第21話 バイト
私は今、悩みを抱えていた。
「お金が、足りない」
食費、光熱費、家賃…。ここに来た当初はしばらく生活していけるほどはあったが、そろそろ自分で稼がなければならないと思う。
それに、この世界の「働く」ということについて体験したいという気持ちもあった。
ある日「バイト先が決まらない」と言う私に、朝日ちゃんのバイト先であるネイルサロンを紹介してもらった。
朝の空気に、ほんのりと甘い香り。
(ここ……思ったよりも、お洒落)
住宅街に紛れるように建つ小さなビルの1階。ネイルサロン『nina.』の看板は、白地に金の筆記体で描かれていて、控えめながら品がある。
「失礼します……」
ドアを開けると、カラン、と可愛らしいベルの音が鳴った。中は清潔感にあふれ、ほんのりとラベンダーの香りが漂っている。
「こんにちは~! あっ、篠原さんですね。今日からよろしくお願いします!」
元気な声で迎えてくれたのは、先輩スタッフの美月さん。20代前半くらいで、ネイルも髪もきちんと整っているのに、どこか話しやすそうな空気をまとっている。
「はい、よろしくお願いいたします。……ご迷惑をおかけしないよう、頑張ります」
「もう、そんなにかしこまらなくて大丈夫だよ~。受付は、お客様のお名前を確認して、メニューを見ていただいて。最初は私の横で見ててくれればOKなので」
明るい口調に、少しだけ緊張がほどけた。
(よかった……優しい人で)
私はエプロンを借り、スタッフ用の控え室で簡単に支度を整えた。控室の鏡で自分を見つめると、すこしだけ顔が引き締まっているのがわかる。
(この世界に来てから、私……ちゃんと変わってこれてるのかな)
「でも……私が選んだ道だから」
受付カウンターに立って、最初のお客様を迎える準備をした。
朝日ちゃんが笑顔で手を小さく振ってくれた。
緊張しているけれど、不思議と嫌な気持ちはない。
□
「こんにちは~、予約してた佐藤です」
「はい、佐藤様ですね。お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
最初はぎこちなかった対応も、美月さんのフォローのおかげで少しずつ馴染んできた。
仕事の合間には、美月さんやもうひとりのスタッフ・玲奈さんと雑談を交わすこともできるようになった。
「星羅ちゃんって、最初から所作がきれいだよね。受付でお辞儀するだけで、ちょっとしたホテル感あるもん」
「え、あ……そんな、私……!」
「この前来てたお客さん、星羅ちゃん見て“育ち良さそう”って言ってたよ~」
なんだか、くすぐったい。でも、嫌じゃない。
こんなふうに、人と話すことが楽しいと思えたのは、この世界に来て初めてかもしれなかった。
□
その日の夕方、ちょうど勤務が終わる頃だった。
「じゃあ、今日はお疲れさまでした! 次は土曜日だよね」
「はい、ありがとうございました」
軽くお辞儀をして、サロンを出た瞬間――
「……え?」
数メートル先のビルの影に、見慣れた姿があった。
背筋の伸びたシルエット。少し癖のある前髪。きれいに整った横顔。
(……隼人さん)
彼は私に気づいて、ふっと目元をゆるめた。
(あれ…、私、隼人さんにバイトのこと言ったっけ?)
歩み寄ってくるその様子はどこか自然で、まるで最初からここにいることが“当たり前”かのような落ち着きがあった。
私はそっと微笑んだ。
「……じゃあ、途中まで一緒に帰りましょうか」
彼は目を細めながら言う。
そのまま、並んで歩き出す。
沈みかけた陽が、背中を照らしていた。
(次のシフトも……、頑張れそう)
彼の隣にいるこの時間が、そう思わせてくれることが、少しだけ悔しいようで――でも、とても嬉しかった。




