第32話 バイト先
バイト先であるネイルサロンは、柔らかな日差しに包まれていた。店内には静かなBGMが流れ、奥のブースではネイリストが客の爪に丁寧なアートを施している。
私は受付カウンターで、パソコンに予約状況を打ち込んでいた。朝日ちゃんはいない。今日は私一人でのシフトだった。
「いらっしゃいませ」
ドアベルが鳴って顔を上げた瞬間、心臓が音を立てて跳ねた。
――まただ。
「どうも。……やっぱり、ここで働いてたんだね」
(なんで、また……)
先日、大学近くのカフェで絡んできた男が、何の遠慮もなくカウンターに近づいてきた。今日はやけに身なりが整っている。スーツ姿に、薄い笑み。だが、その目だけは、どこかギラついていた。
「予約……はされてますか?」
私はマニュアル通りに対応しようとしたが、声がわずかに震えていた。
「してないけど……受付だけなら、星羅さんでもできるよね?」
彼は、当然のように私の名前を呼んだ。
「前に、連絡先、教えてくれなかったよね。でもさ、こうやって会いに来たってことは……少しくらい、気にしてくれてたんじゃないの?」
(そんなわけない。ないのに……)
「お客様、申し訳ありませんが、当店は完全予約制となっております。ご用件がない場合は、お引き取りを……」
「いや、用件はあるって。君に会いたかったから来た。……ほら、こんなとこでバイトなんかしてさ、もったいないよ? 君、モデルとかの方が向いてるって」
下卑た笑いと共に、男は身を乗り出してきた。受付カウンターとの距離が、わずかに縮まる。
その一歩が、あまりにも重く感じた。
「お帰りください。警察を呼びます」
私は、言葉を振り絞るように口にした。が、その声はどこか虚ろで、頼りなかった。
男は少し驚いたように眉を上げたが、すぐに肩をすくめた。
「……怖がらせるつもりじゃなかったんだけどな。ほんとに。じゃ、また来るね」
――また来る?
その一言を置き土産に、男はドアを開けて去っていった。ドアベルの音が、やけに甲高く響いた。
私は椅子に腰を落とし、しばらく動けなかった。
店内には他のスタッフもいたけれど、奥の施術スペースではこちらのやりとりは聞こえにくい。声を上げるには至らなかった私の態度にも、問題はあったのだろう。
それでも。
心細さが、胸の奥にじんわりと広がっていく。
何も解決していない。ただ追い返しただけだ。
明日、また来られたら?
帰り道、あとをつけられたら?
想像したくないのに、脳裏に浮かんでしまう。
(……どうして、私が)
泣きたくなるような気持ちを、爪の先に力を込めて耐えた。
私は――誰にも守られていない。
「……」
いや、違う。
朝日ちゃんは、守ろうとしてくれた。
隼人さんも――
(……でも、あの人はきっと気づいてない。私が、こんなに弱くて、怖がってるって)
私は強がってしまう。誰にも迷惑をかけたくなくて、何でもないふりをしてしまう。
(だから、誰も気づかない。誰も、助けてくれない)
だけどそれは、本当に“私のせい”なの?
カウンターに置いた手が、ふるふると震え出す。
そのとき――スマホの画面が、ぽんっと光った。
着信ではない。ただの通知。
けれど、そこに表示された名前を見て、私は思わず指を止めた。
「早乙女隼人:何かあったら言ってくださいね。…」
返信しようとして、指が止まる。
何も言っていないのに、どうして。
何も言っていないのに、気づいている。
胸が締めつけられた。
けれど同時に、少しだけ、呼吸がしやすくなった気がした。
(……私、いま、一人じゃないのかな)
でも、それでも。
「助けて」なんて言えるほど、私はまだ、素直じゃない。
だからただ、短く返信を打った。
《ありがとうございます!》
その文面を見つめながら、私は静かに、震える手を膝の上に下ろした。
――今日は、まだ終わっていない。
そして明日、彼がまた現れるかもしれない。
何も終わっていない。
でも。
心のどこかに灯った、小さな火だけが、
まだ、消えずにいてくれた。




