幼少期1-1
順天堂大学病院で産まれた自分の最初の記憶は、曾祖父に抱かれ、己の意に反して周囲の期待から泣き声をあげたことである。
裕福な家に産まれ、豊かな経験と共に育った。
そんな自分がなぜいま精神疾患に苦しみながら薬に頼って生きているのか、その過程を示していこうと思う。
次に覚えているのは、ハワイでの生活である。
当時母が妹を妊娠し、自分にまで手が回らなかったのであろう。祖父母と共に、2歳の自分はハワイで10ヶ月生活した。
祖父母はあまり英語教育を受けたとは言えない境遇である。当然自分が話せるようになるしかなかった。
感謝は、している。第3言語が英語になったのは間違いなくこの経験のおかげだ。いまでもネイティブのように英語を話すことができる。一度受けたTOEICは満点だった。
この親元を離れた生活から、自分の運命は決まってしまったのだろうか。愛着形成ができていなかったのではないだろうか。
いまとなってはわからない、わかったって無駄なことだ。もう、遅いことだから。
母が出産し、自分は帰国した。その頃には英語と会津弁が混ざった不思議な言葉を喋っていた。
字もあまり読めないのに、母が一度読み聞かせた絵本を暗記して妹に聞かせる、ということをよくやっていた。きっと聡明な子だった。