「「ハカセ」な僕と「師匠」と呼んでくる愛が重い後輩と過ごす一日」
五月の午後、窓から差し込む陽光が教室を暖かく照らしている。
僕、大崎学の机の前には、今日もまた列ができていた。
「ハカセー!数学の集合の問題がわからないんだけど!」
大声で呼びかけてくるのは、筋肉質な体躯をもったサッカー部の男子生徒-大崎健吾。
「学くん。漢文の読み下しがわからないの。教えて!」
可愛らしい仕草で頼むのは小柄で垢抜けた、クラスでもかわいいと評判の女子生徒-小咲唯。
「大崎くん。歴史の考察について教えて欲しいんだけど……」
小声でつぶやくは、おとなしく清楚な雰囲気の、文芸部所属の女子生徒-長瀬加奈。
昼休みの恒例行事だ。
僕の机は毎日のように即席の個別指導塾と化している。
「えーと、まず一人ずつね。最初は大崎から行こうか」
シャーペンを手に取り、ノートに図を描きながら説明を始める。
彼が悩んでいたのはド・モルガンの法則についてのようだった。
「……というわけで、具体例にしてみると意外と簡単でしょ」
大崎は抽象概念を扱うのがどうにも苦手なので、ベン図を描いて、例も兼部している生徒のようなわかりやすいものにしてみた。
「確かに!授業ではちんぷんかんぷんだったけど、意外と簡単だな」
「でしょ?」
「ああ。いつも頼りになるな、さっすがハカセ!ありがとよ」
爽やかな笑みを残して去っていく大崎。
そして、その様子を後ろからじっと見つめる顔なじみの女子生徒。
次は小咲だ。彼女が詰まっていたのは鴨長明「方丈記」の読み下し文。
「この「あわにぞ似たりける。」がわかるようなわからないような……」
なるほどな。
「ここは「ぞ」+「連体形」で係り結びの法則が使えるやつな。それと「ける」は詠嘆を表す。で、「水の泡に似ていることよ」みたいな感じ」
「水の泡に似ててエモい!みたいな?」
「……まあ、間違ってはいない、と思う」
小咲は頭の回転は早い方だが、感嘆詞をエモいというのはどうだろう。
ともかく。
「学くん、いつもありがとね。愛してる!」
彼女はいつものように冗談交じりでそんな言葉を飛ばしてくる。
「はいはい。からかいはいいから」
もう慣れたもので、手をひらひらとさせてスルーする僕と去っていく小咲。
そしてー「愛してるですか」
鬼のような形相で僕、でなく小咲を見つめている長年の付き合いの後輩。
小咲のからかいに他意はないんだけど、僕にご執心の彼女がこうなのも平常運転。
最後は長瀬だ。
「織田信長の教科書的な歴史的評価の誤りについて述べよ、っていっても、こんなの教科書にもないし、先生のプリントにしかないからどうにもピンとこなくて」
うちの歴史の先生は独自プリントを使うこだわり派だ。歴史についても最新研究を取り入れた考察課題を出すので、教科書的な理解が通用しないということで悩む生徒も多い。
「これ、先生もちょっとマニアック過ぎかな。要はさ、歴史の教科書にある織田信長って今も、楽市楽座みたいな数々の革新的な政策、敵対勢力にも容赦なし。それで家臣の裏切りで命を落とした大名みたいな扱いだろ?」
「うん。で、先生はプリントで今の研究では180度変わっているみたいなことを書いてて、それはわかるんだけど、なんていうか保守的とか既存勢力との協調と言われてもピンとこなくて……」
だよな、と独りごちる。
「まあ、確かにね。凄くざっくりした今の評価だけど。まず、信長は大まじめに室町幕府を復興したい!将軍様を支えていくのだ!というある意味忠臣だったんだよ」
「そ、そうなの?」
「そうそう。保守的とか既存勢力との協調とかっていうのは要はそういう話」
「でも、それならなんで、最終的に義昭を追放したのかがわからないんだけど」
「そこは……諸説あるところだけど、信長が義昭の面子を考えず諫言しすぎた結果、両者の仲がだんだんこじれていった……という仲たがい説をとる人もいるね。で、色々あるんだけど、最終的に決裂して追放するしかなくなったと」
「信長の全然イメージ変わるね。説明ありがと。すっきりしたよ!」
「これで大丈夫かな?」
「いつもほんとに頼りになるね。ハカセ君。あ、別に質問があるんだけど……」
長瀬は質問にかこつけて、僕とやけに話し込みたがる。
たぶん、友達があまりいないから―という失礼な理由を想像してしまうけど、それはそれとして。
後ろから見つめる彼女の形相が鬼を超えて修羅になっている。
これ以上放置するとまずい。
「うーんと、その……」
ちらと後ろを見て、小橋に目配せをする。
「あ、ご、ごめん。話し込み過ぎたよね」
慌てて去っていく小橋。
そして、ようやく修羅の形相からいつもの和やかな笑みになる後輩にして幼馴染。
佐倉知世。
「ようやく終わりましたか」
小柄でスリムな体躯。
背中まである艶やかで長い髪をツインテールにまとめている。
そんな彼女は強い意志を秘めた双眸でため息をつきながら僕を見つめてくる。
「待たせてごめん」
「いつものことですから、別にいいですけど。とにかく行きません?」
「了解」
さて、この彼女との付き合いは小学校低学年まで遡る。
確か、1+1=2が何故かについて納得がいかないという彼女に対して僕なりの見解を披露したのがきっかけだったか。そのときに弟子にしてくださいということで、何故か師匠と呼ばれるに至る。
◇◇◇◇
空き教室にて。
「師匠は女の子にちょっとデレデレし過ぎだと思うんです」
持参した弁当箱を取り出して、少しムスっとした顔で手渡される。
「デレデレって人聞きの悪い」
「愛してるなんて言われてたのに?」
「いやいや、小咲はからかってるだけだって。あいつ、軽い性格だからさ」
彼女が他の男子にそういうからかいをしているのを見たことがあるので、勘違いじゃないはず。
「小咲先輩はいいとしましょう。なら、長瀬先輩は?」
「うんうん。相変わらず美味しいね。さすが、知世」
彼女お手製のから揚げを口に放り込んで。
すかさず褒めてごまかそうとするのだけど―
「ごまかそうとしても通用しませんからね?」
通用しなかった。目が怖いって。
「うーん。長瀬は確かにやけに話し込みたがるけど……」
じとーっとした目線がまとわりつく。
「けど?」
「長瀬には失礼だけど、友達少ないから、僕と話し込みたいんじゃないか、と」
「私はどうもそう思えないんですよ。気があるような……」
「根拠は?」
「視線。順番待ちのときも、ずっと師匠のこと見てましたよ」
知世の僕に対する執着はちょっと強すぎる気がする。
そんなところまでチェックしてたなんて。
「ま、まあ。確かにただの友達だと少し距離感が変……かもね」
「しかも、なんていうかぽわーっとした視線というか」
思い返しているのか、表情がやけに不機嫌だ。
「ま、まあ。君の勘が当たってたとして、何かされるわけでもないしさ」
なんで僕は空き教室で後輩を宥めてるんだろうか。
ふと我にかえって苦笑してしまう。
「一番弟子の私としては、師匠を取られるのが嫌なんですよ」
一番弟子、ね。
なんとも彼女らしい不器用な物言いだ。
「大丈夫だって。僕の弟子は君だけだからさ」
対する僕もなんとも遠回しな言い方なことで。
ともあれ、彼女の髪を優しく撫でていると、少しずつ表情が和らいでいく。
「ちなみに、他の女の子にはしてませんよね?」
「してないって。君限定」
「なら信じます」
こんな変わった関係の僕と彼女だけど、正式な告白を交しあった恋人ではない。
ただ、ある時期から、知世が僕に対する独占欲を燃やし始めて。
僕も、そんな知世のことが好きで。
告白してないけど、実質恋人同士のような不思議な関係だ。
「ところで」
と前置きして。
「やっぱり師匠は凄いですよね。質問に的確にこたえられるところとか」
「言うほどガリ勉したりはしてないんだけどね」
「それでテストの成績が毎回首位。論文誌への投稿実績もありとか、チートキャラにもほどがあります」
「チート、ねえ。言わんとすることはわからないでもないけどね」
そもそも、先生からすら謎の畏怖を受けているうちの高校では特異な身分だ。
「師匠、ひょっとして現実世界転生者だったりしません?」
冗談半分でからかってくる。
「最近、そういうのもあるよね」
「師匠、小学生の頃から頭の回転が早かったですから」
「まあ、授業を一回聞くだけでわかる生徒ってのも少ないのかも」
子ども心に自分の異常さには気づかなかったわけでもない。
ただ、だからといってどうなるわけでもない。
「でも、1 + 1 = 2が納得いかなかった私を救ってくれたのも師匠ですけどね」
「ああ、あれね。だいぶ昔だけど懐かしいね……」
◆◆◆◆
「先輩、1 + 1ってなんで2なんでしょうか。納得が行かないんですよ」
家が近かったこともあって、既に知り合っていた僕と知世ちゃん。
あれは確か彼女が小学二年生の春頃だっただろうか。
放課後に僕の家だったかでそんな質問をされたのだった。
「なんで、か……うーん」
当時、既に僕は色々な書籍を読み漁っていて。
そういえば、発明王エジソンに同じようなエピソードがあったな。
なんてことを思ったりしていた。
「そうだね……うーん、こういう説明はどうかな」
リビングにあったトランプを取ってきて、1枚取り出す。
「これがトランプ1枚。はいいよね?」
「は、はい」
じゃあ、と。トランプをもう一枚重ねる。
「これはトランプ何枚?」
「2枚……でしょうか。あ!」
納得がいった、というように手をたたく知世ちゃん。
「わかりました!トランプがこんな風に積み重なった状況に2という記号を割り当ててるんですね!1 + 1 = 2が先にあるんじゃなくて、状況が先にある!」
「僕も自信はないけどね。たぶん、そういうことじゃないかと思ってる」
ちなみに、この時の僕はまだ知らなかったけど。
高校になって一足先に大学数学を勉強してペアノ算術を勉強して、この直感が正しかったことを僕は知ることになる。
「問題は解けるけど、全然納得いかなかったんです。良かったです!」
「なら良かったよ」
「あの……ところで」
「ん?」
「これからはししょーって呼んでもいいですか?」
そんな関係に少しあこがれてて、と彼女は付け足して言ったのだった。
「少し恥ずかしいけど。知世ちゃんがそう呼びたいのなら」
こうして、ちょっと変わった師匠と弟子の関係が始まったのだった。
◇◇◇◇
「でも、あれで納得できた……というか、小学生で算術の意味というメタ算術的な疑問を持てたのも大したものだと思うよ」
僕も彼女に問われるまでは考えたことがない疑問で。
あのときの答えだって即興で出したものだ。
「そう言われても嬉しいよりかなわないなあって気持ちが先に来ちゃいますよ」
「いやいや。知世も各種テストだいたいパーフェクトに近いと聞いてるよ」
一学年下だから、噂に聞いただけだけど。
「学校の勉強をできるだけだと、まだまだ師匠には並べませんよ」
「君も自主的に大学の教科書読んでるでしょ」
「弟子としては師匠に負けっぱなしは納得が行きませんからね」
元来、負けず嫌いな気質の彼女は僕とよく張り合いたがるのだ。
「……話、変わるんですが」
ふと頬を少し赤らめて、彼女は。
桃色の封筒に包まれた一つの手紙を差し出してきたのだった。
「……ラブレター?なんで今更」
にしても、既に僕の気持ちはわかっているはず。
「考えてみると。ちゃんとした手順を踏んでいないなって気づいたんです」
「変なところ、こだわるねえ」
要は、これまでなんとなくお付き合いぽいことを続けていたけど。
彼女自身、その宙ぶらりんな関係に納得行かなかった、というところだろう。
「とにかく、渡しましたからね。放課後までに読んでおいてください」
「了解」
こうして、いつもの昼休みは終わりを迎えたのだけど。
◇◇◇◇
『話があります。放課後、屋上で待っています』
昼休みの後。他の生徒から見えないようにこっそりとラブレターを開封すると。
書かれていたのはそれだけだった。
(思いの丈でも書かれているかと思ったのに)
ただ、変な様式美にあこがれるところのある知世のことだ。
ラブコメぽく放課後の屋上で告白という手順を踏んでみたかったに違いない。
(そんなところも可愛いんだけど)
と思えてしまう僕も、結局、毒されているのかも。
そんなことを考えながら放課後を心待ちにしたのだった。
でも、屋上は施錠されてたような気が。
◇◇◇◇
というわけで放課後になった僕は早速屋上へ。
心配だった施錠については問題なし。
大方、彼女が理由をつけて鍵を借りたのだろう。
「お待ちしてました、先輩」
屋上の真ん中で、少し恥ずかしそうに俯いた知世が待っていたのだった。
「それで、話っていうのは?」
もう既に彼女がやりたいことはわかっている。
どんな甘い告白が待っていることやら―そんな少しの期待を込めて聞いてみる。
「考えてみると、ですね」
「うん」
「私たちって、ちゃんとした言葉を交わさないままだったじゃないですか」
「だね」
そのことはお互い了解済みで。
だからこそ、そのことが少し引っかかっていたんだろう。
「そのくせ、他の女の子に焼き餅焼いてどうこう言ったり」
「付き合ってれば気になるものだと思うよ。僕もちょっと無防備だったし」
ともあれ、彼女が何を気にしていたのかはわかった。
「でも……ただのお付き合いだったら」
「う、うん?」
「他の子が好きになったから別れてって言われても反論できないじゃないですか」
「い、いや、別にそこまで考える必要は……」
少し雲行きが怪しくなってきたような?
「だから、考えてたんです。正式に言葉にするとしても、ただの交際だとダメなんじゃないかって」
「え?」
「だから、だから。師匠……いえ、学先輩、好きです。大好きです。あの頃からずっと。結婚前提の交際をしてもらえると嬉しいです!」
結婚前提。その言葉はとても重いはずなのに。
何故か、彼女の性格を考えると、すとんと腹落ちする言葉で。
そして、そんな一直線な彼女だから好きになったんだ、とそう思えた。
「喜んで。僕も―いつからかは覚えてないけど―君のことが好きだったよ。知世。結婚前提に付き合おっか」
「い、いいんですか?私、相当重いことを言った、と思うんですが」
自分から言ったくせに。
逆にあっさり肯定されて。
目を白黒させて狼狽している彼女はやっぱり可愛らしい。
「もちろん。僕も、たぶんだけど、君以外を好きにはなれないだろうし」
「理由、聞いてもいいですか?」
「小学校の頃から、僕が授業聞いただけですぐわかるって知ってるよね」
「ええ。それはよく知っています」
「あれさ。やっぱり結構孤独なんだよ。周りは凄い凄いって持ち上げてくれるけど、一方的に持ち上げられるだけの立場って、なんだか寂しいしね」
「……そうですね。私も、師匠ほどじゃないですが、少しわかります」
同じく小学校の頃から聡明だった彼女のことだ。
すぐさまピンと来たらしい。
「それで、さ。嬉しかったんだ。同じ土俵で議論できて、ああだこうだ言い合いできる相手ができて。最初は友情だったのかもしれないけどね」
偉そうに言ってはいたけど、僕だって彼女にかなり依存していたのだ。
「……う、それ、反則じゃないですか?」
「何が?」
「だって、私が今回告白するはずだったのに……」
逆に思いの丈を語られるなんて、と。
「僕もちゃんと言ってなかったでしょ。それと、二人きりで色々遊ぶのはもちろん、お付き合いを始めてからは、君が嫉妬してくれたり、お昼ご飯作ってくれたり、休日にデートしたり。女の子としてもどんどん好きになっていった」
少し気障かな、なんて思いつつ語る。
「だから、改めて。僕でよければ末永く一緒にいてくれると嬉しいかな」
「……う、う、う」
あまりに感極まったのだろうか。
ぽろぽろと涙を流して、泣き出す知世。
「師匠、ほんとにうれしいです……私だけが重いのかなってずっと気にしてたから」
「あーもう。知世は変なところで泣き虫なんだから」
昔を思い出しながら、優しく抱擁して背中を撫でる僕。
「これからは、大手を振って焼き餅やけますね」
「いいけど、ほどほどにね」
「師匠のご両親に挨拶とかもしていいですか?」
「ま、まあ。それくらいは」
「あ、あと。婚約指輪は早いですけど……ペアリングも買いに行きたいです」
「おーけー。学校で着けるのはアレだけど」
恥ずかしいし、先生に注意されそうだ。
「それ以外のときはいいってことですよね」
「それはもちろん」
「あ、それと。教室でいちゃついても?」
「ま、まあ。それくらいなら?」
そんな、これからの希望をひたすら言い募る彼女と。
こういう重いところもいいんだよね、なんて思う僕だった。
最初は「勉強ができる主人公がクラスの皆に相談される図」を思い描きながら書き始めていたのですが、気が付いたらこんなことになっていました。
ある意味いつものような、少し違うような。テーマは「孤独」でしょうか。
面白いと思っていただけたら、評価や感想をいただけると嬉しいです。
ではでは。