短編集その1:手紙
拝啓、彼女様へ。その文で始まる手紙を渡すための彼女は、もういない。
僕は三日前、彼女に振られてしまった。僅か一年ほどの付き合いだったが、彼女に振られたのだ。
きっかけはほんの些細な言葉だった。彼女の好意で勧められたことを、僕が邪険に扱ってしまった事が要因だ。そこからは亀裂が走り、すれ違いが起こり、いつしかバタフライエフェクトのようにして、僕は君に振られてしまった。
僕は未だに喪失感から脱せないでいる。無気力と言わんばかりに力が思うように入らず、今にも決壊寸前の涙を押し込める。
心臓の鼓動がこんなに痛いと感じるのは初めてだった。誰かから鷲摑みにされて、握り潰されそうな感覚に襲われている。吐き気だってある、ご飯も喉を通らない。
「あぁ……、失恋ってこんなに痛いんだ」
ポツリと独り言のように言葉が漏れてしまった。その瞬間、糸が切れたように大粒の涙が溢れ出した。拭いても、拭いても拭いきれない大粒の涙だ。
大の男が肩を振るわして、嗚咽の声を漏らして、部屋の片隅で泣いている。
客観的に見るなら何とも情けない光景だろう。しかし、主観的立ち位置でしか語れない今の僕は、低い嗚咽を漏らして泣くことでしか彼女に振られたという現実を受け止める術がなかった。
ふと、拭った瞳に写真立てが映り込む。そこには仲睦まじく肩を組んで映っている僕と彼女の姿であった。
僕と彼女の出会いは、友人が主催してくれた合コンがきっかけだった。
初見の印象はストレートロングの髪と、整った鼻筋が印象的な女性だと思った。
合コンでの会話も場の雰囲気に呑まれて、お互い世間話しか出来なかったし、最初はお互い差ほど興味はなかった。
LINEを交換してチャットの中で初めましての挨拶をし、仕事の話、休日の話、趣味の話、いつしか尽きることのない会話を重ねていくうちに、デートの約束をしていた。
初デートは背伸びをし過ぎて、フランス料理のお店に行ったりしたね。お互い初のテーブルマナーでギクシャクもしたけど、それもいい思い出だったね。
そこからは毎日がバラ色のように輝いていた。
海を見に行ったね、山も登ったね、ウインドショッピングして色んなものを買ったね、星や花火も見に行ったね、水族館や動物園にも行ったね。そう言えばオシャレなカフェにも行ったし、後は色んなところを遠出して、色んな美味しい物を食べたね。
でも、もうそれも終わりだ。
僕は彼女に振られてしまったのだから。
『貴方の全てが嫌いなわけじゃない、でも貴方と私じゃ釣り合わない。貴方のひたむきで優しすぎる貴方が私を苦しめるから、これがずっと続くのは耐えられないから、だから……さよなら』
三日前の記憶が何回も何回も繰り返される。止めて欲しいのに止まらない。延々と脳裏に焼き付くその光景が、僕の心を潰していく。
「僕は………馬鹿だ…、全部分かりきっていた。彼女が会う度に離れていくことも、申し訳ない気持ちで顔を曇らせていたことも、彼女から振られる予感を見ないふりし続けた結果なんだ」
僕は独り泣いている。泣いても泣いても、この心の痛みが癒やされることはなかった。ターニングポイントはたくさんあった、あの時あーしてれば違った未来もあったかも知れない。
後悔しても拭いきれない辛い現実に押し潰される。それだけ僕にとって彼女という存在は大きく、僕の心のほとんどを満たしていた。
楽しい時間も、辛い時も、彼女とずっと共有していた。儚く尊い思い出達も、今では僕を縛り付ける鎖となっている。
彼女が帰ってくることはない。朝の『おはよう!』がもう来ることもない。それでもどこかで期待している自分がいる。
苦しいのに、悲しいのに、ただそこにある現実はあまりにも残酷すぎる。
彼女との思い出がメリーゴーランドのようにグルグルと脳裏に浮かぶ。笑顔も、泣き顔も、怒り顔も、喜んでくれた顔も全てが今は尊い。
失ってから分かる、当たり前のようにいてくれた彼女が比べることが出来ないほどに大切だったと言うことが。
「振られたのに……どうして今も好きでいられるんだよ…僕は」
渡すはずだった手紙をグシャリと手で潰す。それはまるで自分の心が潰れていく様と同じであった。
自分への怒りと、相手を想ったゆえの哀しみがない交ぜになって生まれた悲哀の感情が大波となって僕をさらう。
もう二度と会うこともないだろう。もう思い出すこともないだろう。そして、もう恋をすることもないだろう。
こんな死んだ方が楽と考えてしまえるほどに哀しい結末が待っているのなら、僕はもう恋もしないし、人を好きになって愛そうとも思わない。
別れた彼女も同じ気持ちなのだろうか。でも、それは僕の願望が作り出す都合のよいエゴでしかない。
もう僕らは恋人から他人同士なのだから、それぞれの道を歩み始めたのだから、僕も歩み始めなくては。
それが恐らく、今できる最良の道なのだから。
「じゃあね、さよなら……」
そうして僕は、自分の部屋を後にした。彼女との記憶に蓋をするようにして。
1
彼……いや元彼を振ったのはもう三日も前の事だろうか。
元彼との付き合いは一年ほどだったけど、最後は自分の気持ちがよく分からないまま終わらせてしまった。
これで良かったのかイマイチ分からない。もしかしたら、終わらせない方が良かったのかも知らないけど、今となってはどうでも良いこと。
今は自分の時間が出来て、それを謳歌している。
久々にサボテンへ水をあげる。サボテンはたまに水をあげるだけで良い、それだけで綺麗な花を咲かせる。元彼とはそう言う関係で居たかったけど、そうはならなかった。
縁がなかった……と言えば、簡素な感想になる。けど、今は縁がなかったという感想がしっくり来る。
楽しかった思い出も、元彼の笑顔も、泣き顔も今では薄いフィルターが掛かったようにして思い出せないでいる。
私は本当に元彼の事が好きだったんだろうか。確かに、最初は恋愛的な好きが勝っていた。元彼に安心感を感じたぐらいから友達的な好きが出ていた。
でも正直、恋愛的な好きがないと恋愛をしちゃいけないとは思わなかったから、元彼とは付き合っていた。
「好き………だったんだろうか」
今となってはそれも分からない。
私は昔、恋愛でこっぴどいめに遭ったことがある。その人の事は凄く好きだったのを覚えている。その人のためならと思えば、お節介のように尽くしていた。それゆえにその人から煙たがられ、ウザったいと一方的な別れ話で終わらせられてしまった。
私は酷く傷付いて、二度と恋愛なんてするもんかと、人を好きになるもんかと誓った。
けど、そんな私の心の傷を癒やしてくれるかのように、元彼は現れた。
元彼との出会いは確か合コンだったはず。見た目は強面系だし、お世辞にもイケメンじゃなかったし、況してやタイプでもなかった。
なのに何故だか惹かれていった。
それは貴方の心に宿った優しさなのかなと、今さらに思う。傷付いていた私の心に、元彼の優しさは癒やしとして染みていった。
いつでも私が喜ぶことを、笑顔になることを、優先してくれたね。たまに、変に暴走するときもあったけど、今にして思えば貴方の愛嬌だったんだなと思える。
それでも、私は貴方の何気ないひと言が許せなかった。
『えぇ~、それ着るの?』
元彼は何気ないひと言のように言ったと思う。でも私にとっては自分の好意が無碍にされたように感じた。
実っていた好きな思いも、信じていた心も、全てが無駄で空虚なものへと変わってしまった。
冷めてしまった………そう、その言葉が今は正しいと思える。それは、この人なら私のことを傷付けない、私が好きを振りまいても良いんだと思った矢先のひと言だった。
そこからの私の記憶は、おぼろげで思い出すことも出来ない。ただ一つ言えるのは、そこから元彼の優しさが空虚なものになってしまったのだ。
優しいと思っていた元彼でさえ、そんなひと言を言ってしまう。そうなってしまうと、元彼の優しさが嘘のように感じられ、愛される事が怖くなっていた。
「私は……何をやっているんだろうか」
サボテンへの水やりを終え、ソファにもたれかかる。
そう、私は元彼の、前の人との恋愛にまだ未練があったんだと思う。ただそれは前の人に対しての未練ではなくて、自分のしてきた選択への未練だった。
あの時こーしてればと思っていた。しっかり頭に入れてた筈なのに、元彼にも同じことをしてしまったのだと思う。
そう言う意味では、私もまだ大人になりきれてなかった。たったひと言で冷めてしまう自分に嫌気が差す。貴方を私色に染め上げるって、逆に考えれば良かった。
でも、今はそれも叶わない。
愛される事を願ってたのに、愛されたら怖くなってしまう。そんな私に人を好きになる資格があるのだろうか。
「本当……私って駄目だな…」
いつだってそうだ。気付いたときは既に遅いんだ。少しだけ独りよがりに悲しくなって、一週間後には何食わぬ顔で日常を過ごすんだ。
そうやって、自分で自分を正当化したとき頬を一つの筋が流れた。
独りでに流れた涙に驚く。
どうして流れたの。それだけ、まだ貴方の事が好きだったの。好きなのか分からないのに、それでもまだ好きなの?
貴方への申し訳なさと罪悪感で自分を殺してきたのに、それでもまだ貴方を好きでいようと思うの?
私は気付いたらLINEを開いていた。最後の文は三日前に打った『さよなら』の文字だけであった。
文字を打とうとしたけど体が拒む。
今さら打ってどうするの。そうやって彼の気持ちを弄んで、優しさにつけ込んで、どうするの。
傷付くことを恐れて、愛されることを怖がっている私に、もう一度彼と向き合う資格があるというの?
受け入れることも出来ない、大人になりきれない私に人を愛することなんて許されるの?
「やっぱり、私は駄目だな……」
自己嫌悪に襲われ、気付けばLINEを閉じてスマフォをベッドに放っていた。
私が私を嫌いになる。頭を垂れて溜息を漏らす。蕾みが一つあるサボテンの柔い針を指先で、優しく触れる。プツリと針が刺さって、赤い滴が指先に浮かぶ。
貴方の優しさは、この今咲きそうなサボテンの花のように綺麗だったんだと思う。だけど、触れようと思うなら私は傷付かなくてはならない。それが堪らなく怖くて、恐れていて、傷付きたくないと拒絶してしまった。
貴方は、こんなにも真摯に咲こうとしていたのに私は傷付くのも、傷付けられるのも怖いから逃げ出してしまった。
馬鹿な私だ、拒絶してから上辺だけじゃない本当の大切さが分かったところで、もう既に遅い。
彼はもういない。会ってと言っても、会ってくれないだろう。
「それでも……」
それでも好きでいる気持ちがあるからLINEで直接は送れないけど、彼への想いを気持ちにしたいから私は筆を執る。
無造作に引いた椅子に座り、真っ新な便箋に想いを綴る。偽りじゃない、今の自分がようやく得ることの出来た本心を書き連ねる。
拝啓、貴方様で始まる文の手紙をしたためる。届くか分からないけど、届くことを願って私は思うがままに、自分の気持ちを連ねた。
2
「これ、貴方に渡す」
そうやって僕がいきなり渡されたのは小さな手紙だった。
手紙を渡してきた本人は目の前にいる。あの特徴的だったストレートロングの髪をバッサリと切って、ショートヘアになった元カノだった。
印象は新鮮さを覚えたが、あの特徴的な整った鼻筋も相俟って元カノだと直ぐに分かった。
もう別れて3年の月日が経っていた。僕は人を愛そうと思わなくなっていたから、恋人は元カノ以降作っていない。
でも元カノは既に新しい彼氏がいるだろうと思う。だからこそ今目の前で偶然にも再会して、そして手紙を渡された現実が理解できなかった。
「どうして、僕にこれを?」
普通は久しぶりだね、元気だった?とか気の利いた台詞を吐けないのかと、僕は自分を叱責した。
再会を普通は喜ぶだろ。どうして喜べないんだ、自分に引け目を感じているのか、そうなのか。
僕は面と向かって元カノに視線を合わせられなかった。元カノはジッと僕を見詰めているのに、僕は視線を逸らして視界に納めようとはしなかった。
「今さら、僕に渡したって……こんなのどうしようも出来ないよ」
そうだ、僕はもう君を諦めたんだ。その気持ちを得るまでに一年はかかった。来る日も来る日も、食事が喉を通らない思いをして、心が潰れていく痛みをグッと抑え込みながら生きてきた。
そしてようやくその痛みに慣れ、忘れようと思えていた頃に君は現れた。
僕は無理だと思った。どうせまた、この先復縁したところで同じ結末になる。
優しさだけじゃ君を満足させられない。でも僕にはそれしか無い。だから、君に僕は相応しくない。
「ごめん、さよなら」
僕は貰った手紙を突き返して背を向けた。その場を立ち去ろうとした時、強く腕を掴まれた。
細い指、整った爪先が僕の太い腕を掴んでいた。
「逃げないで」
元カノはそう言って僕の腕を掴んだ。元カノの手は僕の腕を話そうとしなかった。逃げないで、その声が酷く木霊した。
逃げないで……君は僕の前から逃げたのに、今度は逃げないでと引き留める。
「勝手が過ぎるよ。ワガママだよ!」
元カノが掴む力以上に、僕は腕を振り解いた。僕なりの決別の意思だった。
君の望むものも、君が求めるものも、何一つ与えられず、そのくせ僕の都合が良いように君の思いを受け取ってしまう僕に、君と向き合って一緒に歩く資格はない。
これ以上関わると忘れたはずの哀しさを、苦しさを、また思いだしてしまう。そうなる前にその場を離れたかった。なのに、君はまた僕の腕を取った。
「逃げないで」
「逃げてるわけじゃない、もう君とは関わりたくないだけだ!」
「私は!」
それが恐らく今まで聞いてきた中で、元カノの一番大きな声だった。
通りの人々が僅かに振り向く。何事かと。だが、男女のもつれ合いだと直ぐに理解して、町行く人の全てが二人と境界を引く。
僕は振り返った。そこには、また見たことない元カノの泣き顔がそこにあった。
涙ぐんでとか綺麗なものじゃない、流れる涙で化粧は崩れ、鼻水さえ啜って口元が情緒で歪む。
僕はそんな元カノの顔を見て、罪悪感が心の底で沸き立つのを感じた。ばつの悪い感じがした。これではまるで自分が悪者みたいな構図だった。
頭を掻き、目線を反らし、一拍ほど考えて自分の視線を元カノに戻してあげた。
「分かったよ……時間はあるかい?」
僕の問いかけに元カノは静かに頷いた。持っていたハンカチを渡し、元カノは涙を拭った。
掴んだ手を僕は掴み、手を取るような形で歩き始める。あの頃のように指を絡め合う手の繋ぎ方ではなかったが、何故だかあの頃よりも充足していた。
懐かしい感じがした。空っぽの心にあの頃の思い出が注がれる。手を繋ぐことを恥ずかしがる君をなんとか口説き落として、街中で手を繋ぎながら歩いたね。
君はどこか周囲の目を気にするような険しい顔をしていた。だけど今は、その目を真っ直ぐに向けて歩いている。
止まっていた時間が動き出す。秒針が刻むかのごとく二人の足取りは軽かった。
3
私は今、彼と歩いている。手を繋いで歩いている。あの頃は手を繋ぎながら人前で歩くことが怖かった。まるで、周囲の目が私達を好奇の目で見てるような、そんな気がしたのだ。
だけど今は違う。以前とは違って周囲の目が気にならなくなっていた。それに満たされていた。
三年もの間、彼に会いたいと思っていた。スマフォのデータが飛んで以降、彼と連絡を取る手段を持っていなかった。住んでいる場所にも行ったが、既に引き払われていた後だった。
完全に行方知れずとなった彼にどうしても会いたいと願った。その願いが通じてか、今は彼と歩いている。
「あの後、ずっと会いたいと願っていた」
私の口から自然と言葉が紡がれていた。
「……そうか」
彼の言葉はまだ冷たかった。
「……私ね、傷付くのを怖がっていたのをようやく気付いたんだ。貴方は、私のためにたくさん傷付いてたのに、それなのに私は貴方の優しさに甘えて、傷付くのを恐れていた……」
自分で自分の気持ちを言葉にしている。別れる前なら、自分の気持ちは全部心の奥底へ押しやって我慢していた。曝け出さずに、仮面で象った上辺だけの気持ちを並べていた。
恋愛なんて傷付いてもともとなのに、好きかどうかだけにこだわる必要なんてないのに、そんな事理解していた筈なのに、以前の私は傷付くことを恐れて、ただの癒やしだけを彼に求めてしまった。
だけど今は違うと言い切れる。会いたいって思う、同じ道を歩きたいと思う、そして相手を大切にする気持ちさえあれば良いんだと思えるようになった。
「貴方がね、私に振られてからどんな思いで過ごしてきたか、想像できないわけじゃない。だから、私の言ってることは全部ワガママだよ。でもね、それでもね、ワガママを言ってでも私は貴方に会いたいと願ったから」
握っていた手の力が強くなるのが分かる。痛いと思う。けどそれは、彼が経験した辛さに比べれば大した事はない痛さだった。
その痛さは抗議の一つだと思う。
「……痛いよ」
「…………ゴメン」
短いやり取りだが、あの頃の気まずさはなかった。その代わりに充足感があった。お互いがお互いを傷付けてしまっても、今はしっかりと話し合って前に進めると信じられるから。
歩みは彼と同じリズムで足を動かし、気が付けば二人でよく行っていた行きつけの喫茶店に着いていた。
カランカランと入店の音が店内に響き、いつもの窓際の席に対面で座る。珈琲の香ばしさが鼻を触った。
彼は変わらずブラックを頼み、私も変わらず紅茶を頼んだ。
まるで初めて二人でデートしたときのような初々しいさを肌で味わい、彼はさっき渡した手紙を取り出す。
「今、読んでも良い?」
「いいよ」
彼はそう言うと真っ白な封筒から便箋を取り出す。便箋は二枚入れていた。そこに綴った私の想いを彼は、必死に何度も何度も目で追って、便箋を交互に入れ替えて読み続けた。
拝啓、貴方様へで始まる文章。そこには、別れたときからこの三年間で自分が募らせてきた想いを書いていた。
そして、その想いの最後には、「貴方ともう一度やり直したい」と一言だけ添えた。
凍った表情をしていた彼の顔は氷解していき、便箋で顔を隠していた。
彼の肩は震えているのが見てわかる。顔は涙と鼻水で崩れていた。三年もの間に仕舞い込んできた感情が洪水のように溢れているのだろう。
「今さら……今さら、こんなの書いてさ、ズルくないか」
彼の涙に塗れる上擦った声が、喫茶店の中で静かに響く。
彼からしてみればズルいと言われるのも無理はない。せっかく綺麗さっぱり忘れたと思ったら私が現れて、あまつさえ三年分の想いを綴った手紙を渡されるんだから、堪ったもんじゃないと思う。
でも、彼の表情は何故だか、あの頃よりもずっと充実していた。涙で崩れた顔は綺麗な笑顔を作っている。
「実はさ……俺も、君に渡したいものがあるんだ」
私が「なに?」と聞く前に、彼は上着の懐からあるものを取り出す。
手紙だった。
私は凄く驚いてしまった。
「手紙…?」
「そう、俺も実は君のことを忘れきれなくて書いていたんだ。でも、実際に君を前にしたら、辛い時の事が甦って渡せなかった……」
「……………読んでも良い?」
彼は静かに「いいよ…」と答えて、私に手紙を寄越した。
真っ白な封筒から出る真っ白な便箋に綴られた彼の想い。三年間温めてきた想いは文字の中にしっかりと連なって、私の心の中へ染み渡ってくる。
拝啓、彼女様で始まる便箋に書かれた想い。貴方が咲かせようとしていた優しい花が、そこにあった。
触れてしまったら私が傷付いてしまうかも知れない優しさ、手を伸ばしたら貴方を枯らしてしまうかも知れない。
それでも、今の私なら触れられる。傷付くことが怖いんじゃない。傷付くことを恐れて何もかもから逃げ出すことが怖いことだと、知ることが出来たから。
だから、私は貴方の優しさに触れて受け止める。
「ありがとう…」
私は一言だけ伝えた。私への想いを忘れずに、しっかりと温めてくれた事に感謝を伝える。そして、と言葉を繋げて、私は彼に向かって心の中で温め続けた想いを伝えた。
「………あのね、もう一度だけ叶うなら、私は貴方と一緒でありたい……もう傷付くのを恐れたりしないから」
抑揚を抑えた声で、私は静かに呟く。
長い沈黙が流れた。凄く、凄く、長い沈黙だ。これまでの三年間が一瞬で過ぎ去ってしまうかのような、長い沈黙だった。他の音が強調され耳に酷く残ってしまう程に、しかし不快感はなく、寧ろ二人だけの時間を共有しているという心地良さが私を満たしていた。
このまま沈黙が続いても良いと思った。たとえ目の前の貴方が答えを出せなくても、今こうして二人だけの時間を共有出来ている。それだけで私は満たされるから。
店内を流れるジャズがピアノで魅せる甘く囁くような曲調から、一転してサックスを聴かせる艶がかかった曲調へと様変わりしたとき、彼は何かを決めた眼差しを私に差し出した。
そして口を開いた。
「……うん、俺も、もう一度君と一緒になりたい」
それは彼が彼なりに決めた答えだった。
私は満たされた心のままに左手を差し出した。彼は応えるようにして、右手を差し出して。
合わさる量の手の平。温もりを感じた。指は互いの指を求めて絡み合い、もう二度と解かせないと誓う程に固く結ばれた。
喫茶店の中をジャズの甘いメロディが広がる。
止まっていた時間が動き出す。
二人だけの時間が流れていく。
終