レッドラインの殺人鬼
「んー、今日もよく頑張ったわー」
俺の名前は假屋賢人。
アメリカ合衆国のボストンに単身で来ている。
特に目的があって来た訳ではなく、漠然とアメリカンドリームを夢見てこの国にやって来た愚か者の一人だ。
今日も今日とてバイト先のShakeShackで死にそうな笑顔を浮かべて接客をしてきた帰りである。
覚える事も多いし、なにより英語を理解するのが難しい。
英語学習の糧にはなっているが負担が大きすぎるので、そればかりはちょっとした懸念だ。
働き始めて3ヶ月になるが毎日ヘトヘトで帰ってくる。
「次の電車は20分後か」
現在俺は〈south station〉にいる。
通勤と帰宅は、MBTAと呼ばれるマサチューセッツ湾交通局運営のボストン地下鉄を利用している。
バイト先から最寄りのターミナル駅〈south station〉でRedLineという路線の電車に乗車して、途中〈Ashmont〉という駅で降りると、今度はMatappanTrolleyと呼ばれる区画に入るので専属のPCCカーに乗り換える。
そのまま四駅分進み〈CentralAvenue〉で降車したら、バスに乗り換えて15分程で家に到着する。
出勤時は今の手順を逆戻りすればオッケーだ。
わりと遠いし面倒くさいが、今の家に住んでいる友人が無料で部屋を貸してくれているので、仕方がない。
ありがたい事なので贅沢は言えない。
「ふわぁ……眠いな」
もう既に夜の23:10。
毎日のように脳みそを酷使している為か、暇があると睡魔が襲ってくる。
まぁ……あと20分あるし少しくらい寝てもいいか。
周りに人が居なかったのでベンチに横になって寝る事にした。
◇
「んん……ん」
よく寝たなーとは言えないが、めちゃくちゃ眠い時にするうたた寝後の気持ちよさの3/4くらいはイイ感じに寝れた。
つまりよく寝たなーとは言えないが、結構気持ちよく寝れたのだ。
起き上がって辺りを見回してみると、相変わらず人は居ない。
いつもならまったく人がいないなんて事はないが、今日何かの日だっけ?うーん、アメリカの記念日は分からない。日本の記念日もよく知らないけど。
「あ、そういえば」
今何時だ?
俺はシンプルなデザインの……否、質素で安物の腕時計を確認する。
「f○ck!」
ついつい汚い言葉を発してしまった理由は涎を垂らしながらアイスキャンディを食べている通りすがりの3歳児だって分かるだろう。
現在の時刻は23:40。10分寝過ごしてしまった。
それにしてもまさか自分が咄嗟に英語を話すとはなぁ。一秒たらずの言葉だとしても渡米時には考えられなかった現象だ。
「間違いなくジョナサンのせいだな……」
ジョナサンは俺に無料で部屋を提供してくれているイカした野郎だ。
アイツは事あるごとにファクファク言ってやがる。おそらくそれが俺にまで伝染ってしまったのだろう。
ん?ジョナサンは普段なにをしているかって?アイツの職業はヒモさ。
女たらしの才能を如何なく発揮してやがる。
イケメンでちょっとポンコツ、社会で活躍しているレディーにはこんな男が可愛くみえてしまうのだろう。
だがヤツは何人もの女と繋がっている。ヒモとc○ckで。
そのせいだろうか、今住んでいる家に何度か激昂した女性が上がり込んできた事がある。
その度に関係者でない俺は戦々恐々としたものだが、ジョナサンは難なく相手の女を諌めやがる。
才能ってのはやはりすごいもんだ。
ちなみに住んでいる家も女から提供されている。
俺は誰に感謝したらいいのか分からないが、とりあえず日々ジョナサンに感謝する事にしている。
「ふぅ……alright」
とりあえず次の電車をスマートフォンで調べよう。
次の電車は……これまた20分後、0:00だ。
今度は寝ないようにしよう。これを逃すと結構ヤバい。
この駅の電車は終電ではないが、Ashmontで乗り換える電車とCentralAvenueから出てるバスが無いかもしれない。
特にバス、あそこのバスはたまに気分で来ない事あるからな……。
「よし、おっけーおっけー」
しかし、寝ないと言っても代わりに何をしよう。
あ、そうだ。バイト先の先輩、ジェニファーに貰った英語の勉強ノートがあるからそれを勉強しよう。
現地の人に作って貰った宿題ほど心強いものはない。彼女達は日々を過ごす上で何が必要で何が必要でないのか分かっているからね。
「はぁ……ジェニファーは優しいなぁ」
ジェニファーはとても優しい。そしてなんと言っても可愛い!
女優で言ったらナタリー・ポートマンの若い頃に良く似ている。
そんなにも可愛い彼女が何故south station近くのファストフード店ShakeShackでバイトをしているのか気になって聞いた事がある。
どうやら前まで女優を目指していたらしいのだが、脳梗塞で倒れ、今でも顔の右半分に若干の麻痺が残っているらしく、それを理由に女優を辞め、実家から近い今の店でバイトをする事にしたとのこと。
確かに初めて会った時少しだけ違和感があったけど、別に意識するほど気になる訳でもなかった。
そこまで気にする必要はないと彼女に言おうともしたが、きっとその苦しみは本人にしか分からないのだろう。
俺は健康体だからその苦しみを完全には理解できないけど、彼女に笑顔が素敵だって言う事はできる。
いつの日か付き合って欲しいと言える日が来るのだろうか。
いや、それは自分次第だろう。
このジェニファーから貰ったお手製の英語勉強ノートでしっかりと勉強して、英語で告白しよう。
「へへっ、I'm on your side」
勉強ノートに書かれた問題を声に出して読む。
彼女の想いがこの勉強ノートの問題として書かれている気がするのが、これはきっと俺の思い込みだろう。
優しいジェニファーの事だ。単に浮いているアジア人の俺を気に掛けてくれているだけのこと、特別な意味はない。
「hello」
ニヤけ面で勉強ノートを見ていると、途端に横から声がした。
低くて抑揚がなく、健康味のない掠れた声。
アメリカに来てから初めて聞くタイプだ。
大抵の社会的な人間は抑揚があり過ぎて酔ってくる程に音が上下するのだが、案外俺の周りだけなのだろうか。
それにしても……先程まで人は居なかったはずだが、いつ来たんだ?人に気づかないほど勉強ノートに集中していたのか?
とりあえず俺は声のする方を見てみた。
「……」
俺はビクッとしそうになったが、力こそ全てのアメリカでは動揺を見せてはいけない。
―――そこに居たのは想像さえ出来ない程の大男。
直立不動でベンチに座っている俺を睨んでいた。
正確には睨んでいるのかどうか分からないが。
なにせフードを深く被っていて目元の動きが読み取れない。
とにかく返事をしよう。
落ち着いて、あたかも日常の一端を紡ぐように。
「hi,how are you,what happened?」
イイ感じじゃないか?
動揺は表れていないはずだ。
「……na……a……s」
ん?なんて言ったんだ?
よく聞き取れなかった。
「what's that?」
「……anathemase」
相変わらず掠れていて低い声だ。
そして何故だろう、寒気がする。気味が悪い。
この空気感は……なんだ。どこかで感じた事がある。
精神の病んだ狂信的な人間がこんな感じだったろうか。
ユタ州プロボの酒場で似たような男を見た事がある。
ところで彼はなんて言ってんだ?聞いた事のない言葉だが。
英語……じゃなさそうだよな。
あ……あなせませ?みたいな事を言っているが……どこの言葉だ?
「english?」
「hyahyahyahya!!!anathemase……katarakatarakatarakatarakatara」
「うわぁ!!!何だお前!!!」
俺は自分でも気づかない内にその場から走り出していた。
「来んな!来んなよ!!」
「hyahyahyahyahya!!!」
気味の悪い大男は悪寒のするような笑い声を上げて俺を追いかけてくる。
振り向いてみると、腕をダランと垂らし、体を大きく揺らしながら走ってきている。
気持ちわりい!何だアイツ!頭が狂ってやがる!
と、とりあえず駅員さんのとこに行こう!
俺はRedLineの改札まで全力疾走で向かう。
心臓が張り裂けそうな程に脈打っている。
足にうまく力が入らない。
それでも走らなければ……おそらく……殺される。
途中、人が全く居ないが……これはなんだ?いくら夜とはいえターミナルステーションに人が居ない訳がない!先程からずっとおかしい!夢なのか?俺はまだベンチで眠っているのか?だとしたら早く覚めてくれ!
「no way……まじかよ……」
改札に到着すると俺は愕然とした。
改札口のシャッターが降りてるではないか。
何故だ?意味が分からない。まだ終電さえ走ってない時間だぞ?
皮肉にも自分が発したno wayの通り、本当に道が無い。
どうすればいい。改札窓口もシャッターが降りていて中の様子が伺えない。
「hey!!!please help me!!!」
俺は改札窓口のシャッターを全力で叩きながら、大声で助けを求める。
しかしいくら叫ぼうとも返事は来ない。
この間にも大男はこちらに向かって来ているのだ。
早く……早く!駅員さん出てきてくれよ!
「おい!!!居るんだろ!!!早く出てきてくれ!!!」
駅構内はシンと静まり返っている。
響くのは俺の声と、遠くから聞こえる大男の笑い声。
遠くとはいえ徐々に近づいて来ている。
早くしないと……殺される!
駅構内の無機質なにおいが余計な恐怖を駆り立てる。
「f○ck……」
来た道を戻る訳には行かない。あの大男と対峙すれば俺は確実に殺される。
「だとすれば……」
俺は辺りを見渡す。
出口はない。
が、先程から視界に写る標識……トイレ。
いや待て待て、俺とてホラー映画を見た事はあるが、大抵はトイレに逃げんこんだが最後、無残に殺される。
間違いなくやめておいた方がいい……やめておいた方がいいのだが、実際に追い詰められてみると、何故かトイレに魅力を感じてしまう。
あの場所ならきっとやり過ごせると思ってしまう。
洗脳的にそう思ってしまうのだから仕方がないだろ!
トイレに……トイレに隠れよう。
大男の笑い声が近づく中、俺はトイレに逃げ込んだ。
◇
「oh God……please protect me」
アンモニア臭漂う汚らしいトイレの個室で俺は震えていた。
入り口から四番目の個室で……震えながら神頼みをしていた。
万事尽くした後、最期は運に任せるしかない。
俺は死にたくない。
「let's make this easy……hello boy……」
扉の錆びた蝶番から出る金属音と共に大男の気味の悪い声が聞こえてくる。
―――入ってきた。
頼むから……来ないでくれ……。
大男の重い足音がトイレ内に反響している。
トイレの個室を端から開けていくつもりなのだろう。
何かの気まぐれで俺の所だけ開けないでくれ……頼む。
「where are you♪」
少しだけ抑揚のある陽気な声でその言葉を発すると同時に大男は一番目の扉を開けた。
当然そこに誰もいない。
「where are you」
先程とは打って変わって抑揚のない声に変わった。
二番目の扉を開けたようだ。
当然そこにも誰もいない。
「hoo……where are yoooooow!!!」
大男は酷く激昂した様子で叫び始めた。
三番目の扉を乱暴に開けるがそこには誰も居ない。
次は四番目の個室……そこには俺が居る。
そのまま激昂して出ていってくれ。
「……well」
しかし大男は落ち着いた様子で小さく呟き、無言になった。
もしかして……出ていったのか?何も音がしない。
と思った矢先、重い足音がトイレ内に響き、目の前の扉で止まった。
……すぐそこに居る。下を見てみると大男の足が見える。
「……っ」
俺はあまりの緊張に、重くねっとりとした唾を飲み込んだ。
大男は扉の前で何をしているんだ。
なんの行動も起こさずただ扉の前に立つという理解できない行動に俺は得も言われぬ恐怖を覚えた。
じっとりと汗が滲む。
違和感しかない。
本当に何をしているんだ。
先程から足が1ミリも動かない。
何故ヤツは……大男は動かないんだ?
―――ん?
その時俺は自らの言葉に引っかかり、その意味を理解した瞬間、全身の肌が総毛立った。
―――戦慄
大男……俺は……上を……見てみた。
「hello」
大男がいた。
ヤツは低い声を発すると、ニチャリと口角を上げ笑い始めた。
「―――hyahyahyahyahyahyahya!!!」
―――ドンドンドンドンドン!!!
大男は興奮した様子で扉を激しく叩く。
「found you!!!killkillkillkill!!!hyahyahyahyahya!!!」
「やめてくれえ!!もうどっか行ってくれよ!!!」
もう嫌だ……これはきっと夢だ。覚めない悪夢はない。頼むから早く覚めてくれ。
―――ガシャァン!!!
目の前の扉が粉砕した。
大男が立っている。
便器に座り怯えきっている俺を直立不動で見ている。
「DAAAAAAA!!!hyahyahyahyahyahya!!」
大男は右手に持っていた斧を両手で持ち、俺の頭めがけて真上から振り下ろす。
……嫌だ死にたくない。死にたくない。
「うわぁぁぁぁぁぁあ!!!」
「―――あああああああ!!!」
「wow!……haha,are you okay?」
目を開けると、そこは見慣れたRedLineのAshmont行きプラットホームだった。
どうやら俺はベンチに座って眠っていたらしい。
隣に座っている白髪のお婆さんが、大声を出して目覚めた俺をゆったりとした口調で心配してくれていた。
「ya……yah……I'm okay,I appreciate your concern,haha」
「alright,I'm glad hear that」
お婆さんは優しい笑顔を浮かべ、手に持っていた本の読書を再開した。
「ふぅ……」
あれは、夢だったのか。
いや……そりゃそうだよな。うん、良かった。
周りを見渡して見ると人が居た。
数十人と言ったところだ。
やっぱり人がいるってのは温かいな。
あ、そういえば今何時だろう。
時計を見てみると23:20、Ashmont行き出発時刻の10分前だ。
……となると、いつから夢だったんだ?
俺は……本当に夢から覚めたのか?これも夢なんじゃないのか?
流石に考え過ぎか。
「おっと」
プラットホームに横付けされていたAshmont行き電車の扉が開いたのを皮切りに、待っていた人達がゾロゾロと車内に入っていく。
それを見て俺も乗車する。
先程のお婆さんも俺の後に続いてゆっくりと電車に乗り込んだ。
眠っていたはずなのに、悪夢を見たせいか余計眠くなった気がする。
このままだと……また……眠っちまう。
―――ガタン……ガタン……
「……ん?」
あぁ電車か。
寝ている間に発車していたらしい。
今どこだ?と思った頃にちょうどアナウンスが流れた。
―――The next stop is Ashmont,transfer is avairable to the Matappan trolley train
おお!素晴らしい!寝ている間に早くもAshmontまで来ていたとは。
アナウンスが流れたすぐ後に電車は無事Ashmontに到着した。
―――As you exit,please be careful of the gap between the platform and the train
俺は電車を降りると、ちょうどmatappan行きのPCCカーが停車しているのを見て、掲示板に貼ってある時刻表を確認した。
すると5分後に出発するという事だったのですぐさま乗り込んだ。
5分は意外と短いもので、外を見ていたらあっという間に出発した。
俺以外の乗客は5人、やつれた男、ふくよかな男、スーツを着た眼鏡の男、化粧の濃い女性、目の下のくまがヒドい女性、といったメンツである。
彼らは一様にスマホをイジっているが、俺はジェニファーから貰った勉強ノートを見ていた。
明日もバイトだ。ジェニファーに会えるのが楽しみで仕方がない。
何の為にアメリカに来たのかという問いに対して、俺はジェニファーに出会う為にアメリカに来たのだと言えてしまう程ゾッコンである。
困ったものだ……この想いを抑えるにはあまりにも恋心が肥大しすぎてしまった。
明日にでも愛の告白をしてしまおうか。
いや、さすがに勢い任せも甚だしいか。
もっと冷静にならなければ……とはいえ直情的になるのも仕方がない。恋とはそういうものだろう。
「はぁ……」
そんなこんなでCentralAvenueに着く頃には他の乗客は皆降りていた。
駅が近づいてくると、プラットホームに人が立っていた。
こんな時間にCentralAvenueからどこに行くと言うのだ。
まぁ人の事情に踏み入る事もないか。
「thank you」
「ya,take cere」
電車が停車すると、ICカードでお金を支払い運転士さんに感謝を述べた。
家帰ったら何しようかなー、ジョナサンと酒でも飲みながらゲームするか。
電車を降りると、冷たい夜風が吹いてきた。
無機質なニオイが体感でない別の冷たさを感じさせる。
まぁそんな事はどうでもいい。
「さっさと帰―――」
「hello」
お読みいただいた方、どうだったでしょう?
怖かったですか?
僕は結構怖かったです。
知らない大男の外国人が、というかこの場合自分が外国人なんですけど、直立不動で話しかけてきたら怖くないですか。
一応僕の中での殺人鬼の設定は概念、というかあやふやな幻というか、実在しないものとして考えています。
皆さん夢の中で夢を見た事ありますか?僕はあります。あれって気持ち悪いですよね。
この作品の殺人鬼は、假屋賢人のストレスを餌に生まれたコンセプトです。
英語学習へのプレッシャー、英語への恐怖感が、体が大きくて英語を話す殺人鬼を呼び寄せたのではないかと、僕は思っています。
もちろん解釈はそれぞれですので、ご自由に想像なさってください。
後書きまで読んでいただいた方、誠にセンキューでございます☆