第10話 猫カフェ
大学に通いはじめて一週間。
思っていた以上に忙しく、思っていた以上に楽しかった。
けれど、ふと一息ついた今朝、自分のなかに少しだけ“空白”のような感覚があることに気づいた。
(たまには、何も考えない時間も必要かもしれない)
スマートフォンを手に取ると、候補のひとつに「猫カフェ」という文字が表示された。
(猫、カフェ……?)
そのまま調べてみると、どうやら“猫と触れ合いながら飲み物を楽しめる空間”らしい。
この世界の娯楽の発想力には、いまだに驚かされるばかりだ。
“予約不要”“女性ひとりでも入りやすい”“おすすめは昼下がりの時間帯”
そんな文字に背中を押されるように、最寄り駅から電車に乗り、目的地へ向かった。
雑居ビルの2階、小さな看板に描かれた猫のシルエット。
期待と不安を半々に抱えながら、入口のドアをそっと押すと、やわらかな音楽と、ミルクのようなやさしい香りに包まれた。
「いらっしゃいませ。初めてのご利用ですか?」
笑顔の店員に迎えられ、簡単なルールを聞く。手を消毒し、スリッパに履き替えて中に進む。
(……静か)
壁際に並ぶクッション。低いテーブル。窓際には日差しに照らされたキャットタワー。
そのすべてに、猫たちが思い思いの姿勢で溶け込んでいた。
棚の上で丸くなる子、ふてぶてしく寝そべる子。
誰かが近づいても、誰も騒がず、逃げず、ただ存在している。
ソファ席に案内され、ホットカフェラテを注文する。
カップを手に取ったとき、目の前のクッションに白い猫がとことこと歩いてきて、じっとこちらを見つめてきた。
「……こんにちは」
思わずそう声をかけると、猫は「にゃあ」と一声鳴いて、足元にするりと身を寄せてきた。
(……かわいい)
今までの人生で、可愛いと本気で思った生き物がどれだけいただろう。
薬草の香りや、王宮の香水の記憶とは違う、あたたかくてふわふわの生き物が、今、膝の上で目を閉じている。
少し体を動かすと、猫はまるで当然のように寝返りを打った。
スカートの上に、ぽふ、と前足を投げ出して、喉を鳴らしている。
誰に媚びるでもなく、誰にも従わず、けれど誰かのそばにいることを、すこしも拒まない。
どこか、今の自分に重なるような、そんな気もした。
そのうち、別の猫――灰色のしま模様の小柄な猫がテーブルに乗ってきて、スマートフォンをくんくんと嗅ぎはじめた。
「ふふ、これは食べものじゃないの」
猫の耳がぴくりと動いたが、興味を失ったらしく、次はカップのフチに鼻を近づけてきた。
あわててカフェラテを持ち上げると、猫はつまらなさそうに「ふにゃ」と鳴いて、背を向ける。
「マイペースね……ほんとに」
ふっと笑みがこぼれた。
しばらくして、棚の上で寝ていた長毛種の猫がのそりと起き上がり、大きなあくびをした。
ちょうどそのタイミングで、室内に流れていた音楽がゆったりと変わる。
その音に反応してか、何匹かの猫たちが立ち上がって、毛づくろいを始めたり、キャットタワーに登ったりする。
ほんの少しだけ、まどろむような心地よさの中――
ふと、頭の奥に浮かび上がったのは。
(……アル)
冷静で、誰よりも有能で、私の意思を何よりも尊重してくれた、唯一の人。
以前、ふとした会話の中で、私はこう言った。
『もし、私のことが嫌になったら……そのときは、あなたの意思を尊重するわ』
あのとき、アルはほんの一瞬だけ驚いたように目を見開いて、
それから、迷いのない声で答えてくれた。
『いいえ。私は、いつまでもおそばにおります』
あの瞳を、私は今でも忘れられない。
真っ直ぐで、誠実で――少しだけ、熱を帯びていた。
嬉しくて。
ああ、私は、この人が好きなんだ、と思った。
……だから、手を伸ばした。
魔法陣に飲み込まれそうになったあの瞬間、
アルの手を、確かに握っていた。
でも――目を覚ました時、そこに彼の姿はなかった。
(アルは、来ていないのね)
それが現実なのだと、分かっていた。
1時間ほど滞在して、店を出る。
春の風が軽やかに頬をなでた。
(なにもしない時間が、こんなに満たされるものなのね)
駅へ向かって歩きながら、ふとスマホの写真フォルダを開く。
無意識に撮っていた猫の写真がいくつか並んでいた。
今の自分にとっては、どれもきちんと“記憶に残す価値”があった。




