけ照れたように目を伏せた。
だけど、それでも彼の言葉は、胸の奥に優しく届いていた。
私も――ちゃんと向き合わなきゃいけない。
この人の、まっすぐな愛情に。
そして、少しずつでいいから、前を向いて。
「また、来たいな。このお店」
「じゃあ、次もここにしましょうか。季節限定の桃のタルトもあるそうですよ」
「……うん。楽しみ」
ゆっくりと紅茶を飲みながら、彼の視線を感じる。
優しくて、どこか危うさも秘めたその目が、静かに私を見つめていた。
まだ私は、完全には彼を信じきれていない。
でも、信じたいと思った。信じてもいいと思いたかった。
この一歩が、私たちの関係を少しでも変えるのなら――それでいい。
外の風に吹かれながら、私たちはカフェを後にした。
そして、繋がれていないはずの右手が、なぜか温かくて。
私はそっとその感触を、胸の奥で確かめるように抱きしめた。
□
帰り道、ふと立ち止まって空を見上げると、真っ青な夏空が広がっていた。
「隼人さん」
「ん?」
「今日は、ありがとう」
「こちらこそ」
微笑み合ったその瞬間、私は思った。
――この人を知りたい。もっと、深く。
ただ甘やかされるだけじゃなくて、自分の意志で、彼の隣に立てるようになりたい。
たとえその道が、茨のように危ういとしても。
私は、もう一度だけ信じてみたいと思っている。
少しずつ――ほんの少しずつでも、きっと、前へ進めるから。




