ツーショット7
その日、僕にとっての幸運は3つある
まず、父はそれに関してお咎めを受けなかった
僕はもう2度とこのようなことをさせないと固く誓い、何度も謝罪し、父を連れ帰った
彼の体からはまるで体臭かのように酒の匂いが染み付いていた
しかし、僕はまさか父がこんな事をするとは夢にも思っていなかったのだ
他の誰もが、やっぱりと思っても、僕と妹だけは父の事を信じていた
父は定職にもつかず、毎日、自室に閉じこもって酒ばかりを飲んでいた
だが、父ばかりが責められるわけではない
これは、身内贔屓から来る考えてはないのだ
元々、父は近くの工場で働いていた
僕が幼い頃はよく、不用品として工場で廃棄される何に使うかも分からない部品を父に強請った
父はとても優しい人だ
それは、今でも変わらない筈だ
飲んだくれになったからと言って、僕らが彼に暴力を振るわれた事は一度もない
口汚く罵ったり、安酒以外で金を使う事はない、ただ、僕らとさえ交流を持たない、それだけだ
無論、知っている
それは十分な虐待である事を
でも、僕と妹はもうお互いでお互いを支え合って生きていくことができたし、何より僕らは父を被害者だとさえ思っていた
被疑者は誰か?
それは、僕らの母親とそして、無責任な人々だ
僕は母という人物を知らない
2歳しか歳の違わない妹を産んでから家を出て行ったらしい
理由は知らない
無論、僕に母の記憶がある訳がない
ずっと3人でそれでも、上手くやってきたのだ
父は言葉にはしない愛情をくれたし、僕らを養う為に必死に働いている事を僕らは知っていた
しかし、僕が中学校に上がったばかりの頃だ
父の元に弁護士が現れ、僅かな所持品と暮らしていくには十分な保険金を手にして母の死を伝えにきたのは
父には吃音があった
それもあってきっと寡黙だったのだろう
しかし、それを補うように父は真面目に働いていた筈だ
前年では、勤続年数とその実直な勤務姿勢を評価されて僅かではあるが昇給していた
だが、何処からか父が多額の金を手にし、それが家を出た妻の生命保険金だと漏れると、忽ちに憶測が広がった
父が捨てられた復讐と金の無心で、母に手をかけたのでは無いかという馬鹿げた妄想だ
僕は最初、そんな事を聞いた時、腑が煮えくり変えるとはこう言う感覚なのかと知った
胃の底から何か流動体状のそれが、意思を持ったかのように僕の腹の中を撫でくりまわすのだが、それが何とも不愉快でそれを止めようと激しい衝動が僕を動かした
僕はそれを口にした奴に掴みかかりそのみっともない口を閉じさせてやろうとした
そして敢えなく周りの人間に捕まり、親がそうだからと、逆に父の不名誉となる事をしてしまった
父は、僕の行為にただただ謝罪をした
父は噂に対して否定も肯定ーー当然だ、もしなかった
僕は父がそんな人間じゃ無い事を知っていたが、民衆は少し人と異なった性質ー言葉をスムーズに発せられない、に対して顕著なまでに反応した
父の様子がおかしくなって、仕事を退職させられたのもそれら外的要素のせいだ
そして、そもそもの原因は今まで姿形を見せてこなかった女が、死ぬ前に良心の呵責を感じたのか余計な事をしたからだ
今更、自分に母親が存在しているということなんて思い出したくもなかった
生活費の為、その金を使わないわけには行かない
妹も僕もまだ学生だ
プライドの為に、死ぬわけにはいかない
それでも、僕はなるべくその金を使わないようにバイトを沢山入れた
僕の唯一の娯楽は、保険金を手に入れる前に購入したカメラだけだった
それ以降、僕は働いた金を全て家計に使っている
僕は、こんな愚かな奴等と関わりたく無いと思った
しかし、同時にそんな彼等にでさえ、父を誤解されたくないと思った
僕のせいで父の疑惑が深まった時、僕は酷く恐れた
僕の一挙一動のせいで、父に犯罪者のレッテルが押されるのでは無いか
僕は人と上手く話せなくなった
自ずと父と同じで人付き合いが得意で無い僕と他の人間との間には距離ができた
僕は彼らを憎んでいながら、同時に恐れていたんだ
その事に、彼女と会ってから気づいた
彼女が僕に人と関わることの恐怖を失わせ、不信感を薄まらせ、僕に人間性を取り戻させた
そして、同時に彼女の存在が今、僕を打ちのめそうとしている
二つ目の幸運は、彼女は無傷だったという事だ
父が何故許されたのか、それは被害者とされる彼女が庇ったからだ
父は自分に悪意を持って行動したわけじゃ無いと暴行する気はなかったし、実際、その前に彼女の婚約者が現れ、父を押さえつけたから自分は何の被害も受けていないと言うのだ
そして、彼女の主張により父がした事は4人の中の秘密となった
4人というのは、僕と父と彼女、そして、彼女の婚約者だ
僕はその時、電話の相手が彼だと気づいた
お陰で、妹はそんなことがあった事を知らない
これまで通り、父の潔癖を信じている
しかし、僕は僕の根底が覆された衝撃を受け止めきれずにいる
僕があの時抱いた凶暴性は遺伝子の中に組み込まれていた物で、父もそう言った気性を持っているのでは無いかと
ーー最後の幸運は、僕が父を連れ疲弊しきって家に帰宅すると待っていた
妹は父の様子を見て眉をこまったように寄せたが、それ以上深入りする事はなく、夕飯を温め直しに台所へと消えた
父は酷く衰弱しているようで夢遊病のように自室へと帰って行った
僕らが2人で食卓を囲んでいるときに電話が鳴る
この家で、電話が使われることなんてそう多々あることでは無い
しかも、悪い知らせばかりだ
僕は心臓がどくどくと血流を循環させる音がする
「お兄ちゃんがいなくなってから一度、留守電来てたからその人かも
…どうしたの?早く出なよ」
妹は、一人でいる時、知らない電話は出なくていいと言ってある
そうした犯罪の手が使われると聞いたからだ
妹は僕の様子を不思議そうに見つめながら、焼き魚に箸を伸ばす
「…はい」
観念した僕は受話器をとった
それは、あるコンクールで審査員をしていたという男からの電話だった
彼は、聞いた
君は、カメラマンになりたいのかと
僕は、半分どこかにいった意識の下、はいと言った
彼は僕に彼のアシスタントになるよう勧めた
彼について回るようになって僕は知ったが、彼はその道では知らぬ人はいない写真家だった
僕は少しも迷う事なくそれに飛びついた
高校を中退し、週に6日、男の下で雑用をこなし、1日休日として当てられた
僕はそれをいらないと思ったが、まだ成人していない事と、そして、家の様子も見なければいけないこととがあったが為にその日は実家に戻った
僕はあの日から真実、彼女に会っていないのだ
会えるはずが無い
どんな顔をすればいい?
僕の父親は実は周囲が言うように乱暴で狂った人間で、母親という女に手にかけたかもしれなくて、僕にはその血が流れていて、そして、彼女はその恐怖に晒された
会えるはずが無い
会えるはずが無いんだ
彼女の姿が脳裏に浮かぶ
あの時、彼女はどんな顔をしていただろう
彼女の隣には悪漢から婚約者を守る立派で正しい人間がいる
一方の僕はどうだろう
自分を襲ってきた男を抱えて去っていく僕は?
頭を下げたまま、まともに目を合わすことも出来ず、腹の底から不愉快な吐き気を催している僕は?
彼女の側にいるべきじゃなかった僕は?
「まって!」
彼女が僕を追いかけてくる
その息は奇妙な振幅を帯びていて、恐怖を抱いているのが分かる
「ち、ちがう、本当に違うの」
僕に気を遣いながら、恐怖を隠すことも出来ない彼女が憎たらしい
僕と彼女の清廉さがはっきりと比較されるからだ
後ろから、あの男が彼女を呼んで掛けてくる声が聞こえる
その緊張を孕んだ声に、彼女の事を真に心配しているのだろうと察せられる
「これ以上、僕を惨めにさせないでくれ」
ぽつりと出てしまった言葉が彼女に届いたかどうかはわからない
最低だ
加害者側のくせに、被害者ぶって彼女を責めるなんて
暫く歩いた後、彼女の気配が消えたのに気付いてほっとした僕を、僕は許すことができない
ーーもし、あの事柄が無ければ、僕は男からの申し出に即答する事はできなかっただろう
春には、君とコンクールに出す写真を撮る約束をしてある
しかし、それは無効だ
僕には彼女に会わない為の口実が必要だった
無神論者の癖に、まるで電話の男が神の使者かのように思えた
神は不幸の中にも、僕に救いの一手を与えてくれたのだと
しかし、神様なんて本当はいない
それだけならよかった
僕は彼女と会えなくなり、彼女はあの好青年と結婚して子供を産んで幸せに暮らしていけば、
僕は好き勝手に生きて、でももう2度とあの時間に得た感情を手にする事はできないのだと悟り、虚しく過ごしていけばいい
そんな、現実だったらよかった