「汚物と銀杏と銀蠅」
前回のは、決意表明みたいなものでしたので、今回から本文です。
日常のくだらない与太話です。小説にしにくいテーマをだらだら書いております。
秋である。
わが大学の秋の風物詩はイチョウ並木だ。扇形の葉が黄色く色づき始め、一面に広がる様子は圧巻だ。教室窓から眺めると「あー昔の学生もこの並木を見ていたのかなぁ」などと情緒的な気持ちになり、ノートをとる手が止まるというものだ。
そして黒板に目を移せば、教授がまだ写せていない内容を消していく。世のはかなさを思えば、より一層センチメンタルになることができる。
しかし、ノートをとっても何を言っているかわからない授業なのだから、わからないことに心を痛めるよりイチョウの美しさに心奪われる方が精神衛生上いいのではなかろうか。なかろうね。
かように私の心を乱して止まないイチョウであるが、困ったこともある。
ご想像通り、銀杏である。
炒って塩を振ればいいツマミになるし、峯田和伸のことは愛してやまない私であるが、あの臭いはたまらない。
臭い。ものすごく臭い。ずっとローファーはいてた足の裏みたいな臭いする。いや、もっとダイレクトな言い方をすれば、う〇こ臭い。
教室の外はもちろんのこと、教室内も何となく常にう〇こ臭い。おそらく、誰かが銀杏の熟した身を踏んずけて、臭源を持ち込んでしまったのだろう。本当、たまらない。
何とか換気をしたいところであるが、窓を開けようものなら外からより強い臭気が吹き込んでくる。エアコンも効果は薄かろう。結局我々にとれる手段は「我慢」しかない。
それにしても臭い。この臭さは少し異常だ。
世界が臭いのか?それとも私が臭いのか?
そっと、靴の裏を見てみると、そこにはつぶれたて液状になった実がくっついていた。擬音語を使えば「ぐじゅぐじゅ」といった塩梅である。
Oh……。
臭いのは私だった。テンションの低下具合はジェットコースターのようだった。ほとんど乗ったことないけども。
仕方なく私は、そーっと教室の外に出て、靴の裏を洗うことにした。
靴の裏にくっついた銀杏の実を水道で洗い流していると、ふと疑問が浮かんだ。
あれ、これ実は本当はう〇こなんじゃ?
そんなはずはない。が、証明もできない。形はぐじゅぐじゅでよくわからないし、色だってほとんどなくなってうっすら黄色いだけだ。うっすら黄色いう〇こなんて下痢したときはしょっちゅう出ていた気がするし。何より臭いはほぼ同じ。あれ、どうやって証明すればいいんだ?そこら中に銀杏が落ちているから、というのは状況証拠に過ぎない。その中に本物のう〇こ(いや、偽物なんてないけど)がないとは限らないではないか。というかそもそも、銀杏だったら踏んでOKで、う〇こだったらダメという理由もよくわからない。臭くて汚い見た目なのはどちらも変わらないのだから。
今ここに、銀杏≒う〇こという暴力的かつ革新的な公式が完成した。
あれ、じゃあイチョウの木ってう〇こ発生装置じゃ?
そう考えると風情などすべて無視して切り倒すべきではないのか?路上にう〇こばらまくような木、いかんだろう。そんな木が認められるなら、キャンパス内でならどこでもペットにう〇こさせてもいいことになるではないか!いかん。キャンパスの治安が乱れる!!今すぐにでもすべてのイチョウを切り倒さねば!!瞬間的に義憤にかられた私だが、ふとこんなことを考えてしまった。
う〇こってどこからう〇こなのだろうか。
文字通りクソどうでもいい話である。が、ちょっと気になる。自分の身体から排出された瞬間にう〇こ?身体の中にある間は身体の一部?
あれ、じゃあ境界線はどうなる?今まさに外に出ようとしているにも関わらず自分の身体の中に残ってしまった哀れな残骸も私の身体の一部なのだろうか?
いや、う〇こである以上身体の中にあってもう〇こなのだろうか。だとしたらあんなに忌み嫌う理由もよくわからない。だってあれは自分の食べたもののなれのはてではないか。また、自分の大腸や小腸の老廃物も構成要素だ。ということは、あれの正体は私の内臓の一部ということになる。
う〇こ≒自分が食べたもの+内臓の一部
こう書き換えるとそんなに汚いイメージはない、ように思える。個人差はありそうだが。しかし焼肉なんかで動物の内臓を食べることに抵抗のない人間は多いようだし。
じゃあお前はう〇こを触れるか?食べられるのか?と問われればもちろん御免こうむりたい。
では、う〇こをう〇こたらしめているのはなんだろうか。当たり前すぎて書くこともはばかられるがあえてはっきり言おう。
見た目と臭いだ。
何でできているかわからない形態、いろんな色が混ざった結果の汚い色、ひどい悪臭。
これさえなければOKだ。身体の中にある時これらはわからない。だから身体の中にある間はう〇ことは言えない。
そうか。汚くて臭いものは表に出してはいけないのだ。自分の身体の中にとどめておかなければいけないのだ。外に出した瞬間、そいつは忌み嫌われる。触るどころか近寄ることすら嫌がられる。存在する意味すら見いだせず、異臭を放って朽ちていく。たかる銀蠅たちにさえ手を合わせられる。そんな自分の汚い部分は絶対に表に出してはいけない。どうしても出したい時は誰にも、見えないところに押しとどめ、水に流して、まるでなかったかのようにふるまわなければならない。それが、生きるマナーだ。
当たり前のこと過ぎて、そんなこと考えたこともなかった。が、一つの疑問が前に進むと新しい疑問が生まれるのが学問の常だ。
それでは、自分のつまらん部分や汚い部分まで、その全部を表現しようとしてきた、文学や音楽や映画は何なんだろう。やっぱり、汚物なのだろうか。そんな汚物に心を打たれた私は、銀蠅に過ぎないのだろうか。じゃあ、今書いているこの文章は銀蠅の汚物なのか?それは誰も寄ってこなくて当然だ。私の人生なぞ、足の裏につく銀杏の汁ほどのものだ。少しだけ自虐的な気分になる。考えすぎだ。私にはこういう癖がある。生きる間に自虐の種を見つけては面白がる気色悪い壁があるのだ。
それでも。
私は洗い終えた靴を履きなおし、キャンパスの通路沿いに広がるイチョウの木を眺めた。
イチョウの黄色は教室の窓から見るよりもずっとずっと鮮やかで、美しかった。
私は、熟した実を踏まないように、臭さに顔をしかめながら、そうやって眺める一面の黄色を丸ごと全部美しいと思った。
あー。こうやって生きれたらいいな。なんて考えるのはセンチメンタルすぎるだろうか。
帰りに銀杏、いくつか拾ってみようか。食べたら、私の身体の中でイチョウが育ってくれるかもしれない。そしたら銀杏みたいなう〇こが出るかもしれない。
それはなんだか愉快なことに思えた。