僕らはあの日、UFOと出会った
とりあえずジャンルをホラーにしましたが、ホラーじゃないかもしれません。
違ったらそれとなく教えて頂けると助かります。
「よし、今夜UFOを探しに行こう」
凄く唐突だった。
抑揚のない、落ち着いた声――しかし、ボソボソとしたものではなく、静かながらもよく通る声だ。
ここは部室で、発言者は部長。でも、異様だった。
何故なら、ここはオカルト研究部などではなく、天文部だからだ。
集まる部員だって、帰宅部ではないというだけの、暇人ばかり。活動などろくにせず、基本的には放課後の部室で駄弁ることしかしていない。
そんな中での発言だったから、僕は首をかしげていた。
「UFOって……ここ、天文部っすよ?」
部員の誰かが、僕の……いや、おそらくは、部長以外の全員が思ったことを、代弁してくれた。
部長は何故だか、やれやれと言わんばかりに頭を振っている。
呆れているのは、僕らの方なのだが。
「まあ……いつも通り、来る奴だけが来ればいいさ。参加するなら、今夜十九時に校門の前にいてくれよ」
そう言い残して、部長は出ていった。
きっと、顧問に話を通しに行ったのだと思う。
なんだかんだで今回も、月一くらいでやっている、いつもの天体観測なのだろうと思っていたから、特に疑問に思うところはなかった。
――と、ここまでが、今日の夕方の話である。今は夜の校門前。
集まっていたのは、僕と部長の他に、先輩の部員が一人だけ。
彼の名前はよく覚えていないが、眼鏡をかけていたので、『メガネ先輩』と僕は心の中で呼んでいた。
「これだけか……まあいい。屋上、行こうか」
校門をよじ登り、サムターン回しで玄関の鍵を開けて、暗くて静かな校舎の中に入る。
そのまま屋上へ行くのかと思いきや、途中で職員室に寄り道。ピッキングで鍵を無理矢理こじ開けて、中から屋上の鍵を取って来る部長。
……当然だが、いつもなら顧問の同伴があるので、このような泥棒じみたことはしない。
この時点で既に、僕は途轍もなく不安になっていた。果たして、このまま同行してもいいものなのだろうか、と。
そして遂に、案内されるがままに屋上へ来た、僕とメガネ先輩。
部長は着くなり、背負っていた長いバッグから、望遠鏡を取り出して組み立てる。
「さて……UFO、探そうか」
それ以降は、部長ばかりが望遠鏡をのぞき込んでいた。
何度か譲ってくれようとはしてくれていたし、一度だけ使わせてもらったのだが、少し角度を変えてみたら何故かキレたので、面倒になってそれ以降は断っている。
メガネ先輩も同じような考えに至ったらしく、僕たちは夢中になっている部長を放っておいて、「なんで今日来たんですか?」とか、「一体どうしたんだろうね」みたいな、他愛もない話で盛り上がっていた。
話をしてみると、僕もメガネ先輩も、結局UFOなんて信じていなかった。
その気なのは部長だけで、僕たちは変わった趣向の天体観測のつもりで来ていただけだったのだ。
……だから、次の瞬間に部長が発した言葉を、理解するのには時間がかかった。
「おっ、見えてきたぞ……」
僕は初め、火星か何かが見えたのかと思った。
UFOと言えば宇宙人。宇宙人と言えば、やっぱり火星人だ。
だから僕は、火星からUFOが飛び立つところでも捉えるつもりなのかと思っていた。
でも、その後の様子を見るに、そういうわけではなさそうだった。
「UFOだ! やっぱり来た! 予言書の通りだ!」
すごく喜んでいるが、僕からすれば言っていることの三分の一程度しか理解できないし、何だか不気味だった。
もしかして、僕らを驚かそうとしているのかとも思ったが、とても演技をしているようには見えない。
なぜなら、目が輝いていたからだ。
「来るぞ来るぞ……こっちに来ている! もうすぐ肉眼で見える! ……あれだ!」
そう言って、空を指す部長。
その先には、流れ星のような、動く光の点がある。
ただ、それがUFOなのかと言われると、そう断言することは出来ない程度には、光は小さい。
「ひ、飛行機……ですよね?」
「さ、さあ……? でも、飛行機にしては速くない?」
メガネ先輩の言うように、確かに少し速い気もする。
でもそれは、『気がする』程度の物だった。
だが、よく見てみると、そんなことが気にならなくなるほどにおかしい。
「しかも、かなり多いし……」
そう――光点は次々と現れて、やがて数十、数百もの群れとなった。
それが編隊飛行のように、整った形を保ったまま動いていたのだから、異様だった。まるで、夜空にかがいていた星たちが、次々に墜ちてきているかのような光景だ。
もうこれは、飛行機だとか、流星群だとか、絶対にそんなものではないことだけは断言できる。
僕たちと一緒にその光景を見ている部長は、未だに笑い転げていた。
一方で僕は、体の芯が凍り付くような感覚を味わっていた。
「あれって……まさか本当に……!」
「UFOだ! 少なくとも、地球の乗り物じゃない!」
「こっちに近づいてる! いや……こっちに来ている!」
大挙して押し寄せる、飛行体。
近づくにつれて、その輪郭が段々と露わになってくる。
夜の空を翔るその物体に、翼やプロペラといったものはついていない。なにかを噴射して飛んでいるようにも見えない。
例えるなら、フリスビーだ。
平べったい正円が、何故だか浮いているのだ! 音すらなく! あれは明らかに、超常のものだ!
そんなものが迫っているのだから、僕は恐ろしかった。今すぐ、安全な場所に避難するべきだと考えた。
「先輩、逃げましょう!」
「ちょっと待って。その前にカメラ……写真撮っておかないと」
ああ、だめだこれは。こんな時に、呑気にスマホなんか取り出してる先輩なんか放っておいて、自分だけでも逃げなければ――
そう思って、僕が校舎へのドアに手をかけたその時……
いつのまにか笑いやんでいた部長の、静かな声が響く。
「ふっ、無駄だよ。逃げるのも、撮るのも……」
哀し気な眼差しで、天を仰ぐ部長。
それを見ると、何故だか僕の心から、焦りと戸惑いが消えていくような気がした。
そして僕は、引き返した。何故なら――
「この星は、もう我々のものではないのだから」
理解したのだ。もう、どこにも逃げ場など無いと。
空を覆う無数の円盤から、逃れる術など無いのだと。
地球人の紡いできた歴史は、今ここで潰えるのだと。
僕たち三人は、ただ佇んで、見届けた。
UFOから、雨あられのような光線が降り注いで、街を破壊していく様を。
地球人類が、文明と共に滅びてゆく、その瞬間を――
◇
アラームが鳴り響いたので、つい条件反射で起きてしまった。
目覚めた直後は、「今日も学校か……」などと憂鬱になっていたのだが、昨日のことを思い出すと、そんなことを考えている場合じゃないことに気が付いた。
あれから一体、地球はどうなったのだろう。僕はどうして、家のベッドで寝ているのだろうか。その答えを探るべく、支度をして部屋を出た。
「あら、今日は早いわね。朝ごはん食べちゃいなさい」
台所に行くと母親がいたので、UFOを見たのはただの夢だったのかと思った。
「な、なんなんだ、これは……!」
でも、それも一瞬だけ。
そこにあったのは見慣れた光景のようで、よく見ると理解のできないものばかり。
まだ夢から覚めていないのではと、そんな疑念を抱かずにはいられない場面であった。
いまだかつて嗅いだことのない、強烈な刺激臭が漂っている。
腐った牛乳に酢でも混ぜ込んで、ウジの沸いた肉でもトッピングしたかのような、食欲どころではなくなる最低な匂い。
テーブルの上には、激臭の根源と思わしき、ドス黒く濁った醜悪な液体が、真っ白な皿によそわれて鎮座していた。
それだけではない。
何重もの悲鳴が、オーケストラのように響き渡っている。
その声の発信源を見る。そこには、昨日までは無かったベビーベッドがいくつもあって、その上では十人ほどの赤ん坊が、ギャンギャンと当たり散らすように泣き喚いていた。
「なんなのさ、このグロい液体! それにこの赤ちゃん! 二の四の六の八の……十人もいるし!」
「グロいって……失礼ねえ、今日の朝ごはんじゃないの。それにその子たちは、アンタの弟と妹よ」
「はあ!?」
そう言って、僕の兄弟だと言うその子どもたちに、グロテスクなスープを飲ませる母。
暴れたり大声を上げていたりして、拒絶の意を示す赤ちゃんたち。
スプーンを強引に口の中に押し込んで、微笑んで見せる母。
苦しそうに顔を顰めて、吐き出す赤ちゃんたち。
それを見て尚も、口にスープを詰め込む母。
気が狂いそうだ。
「アンタも早く食べちゃいなさい」
「いや……いらない……。それよりその子たち、いつ生まれたの?」
「昨日よ」
母は小太りだが、妊娠していたら流石にわかる。
昨日までは間違いなく、そんな様子はなかった。
それに……十人。そんなに身篭っているのなら、絶対に隠すことなんて出来ないはずだ。
そもそも、この子達は本当に母が産んだ子どもなのだろうか?
本当はただ、誰かから預かっているだけで、僕を驚かそうとしているのではないだろうか。いや、それにしては乱暴だったが……
とにかく、こうして戸惑っていても仕方がないのだから、何か質問してみよう。
「ところで……この子達の名前は?」
「え……?」
本当に自分の子どもなら、すぐに答えられるはず。
だというのに、何故だか困惑したような素っ頓狂な声を上げている。
やはり、この人は僕を驚かそうとしていたのだ。
スープだって、見た目と臭いはアレだが、本当は美味しいのかもしれない。
昨日のことも、ただの夢だったのだろう。そう考えると、僕は胸を撫で下ろした。
しかし――母の答えは、僕の想像の遥か斜め上を行くものであった。
「決めてるわけないじゃない。だって、明日には出荷するもの」
「……は?」
一瞬、理解が及ばなかった。
今、『出荷』と言ったのか? 多分、聞き間違いだ。そうに違いない。
そんな僕の動揺を読み取ったのか、母は答え合わせをしてくれた。
「税として納めるのよ。アンタもう高校生なんだから、そのくらい知ってんでしょ」
知っているわけがない。どこの世界の常識だ、それは。
ふざけているにしても、度がすぎている。
僕は椅子に座って、テーブルの上のスープを飲んでみた。
……恐ろしく不味くて、一口啜っただけなのに、それ以上の量を皿に戻してしまった。
土と血と機械油を、スポーツドリンクで煮込んだような味だった。
そこに芳醇な刺激臭まで加わるのだから、美味いわけがない。
「そうだ、税と言えば……」
僕が吐き出しているのも気に留めず、母は切り出す。
近づいて来て僕の左手首を掴むと、もう片方の手で僕の小指を握る。
そして――
「アンタも今日の分、しっかり払っときなよ」
僕の指を、ぐりっとねじ切った。
「ぎゃああぁぁぁぁあああああっっ!!」
「なによ大袈裟ね。赤ん坊の時に神経取ってるんだから、痛いわけないじゃない」
母の言う通り、確かに痛くない。すごく、不思議な感覚だ。
しかし、だからといって何も感じないわけではない。骨を外されたときのゴリッとした感触や、肉がちぎれるときのブチブチッとした音は、不快としか言いようがない。
それに、体の一部を失う喪失感も、無いわけではないのだ。
普段あまり意識することのない小指でも、失ってしまえばとても哀しい。
これからは小指のない人生を歩むのだと思うと、堪らなく不安で、悔しくなった。
「そんなに泣かなくても、その内生えてくるわよ」
本当だろうか。そうだと思いたい。
もう状況が異常なのは、身にしみてわかっているから、都合良く信用したかった。
そして信じたくなかったが、これは昨日見たUFOの仕業だ。そうに違いない。
だとすれば、確かめなければならない。
UFOの出現によって起きた変化の全容を。
そして、問いたださなければならない。事前にUFOの存在を知っていたであろう、『あの人』に――
「……そろそろ学校行ってくる」
「あら、気を付けなさいよ。最近はゾンビが多いらしいからね」
自分が置かれている状況もよくわかっていないのに、これ以上余計な情報を与えないで欲しい。
もう、お腹いっぱいだ。
◇
外に出てから五分で、僕は自分の判断の甘さを呪った。
いつものバス停前なのに、もう頭が痛い。
歩いている人間は、例外なく頭にアンテナ……とでも形容すれば良いのだろうか。頭頂部からリード線のようなものが伸びていて、その先にピンポン球ぐらいのサイズの球体が繋がっている。
歩くたびに揺れるその球体が、急にプロペラのように回り始めたかと思うと人が飛んだり、何かを受信したかのように突然震えては、カラフルに光ったりしていた。
……ついでにみんな、左手の小指がない。僕の手と同様に、赤黒い新鮮な断面が見えていて、それでいて不思議なぐらい血は出ていない。
変化が起こっているのは、人々だけではない。
街には高層ビル以上の大きさの、マッチ棒のような建物がそこら中に立っていた。
他にも、見慣れない建築様式の建物がちらほらと。
そして空には、我が物顔で飛び交う無数のUFOである。
「やっぱり――地球は、宇宙人に侵略されてしまったのか……!」
何かの間違いだと思いたかった。
悪夢から覚めていないだけだと、そう思いたい。
だがきっとこれは、現実なのだ。小指の喪失感が、リアル過ぎる。スープの味も、いまだに口の中に残っている。
呆然と空を見上げていると、なにやらざわめきが聞こえて来た。
今度は一体、なんなのだろうか。
「あ、あれってゾンビじゃ……!?」
「いやあぁぁぁぁっ! ゾンビ! こんなところにゾンビ!」
「OH! MONSTER!」
「通報だ! 早く粛清委員会に連絡するんだ!」
先程母が言っていたゾンビとやらが、どうやら出て来たらしい。
慌てて周囲を見渡してみる。それらしいものはいない。
「……一体どこだ?」
誰も彼もが、僕の方に視線を向けている。
疑問を投げかけるが、答える者はいない。
そしてやがて、僕は気がついた。突き刺さるような周囲の視線――それこそが、疑問に対する答えだったのだと。
「やっぱりゾンビだ! 殺せ!」
「よくもうちの子をぉぉぉっ!」
「KILL YOU!」
「明日の天気は晴れのち血の雨ぇぇ!」
通行人たちが、大挙して押し寄せる。
僕は踵を返して、もと来た道を全力で戻る。
「ゾンビって……僕かよぉぉぉっ!」
何故だか知らないが、標的は僕らしい。
急いで自宅の中に逃げ込んで、鍵をかけた。
ドンドンドンと、ドアを叩く音が響く。一体どっちがゾンビなのか。
「あ、ちょっと! アンタ忘れ物してたわよ!」
凄まじい剣幕で迫る母。
ある意味では、外にいる暴徒たち同様の恐ろしい存在だが、今は構っていられない。
扉を押さえるので、精一杯である。
「それどころじゃないんだけどぉ!」
「ハーネス無しで出歩いたら、殺されても文句言えないわよ! ていうか今すぐ死にな!」
母の手には、外の連中の頭についているのと同じ、ピンポン球。
その謎の球体の姿と、あまりにも辛辣過ぎる言葉で、僕は気がついた。
「なるほど、それが無いのが原因か!」
母から球――先程の台詞から察するに、おそらくハーネスというものなのだろう――を受け取って、頭の上に押し付ける。
その最中、指は頭皮の中から、触り覚えのないものを探り当てた。
それは本来、存在していてはならないもの――
「うえっ、頭に穴が空いてる……」
そう、頭蓋の一点に、リコーダーの底ほどの空洞ができているのだ。
頭皮で保護されているわけでもなく、恐らく脳が剥き出し……
想像すると、気持ち悪い。
ハーネスが僅かに振動する。
何が僕の頭の穴に入り込んで、中に触れる。全身を虫が伝うような、ゾワリとした感触がする。
手を離すとハーネスは浮き上がって、自立した。玄関脇の鏡で自分の姿を確認してから、僕はドアを開ける。
「開いたぞ! ……ちっ、なんだ人間だったのかよ」
「うちの子の仇に見立ててぶっ殺せる、都合のいいガキだと思ったのに……」
「SHINE!」
それぞれが思い思いの捨て台詞を残して、暴徒たちは帰っていった。
全員の背中を見届けると、僕の膝は力を失って折れた。
「あ、危なかった……! すごく適当な理由で殺されるところだった……!」
「これに懲りたら気をつけな! 次忘れたらぶっ殺すよ!」
まさか、街に出るだけで命の危機に瀕するとは思っていなかった。
この時僕は、強く実感する。世界は、本当に変わってしまったのだと。
今までの常識を捨てて、これからのルールに適応できなければ、待っているのは淘汰される未来だけなのだと――
◇
遅刻しながらも、やっとの思いで校門をくぐった僕を待っていたのは、また頭がおかしくなりそうなイベントであった。
一人の男子が、校庭のど真ん中で磔にされている。
男は何人かの生徒に取り囲まれていて、校舎の窓からは、その様子を見守る全校生徒の顔が見えた。
磔の男は叫ぶ。喉が潰れるのではないかと思えるほどに、必死に声を上げる。
「離せ! 俺が一体何をしたって言うんだぁぁあっ!」
状況が掴めなかったので近づいてみる。
取り囲んでいる生徒たちは、生徒会だった。
全員の顔を知っているわけではないが、その中にいる一人の女子生徒――美人な生徒会長だけは、印象に残っている。
そして、磔にされていたのは――
「せ、先輩!?」
そう、先日一緒にUFOを目撃した、メガネ先輩であった。
「なんなんですか、これは一体! どうしてこんな酷いことを!」
僕は生徒会長に詰め寄って、抗議した。
……でも、次の瞬間には、理由を察した。
「見てわからない?」
改めてよく見てみると、メガネ先輩の頭には、ハーネスが無かった。
ついでに左手の小指も健在である。
察するに、きっと僕と同じなのだ。昨日までの世界の常識が、残っているのだ。
おそらくだが、運良く誰にも気付かれずに学校まで来れたものの、運悪くハーネスの重要性には気が付けなかったのだろう。
あまりにも哀れすぎて、同情してしまう。一歩間違えば、僕だってこうなっていたかもしれない。
「き、キミは……! 頼む、助けてくれ! この狂人たちをどうにかしてくれぇっ!」
僕を見つけるなり、懇願してくる先輩。鬼気迫る表情である。
当たり前だ。圧倒的に価値観の違う人間たちに、嬲り殺されようとしているのだから。
同じような体験をしたばかりの僕にも、その気持ちはわかる。
どうにか助けてあげたいところなのだが……難しい。
狂人を説得した経験など、僕にはない。
「ゾンビに狂人呼ばわりされたく無いわね……」
「ゾ、ゾンビだと!? ふざけるな! 俺は人間だ!」
「ハーネスも無ければ、指を捧げてもいない。そんな人間が、果たして生きていると言えるのかしら?」
「ワケがわからない! 一体これは、どういうことなんだ!?」
先輩がこっちを見る。視線で強く訴える。
でも生憎、僕もそんなに詳しく説明できるほどには、今起きている変化を把握してはいない。むしろこっちが聞きたいぐらいだ。
しかし一つだけ、重要な情報を持っている。僕はそれを、どうにか伝えなければならない。
「先輩……僕たちの頭の上についてるコレ、持ってますか……?」
「それは何なんだ!? みんな付けてるけど……」
「家に帰って付けてきてください!」
「だから何なんだよ、それは! 帰ろうにも、この有様じゃどうにもできないだろ!」
確かに、縛られていては何もできない。
でも僕には、そう訴えることしかできないのだ。
ハーネスとかいう物体の正体を、僕は何一つとして知らないし――
それにこの場で、「付けてないと殺されてしまうんです!」なんて大声で言おうものならば、僕までこの狂人たちに怪しまれてしまう。
この世界は既に、狂人が大半を占めている。僕は――いや、僕たちは、これからはその中に溶け込まないといけないんだ。
だから、少しでも狂人に成りすまさないといけないんだ。
でも、そんな僕の思いなど、先輩が知る由もない。
察してくれることに賭けたのだが……どうもそれは、失敗したらしい。
「第一、そんなダサいの付けて、何になるって言うんだ! そんな変な飾りを身に着けて……」
「ダメだ! それ以上は言っちゃいけない!」
「――みんな、頭がどうかしてるんじゃないのか!?」
終わった……
目に見えて、雰囲気が変わった。
誰もしゃべらない。異常なほど、静かだ。
「……」
「……」
「…………え?」
後者の中から見ていた生徒たちの視線は、当初は奇異の目であった。
しかしもう違う。先輩は既に、誰からも白い目で見られていて、「死んで当然」とでも言わんばかりのムードであった。
先輩も気が付いたのだろうが、もう遅い。もう、どうにかできる気なんかしない。
「………………言って、しまった……」
思わず呟いてしまった。誰にも聞かれていないことを祈るしかない。
幸い、先輩ばかりに注目が集まっている。
それを裏付けるかのように、生徒会長は僕の方になど目もくれない。
「……ただ忘れてしまっただとか、そういう事情なら見逃してあげないでもなかったわ」
凄く冷たい声だ。
これは、さっきの暴徒たちなどとは違う。正義に溺れ、暴力に快楽を見出すような人間のものではない。
まるで、これからゴミ掃除でも始めるかのような、無感情な響きだ。
「――でも、これは本物のゾンビみたいね」
「違うんです! この人、寝起きで頭が回ってないだけなんです!」
「いや、そんなことないけど……」
「黙っててくれよ! 庇いようがないだろ!」
我ながら、凄く苦しいとは思う。
でも、他に手など思いつかないのだ。決定的な間違いを犯した以上、もうゴリ押しするしかない。
別に僕は、この先輩とはそんなに親しいわけではない。でも、目の前で殺されてしまえば目覚めは悪いし――それに、今となっては唯一の『仲間』なのかもしれないのだから、絶対に失いたくはない。
……でもやっぱり、無駄だった。
「無駄よ。この男は、ゾンビなの。予定通り、処分しなくちゃいけないわ」
もう、流れには逆らえない。
激流の川の中を上流に向かって歩くような、そんな限りなく不可能に近い状況である。
でも、抗うしかなかった。流れに乗っかってしまえば、取り返しのつかないことになってしまうのだから。
「待ってください! これは何かの間違いで――!」
「誰か抑えてて。それと、メタモルビームの準備を」
「メタモルビーム!? やめろ、放してください!」
何人か掛かりで、機械が運ばれてきた。
大きな台車に乗った、変な形の機械――
強いて例えるならば、大砲とか、そういう形状だろうか。発射口みたいなものがあって、そちらが前のようである。
「これからこの変質光線照射装置で、貴方をミュータントに変えるわ」
「ミュータント!?」
「そう。貴方の身体が、突然変異を起こすの」
テキパキと、準備を進めているような様子の生徒会役員たち。
生徒会長が先輩と話しているのは、あくまでも暇つぶしというか、余興というか、そんなものなのだろう。
ギャラリーたちも、沸き立っている。こんなところに、もう居たくない。
「お、俺は……死ぬのか……?」
「運よく有用なミュータントになれたのなら、処分はしない。政府への献上品か……あるいは、粛清委員会のペットになるか……どちらにしても、自我なんて残らないから、気にしなくていいわ」
僕は精一杯、先輩に謝った。
口に出してはいない。あくまでも心の中で、誠心誠意、謝罪をしていた。
出来るだけのことはやったのだ。どうか、許してほしい。
「始めて頂戴」
「はっ」
変質光線照射装置とやらから、光が放たれる。光線といっても、SFアニメにでも出てきそうなものではなくで、あくまで投光器のようであった。
これが、メタモルビームというやつなのだろうか。
それは別にどうでもいいが、目は背けておくべきだったと、僕は後悔した。
「や、やめろ……うわあぁぁぁぁぁぁっあぁぁぁっああああああああああああ!!」
「先輩いいいいいいぃっ!」
「ぐぎゃぁぁぁぁぁぁぁっ…………!」
肉がシャボン玉のように膨らんで弾ける。
吹き出した血が青く変色して、土を湿らせる。
髪が逆立って、勢いよく抜け落ちる。舌が長く伸びて、一メートル以上も口の外に出る。耳がハスの葉っぱのように広がって、鼻はバラの棘のように鋭く尖る。
肩からスパイクが生える。背中から骨が付きだす。腕は丸太のように太くなって、足は分裂して四本になる。肌は青く染まる。爪は剥がれる。腹が水風船のようにどんどん膨らんでいく。
――そして最後に、眼球が飛んだ。
「ふふ……ダメね。これじゃあ、朝食の材料にしかならないわ」
「回収しますか?」
「当然よ。貴重な資源なんだから、しっかり活用しないとね」
生徒会の人たちは、動かなくなった先輩――と言うより、先輩『だったもの』を袋に詰め始めた。
肉片の一つも見逃さず、土がついていようとお構いなし。それどころか血のしみ込んだ地面さえも掘り起こして、採取している。
校舎から覗いていた生徒たちも、次第に奥へと戻っていった。
そして僕は、ただただうずくまっていた。
「それで……こっちはどうしますか?」
「放っておいていいわ。ゾンビではないみたいだもの」
「承知しました」
そうして回収作業が終わるまで、僕は動かなかった。
誰もいなくなったころには既に夕方で、空は赤かった。
UFOは相変わらず飛んでいた。
「何だよ……何なんだよ、これはああぁぁぁぁっ!」
人目もはばからず、叫ぶ。
冷静ではいられなかった。昨日までの日常とのギャップに、耐えることができなかった。
胸の奥で渦巻いている感情が何なのかは、僕自身にもよくわからない。
でも間違いなく、怒りだとか憎しみだとか、そんな敵意のようなものは無かった。なぜならば、戦っても勝ち目などないと、既に悟っていたから。
しばらく叫び続けて落ち着き始めたころに、ポケットの中のスマートフォンが震えた。
通知内容を見て、僕は『遅すぎる』と思った。
◇
「よく来てくれたな。伝わってなかったら、どうしようかと思っていた」
その日の夜、僕は学校の屋上に来ていた。
頭のハーネスは、家に置いてきた。誰にも見られずにここまで来るのは骨が折れたが、夜の闇にまぎれて移動すれば、決して不可能なことではなかった。
わざわざ危険を冒してまでこんなところに来たのは、部長から連絡があったからだ。
スマートフォンに、ショートメッセージが届いていた。
内容は『星を見よう。場所はいつものところ。手ぶらで結構』――これだけだった。
「あんなことがあった後でしたからね……かなり神経質になっていたんですよ」
「あんなこと?」
「メガネ先輩は殺されましたよ」
「……それは残念だ」
メッセージを受け取った後、僕は学校で部長を探した。
このおかしな世界の真相を突き止めたいのもあったが、それ以上に、メガネ先輩を見捨てたことを、責めてやりたかったからだ。
でも、部長は学校には来ていなかった。よくよく考えてみれば、呑気に学校へ行った僕の方がおかしいような気もする。
「他に変わったことは?」
「天文部は無くなってました。剣道部や柔道部、弓道部もありませんでした。それと……料理部の周りは、もう酷い臭いでしたよ」
「そうか……そんなところまで……」
僕は、部長を探す過程で、あらゆる教室や部活を尋ねた。
結果として分かったのは、部長はちゃんと学校に在籍こそしているが、今日は登校していなかったこと。
そして、いくつかの部活は無くなっていて、その代わりに新しい部活ができていたこと。……『ゾンビ狩り部』だとか、『ハーネス研究会』なんてものまであった。
それらのことを事細かに説明すると、部長は僕の肩を掴む。
「よく生き残ってくれた。そして、よく俺のメッセージの意味に、気が付いてくれた」
「星を見るのはいつもここ。いつも部長しか望遠鏡持ってこないんだから、わざわざ『手ぶら』なんて書かれてたら、余計なものを持ってくるなってことでしょ」
「そうだ。ハーネスには盗聴機能や、追跡機能――それに、思考を読み取る機能まで、ついているらしいからな」
なるほど。ハーネスとは、まさしく手綱――人類を縛る為の、拘束具なのだろう。
そう考えると、かなり危険な代物だ。遠隔操作で装着者を殺すことだって、もしかするとできるのかもしれない。
こんなものを、強制している存在とは、一体何なのだろうか。
「教えてください。今、この世界で何が起きているんですか!」
「お前の想像通りだよ。この星は、宇宙人に占領されたんだ」
まさか、本当に宇宙人だなんて……
未だに見たことはないから、実感が湧かない。
いや、だからこそ、人々は何の違和感も持っていないのかもしれない。
でもきっと、部長は宇宙人のことを知っているのだろう。
昨日の時点で既に、知っているような口ぶりだった。
「でも、部長は宇宙人の存在を、事前に知ってましたよね?」
「そうだな、俺はいつかこの日が来ることを知っていた――」
部長は、深く息をついて、神妙な面持ちで話し始める。
「俺の一族は予言者の家系でな。俺の祖父にあたる人物が、予言書を残していてくれた」
「そんな冗談を聞きたいわけじゃ……」
「これがその予言書だ」
そう言って、輪ゴムでまとめられた紙束を投げ渡す部長。
僕はそれを受け取ると、開いて中を確認した。
そして……これは確かに、昔に書かれた物だとわかった。全体的に劣化して黄ばんでいたし、ボロボロだったからだ。
「……どうして、これを公表しなかったんです?」
「1999年までは、世間では別の予言が流行っていた。まあ、結局そっちの予言は外れたんだが……当時この予言書は、二番煎じのパクりにしか思われなかったらしい」
「それ以降は……?」
「みんなお前と同じ反応をしたよ。予言が当たってくれた時は、不謹慎ながら喜んでしまったな」
自嘲気味に、くすくすと笑いを浮かべる部長。
確かに、誰も信じなかったお祖父さんの予言が本当だったのならば、少しは溜飲も下がるのかもしれない。
『嘘であって欲しかった』と気兼ねなく言えるのは、きっと僕が部外者だからなのだろう。
「それでも直前までは、俺も力を尽くしていたんだけどな……でも、ダメだった」
「そんな……」
「だからせめて、奴らの洗脳を回避できる人間を増やそうとはした。洗脳のことも、それを避ける方法も、予言の中にあったからな」
何となく、合点がいった。
凄く唐突だと思っていたけど、それはきっと最終手段だったからで、ほとんど用意のないまま進めたからだ。
そう――あの日の天体観測は、部長にとって最後の足掻きだったのだ。
「その洗脳を回避する方法というのが、直前にUFOを目撃しておくこと……」
「そういうことだ。一度奴らの姿を見ておくことで、洗脳は不完全なものになる。実際、俺たちの洗脳はすぐに解けた」
「すぐ……? まるで、少しの間だけでも、洗脳されていたみたいじゃないですか」
「……知っていたか? 今日は日曜日なんだよ」
一瞬、場を和ますための冗談かと思った。
でも嘘を言っているようにも思えなかったので、僕はスマートフォンを見ようとしたけど……
部長の『手ぶらで来い』という言葉を律儀に守って、家に置いてきてしまっていた。だから仕方なく、確認ができないまま、驚いて見せる。
「え、日曜日なのに学校が!? いやそんなことより、UFOを見たのは平日だった……少なくとも、土曜日じゃない!」
「丸一日は洗脳されていたようだな。俺は土曜日の夕方に気が付いた」
「たった一日とはいえ、あんなおぞましい生活を、何の違和感も持たずに続けていたなんて……」
そうなると、母は昨日も税として差し出す子供を用意したのだろうか。
僕は、指を切り落としたのだろうか。
ゾンビと呼ばれる人たちが、無惨に処刑されたのだろうか。
「それに結局――洗脳が解けたところで、一体何をすればいいんだ……!」
「俺たちの力じゃ、どうしようもないな。こうなってはもう、一生を宇宙人共の家畜として過ごすしかない」
「そんな……! 毎日指を取られたり、不味いスープを口にしないといけないなんて……」
嫌なんてものじゃない。
こんな生活を続けていたら、発狂して死んでしまうのではないだろうか。
僕には、耐えられる自信がない。狂人の群れの中で、自然に振舞うことなんて絶対にできない。
「なら一体、何のために洗脳を解いたんですか! こんなことなら、UFOなんか見なけりゃよかった……!」
「こうなった今、俺の目的はただ一つだけだ……」
流石に部長も、これからの人生を想像して、絶望しているらしい。
声は震えていて、涙を流していた。
泣きながら、僕に願いを託した。
「この真実を、その内作らされるであろう君の子供に、語り継いでいってほしい。洗脳を受ける前の子孫たちに、宇宙人共の支配から抜け出すきっかけを受け継いでいって……そしていつの日か、地球を取り戻すんだ……」
……きっと、何代も先の話になるだろう。
僕たちは、その礎になることしかできない。
「諦めろ」と、部長は暗にそう言っているのだ。
僕も、覚悟を決めなくてはいけない。
そう思って、強く拳を握りしめる。
「――へえ、なるほど。そういう目論みだったのね」
そして、その決意を嘲笑うかのように、女の声が響いた。
「誰だ!」
「こんばんわ。我々の主に楯突く、愚かな予言者の末裔君」
屋内に通じる唯一の扉が開く。
その中から出てきたのは、僕の見たことのある人物であった。
そう――昼間、会ったばかりだ。
「生徒会長だと!? 『我々の主』って、まさかお前……人類粛清委員会か!」
「人類粛清委員会!? なんなんですか、そのヤバそうな名前の組織は!」
粛清委員会という名前自体は、何回か聞いている。
だが、その正体は、結局わかっていなかった。
新設された、政府の機関か何かだと思っていたが……まさか、そのような物騒な名前だとは思っていなかった。
「俺はさっき、予言は信じてもらえなかったと言った……。だが、例外もあった。それが、奴ら人類粛清委員会だ!」
「貴方のくれた予言は、とても素晴らしいものだったわ。おかげで、こうして新たな主を手厚く迎え入れられたのですもの」
「どういうことなんですか、会長!」
会長に詰め寄ろうとした僕の前に、部長の背中が立ちはだかった。
そして振り返ると、僕に向かって怒鳴る。
「話が通じると思うな! 奴らは人類の衰退を目的としたカルト集団――いわば、地球人類の裏切り者だ!」
「えぇ!?」
「奴らは今、宇宙人共の尖兵となって、地球人を苦しめている!」
「そういえば、先輩の処刑を主導していたのは会長だった……! それに、あのメタモルビームとかいう装置……どう考えても、地球のものじゃない!」
どうして、会長がメガネ先輩を処刑していたのかは気になった。
でもそれは、この世界では私刑が許されているのだろうと、何となくそう結論付けていた。
しかし、宇宙人の代理なのだとすれば、メタモルビームのような謎装置の存在にも納得できる。
「私たちはね、宇宙人様に恭順の意を示したの。そうしたら嬉しいことに、あの方々は我々に、家畜共の管理をする役目を授けてくださったわ」
まともな人間たちはあっさりと洗脳されて、まともじゃない奴らが記憶をそのままに、地位を手に入れて好き勝手に振舞う――
なんとも、嫌な話だ。
「場末のカルトから、お山の大将になれたわけだ。よかったじゃないか、これからも奴らのために励めよ」
「そうね。今日は六人産んだから、明日は十人に挑戦しようかしら」
「く、狂ってる……」
皮肉を言う部長だが、全く効いていなかった。
それどころか、こっちが胸糞悪くなってしまった。
宇宙人は、母のような経産婦だけではなく、高校生にまで子供を作らせているのか。
しかし、このままこうしていても仕方がない。
生徒会長に見つかってしまったのだから、何かしらの手は打たなくてはいけない。
二人掛かりで取り押さえようと思って、僕は部長の横に並んだが――
その時、会長はパチンと指を鳴らした。
「さて、おしゃべりはここまででいいわよね? ミュータント部隊、出てきなさい!」
「「「はっ!」」」
屋上の縁から人が飛び上がり、会長の周りに着地する。
一人だけではない。次から次へ、四方八方から、忍者のような身のこなしでやってくる男たち。
顔はフルフェイスのヘルメットで覆われていて、見えない。しかし、服の上からでも、人間離れした――というより、明らかに人間ではなく、ゴリラを歪にしたような体格であることは確認できた。
「な、何だコイツら!?」
「まさか、一人で来ると思っていたの? 貴方たちのような、危険分子を排除しに来たっていうのに」
「なるほど、偶然立ち寄ったというわけではないみたいだな……」
「そっちの彼の反応が気になってたから、マークしてたのよ。そしたら案の定、ネズミがもう一匹釣れたってわけ」
まさか……先輩が殺されたときに、怪しまれてしまったのだろうか?
いや、そうとしか思えない。それ以外のところでは、会っていないのだから。
だとすると……この事態は、完全に僕のせいだ! あれだけ怪しまれないようにと気を付けていたのに、感情で動き過ぎてしまったんだ!
「話も十分聞けたわ。その二人を捕まえて、メタモルビームにかけなさい」
「ちっ!」
部長が走り出す。僕のことなどお構いなしに、スタートダッシュを切る。
生徒会長を力づくで押しのけて、ミュータント部隊と呼ばれた男たちの一人に、組みつく。
「きゃっ!」
「ぐおっ! こ、こいつ!」
部長が、僕の目を見た。
僕は最初、部長に見捨てられたと思った。
でも、それは違うのだと、瞳を見て悟った。
「今のうちに逃げろ! 希望を絶やすなっ!」
「は、はいっ!」
人並みの神経をしていれば、本来ここで部長を見捨てたりなんかできないし、そうでなくても戸惑うはずだ。
でも僕は、あっさりと逃げた。だってもう、何もかもが嫌になっていたから。
部長なんてどうだっていい。メガネ先輩が殺されたことだって、もう忘れる。そんな気持ちで、僕は走った。
「何をしているの、追いさなさい!」
後ろから、生徒会長の声が聞こえる。
彼女は、僕を逃がしてくれるつもりはないらしい。
ならとにかく、少しでも早くこの校舎を出て、街に出て、なるべく遠くまで逃げなくちゃいけない。
家に戻ることなんて、もうできない。きっと見張られている。
学校にだって、もう行けない。生徒会長をはじめとした、粛清委員会の目があるから。
僕にはもう、行くところなんてない。でも、逃げなくちゃいけない。捕まれば、待っているのはメガネ先輩のような惨い最期だ。
「逃げなきゃ、逃げなきゃ……!」
「こっちだ! 追い込め!」
僕は全力を尽くした。でも、捕まった。
そりゃそうだ。何人ものミュータント相手に、普通の人間である僕が敵うはずがない。
「うわあああぁぁぁっ! やめろ! 放せ! 死にたくないぃぃぃぃ!」
「大人しくしていろ! 運が良ければ、我々の仲間になれる!」
「嫌だ! 化け物になるのは嫌だあああぁぁぁっ!」
僕は叫ぶ。みっともなく喚く。
もう、どうしようもできない。でも、どうにかするしかない。
だから、暴れる。まるで赤ん坊のようだと、自分でも思う。
「ちっ! うるさいガキだ!」
お腹に、何か岩のようなものが叩きつけられた気がした。
それがただの拳だったと気が付いたのは、胃の中のものが逆流して、口から吐き出された時だった。
拘束していた腕が放されると、僕は倒れ込んだ。もう、立てない。
「ゆ、夢だ……こんなの、夢…………」
痛みも、吐瀉物の味も、息の苦しさもある。
意識が朦朧としていく実感もある。
夢ではない。悪夢ですらない。これは、間違いなく現実なのだ。
でも、僕は全てを諦めて、眠ることにした。
せめて、安らげる夢を見れるようにと祈って……あわよくば、何かの間違いであることを期待して……
そして意識は、暗黒の世界へと旅立った。
◇
アラーム音で、僕は目を覚ました。
すぐさまスマートフォンを確認する。
日付は――金曜日。
安堵のため息をついた。
乱れていた呼吸を落ち着かせて、流れていた涙を拭う。
窓を開けて、空を見上げる。
「夢、か……」
今までのことは、全て夢だったのだ。
正直、内容なんてもう覚えていないが……とにかく、恐ろしいことの連続であったことだけは、本能が記憶している。
良かった。本当に、夢で良かった。
これからは、毎日を真剣に生きよう。
いつこの日常が崩れ去って、辛く苦しい世界になってしまうかはわからない。
だから今できることを、精一杯頑張ろう。今ある幸せを、全力で堪能しよう。この世の美しさを、全身で享受しよう。
――世界は決して、不変ではないのだから。
身支度を整えて、朝食を作って待っているであろう母の下へと向かう。
その途中、いつもの日課を忘れていたことを思い出して足を止める。
「おっと、そうだった……」
いつも通り、僕は自分の小指をねじ切った。
あなたの見ている世界、間違っていないと断言できますか?