砲術家の意地〜たとえ命令違反だとしても〜
1942年11月13日、ソロモン諸島沖――
夜の海は静かだった。だがその闇の奥に、重く張りつめた気配がある。まるで、巨大な獣たちが息を潜め、互いの動きを伺っているかのように。
《比叡》沈没。《霧島》、轟沈。
中央指揮からは撤退命令が発された。もはやガダルカナルへの砲撃支援は不可能、との判断だった。だがその命令を、受信した艦橋の男は、無言で切り捨てた。
「――指令室、撤退命令の再確認を」
「はっ、司令部からの通達に誤りはありません。全艦、反転後、ショートランド方面へ――」
静かに、それでいて鋭く切れるような声が艦橋を貫いた。
「我らの砲は、まだ一発も撃っておらん」
戦艦《薩摩》砲術長・根岸大佐。かつて艦砲射撃の第一人者と呼ばれ、海軍兵学校でも屈指の実戦理論家とされた男である。戦場での名誉や武勲に執着せず、ただ「撃つべきときに撃つこと」が砲術家の務めだと信じていた。
その彼が、今、自らの信条をもって命令を破る。
「我々は、高速戦艦4隻。《薩摩》《安芸》《能登》《対馬》。いずれも巡洋戦艦の系譜にして、突撃のために生まれた艦だ。行くぞ。夜の斬り込みだ」
艦長が一瞬、瞳を見開いた。
「……了解。全艦、戦闘配置。照明灯使用禁止、音響抑制、戦闘速度38ノット!」
夜の海を、白波が四本走る。
4隻の高速戦艦が単縦陣を組み、鋼鉄の塊が静かに滑るように前進する。背後には、火柱を上げて沈みつつある《霧島》の姿。照らされる炎の中に、海に投げ出された将兵たちの影が見えた。
「その無念、受け取ったぞ……!」
根岸は、砲術指揮所で双眼鏡を握りしめる。口元は結ばれ、だがその眼は燃えるように冷たかった。
距離、9000メートル。敵影確認。《ワシントン》および《サウスダコタ》、照準範囲内。だがまだ撃たない。
「距離、まだ詰めろ。撃ってはならん。奴らに気取られるな」
砲雷長が息を飲む。――まさか、あれほどの巨艦相手に、5000メートルまで接近する気か?
照準、右〇六五。
夜霧が濃くなり、敵の探照灯が走る。視界が一瞬だけ開け、《ワシントン》の巨大な艦橋が白く浮かび上がる。
その刹那。
「砲撃、開始!!」
《薩摩》の主砲塔が火を吹いた。
45口径36センチ連装砲。戦艦としてはやや小ぶりな口径だが、接近距離から放たれた砲弾は、まるで弾丸のように敵艦に突き刺さった。
轟音。閃光。衝撃。
続いて《安芸》《能登》《対馬》が矢継ぎ早に砲撃を重ねる。水平射撃に切り替えた12.7センチ高角砲も加わり、艦隊全体が火を吐いた。
米戦艦の対空砲火が応射を開始する。だが、高速戦艦の動きはそれを回避しながら次の斉射を浴びせ続ける。
「命中確認!《ワシントン》前部甲板に炎上箇所!」
「《サウスダコタ》、機関部付近に被弾あり!」
突撃艦列の最前を行く《薩摩》が魚雷回避のため回頭。夜霧の中で敵のレーダー精度が落ち、接近戦に持ち込まれた米艦は混乱する。
まるで、日本刀のようだった。
居合いの一太刀。沈黙からの突然の閃撃。命中と同時に離脱。
「もう一度、撃つぞ!距離4200、敵艦、火力は鈍化!」
《能登》の砲塔が火を噴いた。主砲弾は《サウスダコタ》の後部に命中、煙が立ち昇る。続けざまに《対馬》の副砲が敵駆逐艦を撃破、黒煙が夜空に滲む。
しかし――
「《安芸》、右舷被弾!火災発生!」
「消火班急行!速力は維持!」
《能登》も至近弾で船体に振動が走る。《対馬》は通信マストを失うも、各艦とも退避行動に移る。
任務は果たした。
敵艦を沈めはしなかったが、確実に戦闘不能に近い打撃を与えた。そして味方艦はすべて、機関を保ったまま夜の海へと消えていった。
根岸は艦橋に立ち、燃える《ワシントン》の影を最後に見つめた。
「戦艦は、撃ってこそ戦艦だ。撃たずに退くなら、浮かべておく意味はない」
誰に言うでもなく、静かにそう呟いた。
後日――この作戦は上層部で議論されたが、処分は行われなかった。戦果は明確だった。彼らの突撃は、夜の制海権を一時的に奪い、陸軍の撤退作戦にわずかながらの時間を与えた。
そして《薩摩》《安芸》《能登》《対馬》は、沈まずに帰還した。
この夜、砲術家の意地は、歴史の一ページを強く刻んだのだった。